渇いた花-3-

本当にラケシスに必要だったものが、一体何だったのかは正直言うとわからない。
だから、俺は俺のやり方でしかあの女を構うことは出来ないし、そしてそれが正しいのかどうかもわかりやしない。
俺が朝いくことを止めても、ラケシスはもう二度とは俺の部屋に自分からは訪れなかった。
けれど、その晩に眠る前の挨拶にいくと、やはりそういう日はほっと安堵の表情を浮かべる。それを可愛いと思うよりも先に俺は哀れみを感じてしまうのだ。
それでも、出来るだけ嬉しそうな顔を見せないようにと勤めるその努力だけは可愛らしいと思うし、どこまでも意地を張っているこの女がちょっとだけいじらしいとも思う。
決して俺には折れたくない、と思っているのだろう。それはとても好都合だった。
なぜなら俺が気をつけなければいけないことは、今度はエルトシャンの代わりに俺があの女のすべてにならないこと。
そればかりは俺一人が気をつければいい、ということではないから、あの女自体が俺を頼ることに対して警戒してくれなければ難しい。
嬉しそうな顔をしては見せるけれど、本当はそれは俺以外の人間だって構わないんだ。
ただ、俺がちょっとやり方がうまいだけで、誰だって本当はあの女の気持ちを開くことは出来るのだと思うし、思い込もうとしていた。
・・・そう、俺自身に言い聞かせなければいけなかったということは。
俺の方がかなりの重症だったってことなんだと後から気付いたが。

「何してる」
11日目の朝。
それまでは、決して俺はあの女の部屋には踏み込まず、扉をあけた向こうとこちら側だけでの会話しかしていなかった。
俺がノックをすると「開いてるわ」とだけ答えて、ラケシスは扉の側にもこなかい。
それは、部屋に入ってもいい、という意味なのだろう。
扉を開けるとラケシスはドレッサーの前の椅子に座って、花瓶から枯れた花を抜き取って、手で崩していた。
それはとても静かで、かさかさという音をたてているだけだ。
部屋に一歩踏み込むことを躊躇して、俺はラケシスに声をかけた。
「俺が、あんたの聖域に入ってもいいのか」
「許してあげるわ」
「そりゃどうも」
ラケシスは俺を見ない。
このセイレーン城に来たときにラーナ王妃の気遣いか、部屋には小さな花が活けられていた。
時折女中が差し替えていくけれど、ラケシスは誰も部屋にいれないのだからそれすらやらせてもらえなかったのだろう。
そして、やっと彼女はこの花の存在に気付いたというわけだ。
花瓶にはもう水がなく、干上がっていた。完全に枯れている状態だ。
「いくら泣いても、人間はこんな風にはならないのね」
「別になりたいわけじゃあないだろう・・・あんたは、死ぬ気はないんだから」
それにはラケシスは答えなかった。
「恐くないのか。また俺はあんたに触って、あんたの気を害するかもしれないぜ?」
手に口付けたときの拒絶を思い出す。
「お前は、そんなことをまたするつもりなの?・・・そんな男が、部屋に入る許可を丁寧に求めてくるなんて見上げたものだわ」
俺はラケシスがかさかさとつぶしていた花を全部掴んで、一気にごみ箱に投げ込んだ。
ラケシスは何も言わないで、自分の手に残った最後の一輪の花をじいっと見ている。他のものはみなしおれたひどい形で枯れてしまっていたけれど、彼女の手の中のそれは案外と形をたもったままで水分を奪われていた。
「これはこれで、綺麗だわ。命はもう、ないけれど」
「・・・あんたが、いくらぬけがらみたいになったって、その花のようにはなりやしない」
「そうなのかしら・・・そうね。喉が渇けば、水を飲むのだもの、当たり前だわ」
「枯れていない。でも、渇いているんだろうさ」
俺がそういって上からラケシスを見下ろす。ラケシスはゆっくりと俺を見上げた。
