渇いた花-5-

「何も、変わらないものね」
ラケシスは俺の部屋に来て開口一番そんなことを言った。
「あん?何が」
「・・・何かが変わるような、そんな気がしたのだけれど」
「変わりたかったのか?」
俺は飲みかけていた酒を戸棚の上においてラケシスの向かいに座った。
寝酒、というわけでもなく、ただなんとなく飲みたくなった、というのが今日の気分だった。最近そういや一人では飲んでなかったな、ってな気分でゆっくりと酒を味わっていたのだけれど、邪魔された、とは思わない。
「・・・そう・・・みたいね」
ラケシスはちょっとだけ頼りない表情をした。
それは、道に迷った子供そのものの表情で、あまりに今の彼女にぴったりすぎて逆にへどが出そうなものだ。
俺は呆れて頭をちょっと後ろに倒して、ラケシスを見ないで言った。
「がっかりだ。失望したぜ」
「ベオウルフ・・・?」
「まさか、マスターナイトにでもなれば何かが変わると思ってたのか?だけど、結局はエルトシャンがいない世界に変わりはないんだとがっかりしてるってわけだろう。あんたが今更そんなことを口に出すとは思わなかった。いい加減に夢から覚めたらどうなんだ」
「・・・夢だったら、その方が絶対いいわ」
「はいはい、そーだろうさ」
また、このお姫様は何を言いにここに来たのだろうか?
俺が慰めてやったり、この女が言うことを肯定したりすると思ってるのだろうか?
少しいらだって俺はラケシスを見た。そのとき、ラケシスは目をふせたまま言葉を発した。
「ベオウルフ、教えて」
「何を」
「私は、どうしたらいいのかわからない」
「・・・はあ?」
「次に私は何をすればいいの?何をすればあの人は私を好きでいてくれるの?」
「・・・バカなことを言ってるって自分でわかってるな?ラケシス」
「知ってる。そんなことはとっくに」
ラケシスは泣いてはいなかったし、感情が高ぶっている風でもなかった。
それは大した進歩だと思うけれど、言ってることがどんどん退化しているように俺には思える。
「俺が、なんであんたが何をすればいいかわかるってんだ」
「だって、考えてもわからないのだもの」
「考えてないんだ、それは」
呆れてそういう俺のことを、以前のように憎しみや怒りがこもった瞳でラケシスは見なかった。ただ、穏やかに言うのだ。
「エルト兄様が満足してくれるには何をすればいいか、しか、私は今まで考えたことがなかったから」
「・・・・」
「どうしたら、自分のためのことを考えられるようになるの。お前がいいたいことはわかってる。自分で考えろっていうのでしょう。でも、出来ないのだもの。どうして、みんな、自分だけのことを考えられるの・・・・?」
俺は何度か瞬きをしてラケシスを見た。どうもこいつが言っていることはよくわからない。
わからないけれど、エルトシャンが生きていても死んでいても、本当はこの女にはあまり変わりはなかったのかもしれない、と俺はちょっと思ってしまった。
「あんたは、シレジアに来てから一人でエルトシャンの死に浸って色んな人間に迷惑かけてこもりっきりだったじゃねえか。あれは自分のことだけを考えていたんじゃねえのか」
「きっと、そうだったのでしょうね。じゃあ、ベオウルフは、あのときの私に戻ればいいと言ってるの?」
「違う」
「じゃあ、どうすればいいの」
どうやらラケシスは本気で言っているようだ。
「エルトシャンが満足してくれることをしたい、ってことが自分のやりたいことだったんだろうさ」
「・・・じゃあ、それを考えて、続ければいいの・・・?もう、いくら思っても戻ってこない人のことを考えていればいいの・・・?それでもう、お前は私に文句を言わないのね・・・?」
「そういうことじゃあ、ない」
「だって、私の想像には限界があるのだもの」
ラケシスはうなだれていた。
「もうここにいないあの人のことを思い出して、きっとこうすれば喜んでくれる、こうすれば誉めてくれる、今までずっとそう思って何もかもやってきたけれど、もう、記憶の中のエルト兄様は私に何も教えてくれない」
それだってどれだけ馬鹿げた発言なのか、本当はラケシスもわかっているに違いない。
人の記憶はどんどん薄れてゆく。エルトシャンとの新しい時間がこの世界に存在しなくなったということは、今、ラケシスの頭の中に残っているエルトシャンだけが唯一この女の生きる道標になってゆくのだろう。
それでも、人には忘却という機能があって。
この先エルトシャンの記憶は少しづつ薄れてゆくことがあっても増えることがない。その記憶を細々と頼りにしてこの先この女がエルトシャンのためだけに生きていくことが出来るわけもない。
言ってることは、頭がおかしくて、退化しているようにも思えたけれど、これは前進なのだろうか?