「何が、あんたにとって命を潤すものになるのかは、俺はわからない。それは、あんたが自分で探しすしかないさ」
「知ってるわ。お前は、わたしに何もくれやしないから。お前がそういう男だってことくらい、わかっている」
肩をすくめて、俺はラケシスのベッドに腰掛けた。
「なのに、お前はどうしてわたしに構うの。・・・ああ、そうか。シグルド公子に頼まれたのね」
「ああ、そうだ」
「そう。どうやら金の分は働いているようだわね」
いらないところに頭が回る女だ。それでもこういう皮肉めいた言い方でも言葉を返すことが出来るならば構わないと思う。
それきり、ラケシスは何も言わなかった。俺から目線をそらして、最後の花をつぶして、またうつむいた。
そのあまり芳しくない様子を見て俺は何か言おうとしたが、うまい言葉はみつからない。彼女の手の中からかさかさという音が聞こえて
きた。何度も何度も音をならし、最後にはもうこれ以上は崩れないのではないかというほどぼろぼろにしてしまったのだろう。
音すら鳴らなくなってしまった。
少し間をおいて、ラケシスは俺を見た。
「ベオウルフ」
「ん?」
「わたしに、剣を教えて頂戴」

剣を教えるのは構わなかったけれど、そのためにはまず食事をとって体を元に戻すことが必要だった。
体を動かすも動かさないもなく、栄養素を摂取する。そこから始まらなければいけないほどにラケシスの体の機能は落ちていた。
筋肉を維持するための栄養が不足しているのは目に見えていた。
驚いたことにラケシスは自分から、シグルド公子のもとへ謝りに行かないと、と告げた。
彼女がそう言ったことはとても大きな前進だ。
ついていってやろうか?とちょっとした親心を見せた俺に、予想通りに「何故わたしがお前についてきてもらわなければいけないの」
なんて言って突っぱねる。
それでも、あと2日してから。
そういったラケシスの次の言葉を聞いて、俺は単純に安堵してしまった。
「今みたいに顔色が悪くては、元気になりましたと言ったって説得力がないものね」
自分が他人にどう見られて、他人がどう評価するのか。
そういった当たり前のことを思い出してくれたことはとてもいいことだ。
誰かと食事をするか?と聞くと、今はまだ一人で食事をしたい、と答える。でも、もう少ししたら、迷惑をかけてしまったけれどもフュリーに来てもらいたい、と言う。
それは、この女なりの償いの意識だったのだろうか?そんなことは口に出して聞くのも面倒なことだったけれど。
少しずついい兆候が現れ、外に出ることも出来るようになり、俺以外の人間とも会話を話せるように回復したのは、結局一月もした頃だった。食事もまだ細いけれども定期的にとるようになった。ようやく栄養素を摂取してもらった体は正直で、始めは吐いたりもしていたのがようやく慣れ、肌のつやも戻ってきたように思える。
それからラケシスは心配していた仲間達一人一人に丁寧に詫びもいれにいった。
多少以前よりも口数が減ったけれど落ち着いた受け答えが出来るようになったラケシスを、みな、エルトシャンの死から立ち直って一皮むけたのかと思い込んでいた。
そして、それは俺までもが騙されていたことだった。

剣の筋は、よかった。
さすがエルトシャンが基礎を教えただけのことはある。それは素直な感想だった。
が、それにしたってラケシスは剣を教えれば教えるほどそれへ傾倒していって、正直いうと病的なほどにその行為を繰り返していた。
力こそは強くないけれど、ラケシスの剣技はどんどん冴えてきて、(さすがにアイラやホリンほどの腕前になれるわけもないけれど)それと共に馬術の上達ぶりも目を見張るほどだった。
時間があれば馬を走らせ、半日は帰ってこないこともあった。一度ついていったノイッシュが驚いたようにシグルド公子に報告をしていたっけか。人は努力であそこまで変われるものなのですね、と。わたしももっと精進せねば、と。それはとても生真面目なあの男らしいと俺は思う。
まだ個人的にラーナ王妃と面談したことがなかったラケシスはシグルド公子につれられて今日はシレジア城にいって謁見をしてきたようだ。ラーナ王妃は「とても美しい姫君ですね」とシグルド公子におっしゃっていたらしい。
だというのに帰ってきてからすぐにラケシスは剣の訓練を俺にせがんだ。今日くらい休んでもおかしくはないのに。
「ラケシス姫は、まだ心が病んでいらっしゃるご様子ではないですか?」
クロード神父が俺に声をかけてきた。それは滅多にないことだった。・・・それが故に、どれだけ重要なことなのかがわかろうってもんだ。
「話をしていると、とても穏やかで感情の起伏が少ないように思えるのですが・・・そうではないのでしょう?」
「違うな。もとはかなりの我侭姫さんだ。・・・俺も最近、ちょっとやばいかな、と思ってはいたんだが・・・。神父さん、あんたは何が気になるんだい」
「どんな会話をしていても、本当はきっとあの方にとってはどうでもいいような・・・・口裏を合わせているだけのような気がしてなりません。れは、なんといいますか・・・あの方は誰かと言葉を交わすことを・・・仕事だと思っているような。もう、自分は大丈夫だと
みんなに知らせたいと・・・そう思っているような気がするのです」
「・・・あんたがそこまで言うなら、きっとそうなんじゃねえのか」
面倒なことだけれど、それは事実だった。
いつでも、いつ泣いてしまうのかと思うような表情をしている。それでも、表面上では何もないように振る舞い、誰からも疑われない程度にこなしている。
けれど、そんな器用なことがあの女に出来るわけがないんだ。
(・・・バランスなんだろうな)
剣をふるうことに傾倒したのは、多分、どこかで狂ってきたあの女に必要なことだったのだろう。
人の心の中なんて覗くことが出来ない。
それでも、途中までは自分で言うのもなんだけれどうまくいっていたと思っていた。
俺は舌打ちして考え込んだ。次はどういう手を使えばいい?
剣を教えるようになって、朝晩のあいさつをするのを俺は止めていた。日中だって一緒にいるってのに朝晩ともに挨拶にいくなんて、そこまで通い夫みたいなことなんてやっていられない。
けれど、なんとなく胸騒ぎがしてその日、俺はひさしぶりに夜の挨拶でもするか、とラケシスの部屋を訪れた。
そう言えば最近は、本当に剣を教えるだけだったような気がする。
それ以外の会話を俺とあの女がするよりも、あの女がもっと他の奴等と話をすることの方が大切なことだと思っていた。
だから、俺は出来るだけあの女と話をしないで、ただただ剣を教えていただけだった。
そのせいかラケシスも剣の練習以外で俺に話掛けることはなくなってきた。その方がラケシスのためだとも思える。
それでも、シグルド公子はいつまでたったって「ラケシスを頼む」と俺をお役目から解放する気はないようだった。
俺としたって乗りかかった船を降りるつもりはなかったが。

「おい、姫さん。いるんだろ」
ノックをするけれど、返事がない。
まだ時間は少し早い。
フリージからやってきたかわい子ちゃんの魔導師に聞いたら、ついさっき部屋にはいったのを見た、といっていた。
扉の下からだって、ほのかに灯りが見える。中にラケシスがいることは間違いない。
ドンドン、といつもよりも強くノックをする。
ラケシスはシレジアにきてすぐに引きこもってしまったのでそれを配慮して、となりと向かいの部屋には誰もいない。だからまあちょっとばかりいいか、と更に俺は強くドアをノックした。