今、この女はエルトシャンの呪縛から自分を放とうと必死にもがいているようにも見えた。見えたけれど、それでもどこか俺には釈然としない。本当にそんな風にラケシスは思っているのだろうか。
「何も、変わらないってのは・・・あんた自身のことなんだろう?」
「・・・」
否定はしなかった。
静かに前髪をかきあげて、ふう、とラケシスは息をはいた。
「それでも、多分、こんなことを言うのは、やっぱりエルト兄様のせいだわ」
「・・・そうなのか?」
「生きろとエルト兄様はおっしゃったから。だから・・・あの人が私にそう言ったから、私は生きていくための手段を今考えてるんだわ。例え、そのためにエルト兄様との思い出を斬り捨てたって、あの人の面影を追うことを止めたって、あの人が、私に、生きろっていうんだから」
ああ、そういうことなのか。
それがラケシスの本音なのだろう。
「あんたにとって」
俺はラケシスを覗き込むように、憐れみを含んだ声で言った。
「エルトシャンは、本当に、神様だったんだな」
「そうよ」
「創造主を失っては、どうしていいかわからないってとこか」
「そうよ」
「それでも、生きていけとあいつは言った」
「そうよ」
それ以外の言葉を忘れたかのように、やたらと無機的にラケシスは言葉を繰り返す。けれど、それが適当に返している言葉ではないことぐらいは俺にはわかる。
「だから、教えて頂戴、どうすれば、私は私がどうしたらいいのかを考えられるの・・・?」
「あんたが何を難しく考えているのかわからんが」
俺は肩をすくめた。だけど、それは馬鹿にしているわけではない。本当にこの女はわからなくて途方にくれて、そして俺なんかに頭を下げにきたのだろう。
それに、この女はやっぱり前進しているのだと思う。
以前ならばきっと、エルトシャンが神様なんだろう、なんて言ったら言葉どおり噛み付いてきたっておかしくなかっただろう。
それを素直に肯定できるってことは、自分のエルトシャン信仰とも言えるけったいな依存癖を自分で理解したってことだ。
どうやって前進したのかは、なんとなく理解出来た。
人間は誰だって失ってからでなきゃあ、自分の周りにいる人間とどれだけ自分が近しい間柄だったのかわかることはない。
もちろん、遠い間柄だった、ってことだってある。そいつが死んだって心が動かなかったり、どうでもいいと思えることもあるだろうし、この女のように気がふれそうになることだってあるだろう。
俺のような人の生き死にをいやってほどみてきた人間だって、心を揺さぶられる人の死だってあれば、昨日までの仲間が目の前で死んでも心が動かないことだってあるんだし。
失わないとわからなかったことをラケシスは少しづつ、少しづつ、時には人に当り散らして、時には俺に叫んだり、そして剣をふるうことでなんとかバランスをとりながら消化してきたのだろう。
「喉が渇けば水を飲む。あんたは前にそういってたじゃねえか。それと同じだろ」
「・・・」
「朝起きてから、やりたい、必要だ、と思ったことだけをやってりゃいい。あんたがなんでもかんでも何をしたらいいのか、なんてことを考えていること自体が俺には理解できないね」
「お前は、何が私にとって命を潤すものになるのかわからないと言ったわ。そして、それは自分で探すしかないって。だから私は探そうと・・・」
その言葉に俺は絶句した。
正直いってこの女がそこまで俺の言葉を覚えていて、考えているなんてことを想像もしてやいなかった。
「それは、そういう意味ではなかったの?何をしたらいいのか、考えることではなかったの?」