「・・・だれ」
やっと返事があった。
「俺だ」
「・・・ああ・・・ベオウルフ・・・?」
もぞもぞと部屋の中で動く気配がした。それから少し間をあけて、ようやく扉が開いた。
「・・・なんだ、その格好は」
「うたた寝してたわ。失礼な格好でごめんなさい。でも、どうせ気にしないのでしょう」
現れたラケシスは、既に寝間着の状態で、けれども髪を少し濡らしていた。最近は毎日汗をかくので、以前より湯浴みをする日数が増えた。今の時間を考えれば湯浴みをしてもまだ寝るまでに時間がある。だからそんなにそれ自体はおかしいことではない。
開けた扉から見えたラケシスのベッドは、確かにうたた寝をしていたらしい跡がある。
「そんなに、疲れていたのか。鍛錬もいいが、明日からはもう少し楽なことをするか。それに今日はシレジアにもいったのだしな」
「いい。そんな心配は余計だわ。お前はそんなことを考えなくたっていい」
「そうはいっても」
ラケシスはとても静かだった。俺は中に入らずに立っているし、ラケシスも中にいれる素振りはみせなかった。
「何の用事?」
「ん?たまにはご挨拶でも、と思って。最近来てなかったからな」
ラケシスはじっと俺をみつめた。その表情が曇る。
「・・・どうした?」
「わたし、何かそそうをしてしまったの?」
「は?」
「何が悪かったの?ラーナ王妃の気に触ってしまったの?シグルド公子は何と言っていたの?」
「ちょ、ちょっと待て。それは関係ない。なんでそう決め付けるんだ」
俺は慌ててラケシスを落ち着かせる。そのラケシスの表情は今までみたことがない、不安気なものだった。ラケシスがそういう表情を躊躇しないで見せるなんてことは、今までありえなかった。
「おい」
ラケシスはとても真面目な表情になって、きっぱりと言い切った。
「だって、だからお前は来たのでしょう。他に理由が見当たらない」
「・・・は・・・他に理由、って・・・。俺があんたのことを気にかけてここにきちゃあ、おかしいっていうのかい」
あまりに生真面目にそんなことを言うから俺はちょっとおかしくなってにやけてしまった。が、当の本人は本気らしく、
「まだ、そうやって、騙そうとするの?意味がないことだわ」
「騙すってなんだよ?」
そう俺が返すと、ラケシスはすうっとクールダウンしたように表情を消した。
「・・・用事はそれだけ?」
「ラケシス」
「様子を見に来ただけなら、もういいでしょ。言ったはずだわ、うたた寝していたって。眠たいの」
そういってラケシスはドアノブを引こうとした。
嫌な予感がする。やっぱり、何かがおかしい。
俺は無理矢理ラケシスの部屋に押し入って、ラケシスの手に乱暴に手を重ねて扉をひいて閉じた。バタン、と大きな音をたてて扉が閉まる。ラケシスは驚いたように俺を見て唇をわななかせた。
「本当にお前は、失礼な男ね!」
手をひっこめるラケシス。俺の手の中にあったこの女の手はあまりにも小さくて、そして細かった。
「そうらしい」
「今度は一体何」
「・・・一体何、はこっちの台詞だ。どうしちまったんだ、あんたは。エルトシャンから解放されたのかと思ったら、あんたはどうも違う何かに捕われてるご様子だ。第一、なんであんなに剣の鍛錬を気狂いのようにやってんだ?」
「強くなりたいからだわ」
「それにしたってやりすぎだ」
「放っておいて頂戴。誰に迷惑をかけてるわけでもないのに、お前はまた知った風にわたしがすることに口を挟むのね」
ラケシスはそういって俺をにらんだ。それは確かに、間違っていない文句ではある。それでもそれを放置しておくわけにもいかずに俺は肩をすくめた。
「仕方ないだろう」
「何が」
「あんたが、心配なんだから、仕様がない」
「嘘つき」
「嘘じゃあ、ない」
けれど、ラケシスの視線は変わらない。俺を上目遣いで睨みつけて、それでも出来るだけ平静を保とうとしている様子がわかった。
「一体お前はどういうつもり。わたしの何に文句があるの。何も悪いことをしていないじゃない。出ていってよ」
「なんで、そこまで俺を避ける。あんなに毎日剣を習ってるくせに」
狭い部屋で逃げようとラケシスは体を動かす。俺は珍しくそれを押さえつけた。
荒っぽく腕を掴んで、ラケシスを壁にどん、と押し付ける。ここ最近筋力がついたこのお姫さんはかなりの力で抵抗をみせたけれどそれでも俺に敵うはずもない。もちろん俺だって危害を加えたいわけじゃあないから、出来るだけ痛くないように、と気は使っている。
「あんまり暴れるな。腕に跡が残っちまうぞ」
「ふざけたことを!お前が押さえつけているくせに!」
「言えよ。最近のあんたはおかしい。急に聞き分けがよくなって、我侭も減った。でも、そんなに人間の性質は簡単には変わりっこないんだ。何を意地になってるんだ?おい」
「離して。人を呼ぶわよ」
「別にいい。俺はシグルド公子からあんたを任されてるんだから。誰も俺の邪魔はしねえよ」
「・・・」
ラケシスはその言葉を聞くと、まるで親の仇(いや、きっとどちらかといえばエルトシャンの仇だろうが)でも見るような顔で俺をにらみ、足で俺の腹に蹴りをいれようとした。
お姫さまは、とんだじゃじゃ馬だ。それを無理矢理足で俺も押さえ込んで、顔を近づけてもう一度言う。
「一体、どうしたんだ。何を意地になっていい子ぶってんだ。俺が一体何を騙したっていうんだ。あんたは」
そのとき。
ラケシスは顔を俺の肩口に近づけてきた。と、思った途端
「うわっ!!」
俺は、肩のあたりが出た服を着ていたことを呪った。ラケシスは俺の剥き出しの肩に思いっきり噛み付いてきやがった。
「こんの、アマ!」
「!」
俺が叫んだ瞬間ラケシスはびくっと身をすくませて目をつぶる。多分、殴られる、とでも思ったのだろう。
本気で噛み付かれた肩からは、既に血が滲んできていた。歯ってのはかなり厄介で、案外人間が自分で思っている以上に本気になるとおそろしい力で生き物の肉くらいは噛みちぎるもんだ。
慣れた、それでも気分がいいものでもない感触が肩に伝わる。見えないけれど、きっとラケシスの歯がくいこんだところはところどころ血が出てきているに違いない。血管まで届いたなんて、高貴な生まれの女のくせに、やるじゃねえか。
俺はそんなことを思いながら目を閉じているラケシスに顔を近づけた。
それから、そっと。
この女が俺にそうしたように、ラケシスの肩に服の上からそうっと歯をたてた。加減して、まるでキスの延長のように。
ラケシスは、泣いていた。それは、痛みからの涙ではないのだろう。
「やめて・・・お願い・・・」
その声はか細くて、今まであれだけ言葉通り「噛み付いて」きていたこの女の言葉とは思えない。
俺はちょっとだけ唇を離して囁いた。
「俺に、言えないのか。・・・言えば楽になることじゃあないのか」
「なるわけがないわ」
泣きながらラケシスは言った。体が震えている。それでも俺は手をゆるめなかった。
「お前が、わたしの前からいなくなるしか、ないじゃない」
「・・・偉い嫌われ様だな」
力なくラケシスは首を横に振った。けれど口から出た言葉は違う。
「そうよ。お前なんか嫌い」
俺は、その言葉を心の中で反芻した。
そのまま俺はラケシスの首筋に唇を這わせた。それを拒む様子はかすかにあったけれど、力ないものだった。
ただ、ラケシスはどんどん涙だけをあふれさせ、鼻を赤くしてぐすっとならす。そっと右手だけを解放してやっても抵抗をしないで、目を閉じて顔をそむけるだけだった。