「・・・気付いてないのか。あんたはもう、そんな段階を終えてるように俺は思うけど」
「え?」
「あんたは、エルトシャンのためだけれど、それでもエルトシャンを捨てるために、何をすればいいか途方にくれてここに来たんだろ」
「・・・多分、そうなんでしょうね」
それは、まだ多少抵抗がある言い草だったのだろう。ちょっとラケシスは声を小さく答えた。
「でも、そうやって生きていこうと決めたんだ、あんたは。自分で、考えて、そう、決めたんだろ」
「わからない」
「わからないわけは、ない。そうやって生きていくことで、エルトシャンのことばかり追い求めてた自分から変わろうとしてるんだろうが・・・それは、恥ずかしいことでも惨めで不誠実なことでもない。あんたが、思ってるほど、辛いことでも情けないことでもなんでもないぜ」
その俺の言葉にラケシスは息を呑んだ。
ああ、やっぱりな。
俺は嫌というほど納得した。
人間は、とても心許ない生き物で。
死んでしまった人間との思い出が多ければ多いほど、そいつを愛していると自分で思っていれば思っていたほど、その相手がいなくたって自分の生活が変わらないってことや、その相手を失っても代わりを探してしまって何の不自由もなく生きていけることに愕然とする。
自分が、そうであることがまるで裏切りのように。
獣なんかは生きる死ぬの世界に常にいるから、我が子が命を奪われて動かなくなれば悲しむものの翌日からは何もなかったかのように変わらず生活を続ける。人間は、自分達がそれと同じような動物だとは思いたくないのだろう。
ラケシスは、唇をかみしめて、それから恨めしげに言った。
「なんでお前は何でも見透かした風に言うの。悔しいわ」
「悔しいか。そりゃ結構。そういう感情があるのは悪いことじゃあない」
「ベオウルフ」
「うん」
「恐い」
「そうか」
「恐い」
そっと自分で自分の体を抱くようにラケシスは腕を前で組み合わせた。
立ち上がってラケシスの隣にいくと、抱きつくわけでも何もなく、椅子に座ったままでそっと俺の腰のあたりに頭をかしげてきた。
「たまには慰めて頂戴」
「たまには、か。わかっていらっしゃるようだ」
ラケシスの「恐い」という言葉には、一体どういう意味があるのかはわからない。想像だけならいくらでも出来るけれど。
けれど、それを俺の口から言うのはなんとなく躊躇われたし、何もラケシスが説明をしないところを見ると、あえて言葉にはしたくないことなのだろう。
まるで子供が、少しづつ自分の体の変化にとまどうように。
ラケシスはもう一度、恐い、と口に出してから目を閉じた。俺は左手でぽんぽん、とラケシスの頭を軽く2回叩いてやった。

翌日、ティルテュがきゃっきゃっ、と女の子らしい声をあげてフュリーと一緒に通路を歩いていた。
「よお、楽しそうだな、お嬢さん達」
「あっ、ベオウルフさん。うふふ、楽しそうでしょ?」
そういってティルテュは癖らしく小さく左肩だけをあげてみせた。二人の手には小ぶりの木箱があった。
「なんだ?それ」
「内緒っ。男の人には関係がないものよ」
「へえ?」
「でも、アイラ様とブリギッドさんにも関係なかったようですね」
苦笑するフュリー。ティルテュはくすくす笑って
「違うよ、フュリー。二人とも照れてただけだもの。ブリギッドさんはずっと海賊達を仕切ってたくらいだから、女の人らしい生活とかしてなかったんだもの、戸惑うのも当たり前よね」
俺はますますその箱の中身が気になって、じいっと見ていた。くすくすっとまた可愛らしくティルテュは笑い
「ラーナ様からお届け物なの。ほら」