震えは止まっていない。泣いているから震えているのか、震えるほど動揺しているのかは俺にはわからない。
けれど、嫌な予感がした。
それは、俺にとっての予感と、ラケシスにとっての予感どちらもだ。ふう、と俺はらしくなくため息をついて、俺にしては優しくラケシスに言う。
「俺のことが嫌いか」
「そうよ・・・嫌いよ」
その声が、俺の予感を確信に変えた。
「・・・そうでいてくれるほうが、まだ、よかったのに」
「本当だわ。忌々しい・・・どうせお前は、わたしを馬鹿でどうにもならない女だと思っているに違いないし、シグルド公子の命令でなければわたしになんか構いもしない男なのに」
ああ、やはりそのことだったのか。
この女は本当に馬鹿で仕方がない。

シグルド公子に頼まれたのね

ああ、そうだ

たったそれだけのやり取りで、過敏になっていたこの女はあっという間に俺との間に線をひいたのだろう。
まるで、捨て猫を拾って、そして暖かい部屋になれた頃に捨てたような。
俺がこの女に対してした仕打ちはそれに近いことだったに違いない。
「・・・そうか。それがお前を傷つけたのか」
「思い上がらないで。なんでもお前はわたしのことを知ったふりをする」
「俺は、あんたを期待させてやったほうがいいのか」
「期待させるなら、誓って頂戴」
「何を」
「お前は、わたしの前から消えないで。それが誓えないなら、もう、わたしの傍にこないで」
「駄目だ」
俺はラケシスの耳を噛んだ。彼女の右手が俺の服を掴む。
「責任とれないことは、誓えない。いくらいい加減な男でもな。俺は、あんたが思ってるほどあんたの渇きを潤すことは多分出来やしないよ」
「本当に、お前は残酷な男だわ。頭がおかしい女への哀れみもないのね」
そういってラケシスは泣きながらも気丈に笑ってみせた。自嘲気味の笑顔を見せたかったのだろうが、それはまるで俺を誘うような表情になってしまっていた。
「あんたは頭がおかしいんじゃあねえよ」
ああ、なんていう強さだ。
とても弱くて、どうにもならない生き物だと思っていたのに、どうしてこんな風に歪んで強いのだろう。
「俺が気付かなければ、あんたはずっと黙っているつもりだったんだな?」
「誰が認めるものですか。・・・こんな、ばかげたこと」
可哀相なラケシス。
たとえ俺が本気でこの女を愛しても、抱いても。ずっと彼女は否定し続けるのだろう。人に、そして自分自身に。
「俺が口付けたらあんたは怒るんだろうな」
「当たり前のことを言わないで」
「そりゃ、悪かった」
そっと俺はもう片方の手を解放してやって、押さえつけていた足からも静かに離れた。
俺の肩の血はまだ止まっていなくて、ラケシスはそれをそっと触ろうと手を伸ばした。その指先に指を絡めて俺は静かに言うのだ。
「誓えないけれど、もう少しあんたの傍にいてもいいか?」
「・・・」
「シグルド公子は、関係ない。悪いな、あんたは俺が嫌いかもしれないけれど、俺はあんたのことは結構まんざらでもないようだ。・・・それこそ、嫌いだったほうが、マシだったのにな」
そして白い手の甲に口付ける。それから。
「本当に馬鹿な女だ。・・・それでも、女はちっとは馬鹿な方がいいに決まってる」
ラケシスは、俺のキスを拒まなかった。
無理矢理舌を絡めながら、それでもきっとキスが終わったらこの女は怒るのだろう、と俺はぼんやりと考えていた。
一体いつになったらこの女から本当の言葉を聞けるのだろう。
シグルド公子に謝らなければいけないな。
この人選は大失敗だったようだ。


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モドル

わかりにくさ重視で書いてみました。屈折してます。このサイトではこんなに屈折してる人たち初めてじゃーないでしょうかね。