いいでしょ、とばかりに開けて見せてくれたその箱の中には、花びらを集めて加工した練り紅と、新しい香油がはいっていた。
やっぱり女なんだな、と思う反面「アイラとブリギッドには関係ない」というのもおかしくなって俺は笑ってしまった。
「なあに?ベオウルフさんどうして笑ってるの?」
「いやあ・・・あのイザークのお姫さんはなんて言ってたんだ」
「え?似合わないから、いい、って。でもいつも本当は薄くつけているのに。きっと、受け取るのが恥ずかしかったんだと思うの。おっかしいよねー、お姫様なのに」
「もう片方のお姫様はどうした」
「これから届けにいくの。どの色が似合うかなあ、ラケシス様は」
ティルテュは屈託なくそういったけれど、フュリーは小さく微笑むだけだ。
「最近、顔色いいみたいだから、どの色も似合いそうね。ベオウルフさんはどの色がラケシス様に似合うと思う?」
「はあ?俺か?・・・・こればっかりはわからねえな。そういうのは本当に女の子のためのもんだからな」
「ふううん。さっきねえ、アレクに見せたら勝手に、これが似合うんじゃないか?とか勧められたよ」
「あはは、あいつならいいそうだ。しかも、無責任に」
「うん。でね、シルヴィアはクロード様に見せに言ったのに気付きもしなかったって怒ってた」
ぶはっと俺は噴き出してしまった。あのおっとりした神父はきっとシルヴィアが髪の毛をおろして紅をつけたところで気付かないのかもしれない。
「で、あんたの彼氏はどうだって」
「アゼル?まだ見せにいってないよ。でも、きっとアゼルはすぐ気付いてくれるもん」
「へー、お熱いことだな」
フュリーをちらり、と見るけれど彼女は相変わらず多くは言わない。ただ、頬を染めて小さく笑顔を見せるだけだ。
この天馬騎士はシレジアの王子であるレヴィンに懸想しているけれど、どうもそれがうまくいってるのかいってないのか実は俺はよくわかっていない。
が、多分この仕草を見ればまんざら悪い感じでもなさそうだ。
同年代の女の子達は、みんなこうやってちょっとしたことで嬉しいこと、楽しいことを探す術に長けている。女の子ってのは元来そういうものだ。
俺はそっと、ラケシスが紅をさす姿を想像して、なんだかそんなことを考えちまった自分がこっ恥ずかしくなった。
どうも、やっぱり、俺はなんだかんだいってラケシスを気に入っているようだ。
「ベオウルフ、ここにいたのか」
そのときキュアン王子が通路の角から姿を現して俺を呼んだ。じゃあね、とティルテュ達は去っていく。
「ああ、何かあるかい?」
「頼みがあって」
「うん?」
「私たちはもうすぐ国へ帰ることになっているのだけれど」
「そうみたいだな。残念だぜ」
「残念!?」
素っ頓狂な声でレンスターの王子は殊更にびっくりしてみせた。なんでそこまでびっくりされるのかわからなくて、逆に俺は目が点になってしまう。
「なんだ?」
「いや、君がそんなことを言うとは思わなかった。びっくりしたよ」
「何いってやがる。最初に俺を買ったのはあんただろ」
今でこそシグルドの大将に雇われている、という形でこの軍にいるけれど、そもそも一番最初に戦の最中、俺に話し掛けてきたのはこのキュアン王子だ。
ま、どうも納得いかない戦だったからこっちも寝返りたいとは思っていたんだけれど、ぽん、と1万G景気よく俺を信用して袋ごと投げてよこしたこの王子の気前のよさにはびっくりした。
王子だからか、と後で思ったりもしたがどうやらそういうことでもないらしい。
レンスターといったら確かに緑豊かな国だけれど、隣国のトラキアからの侵略を常に警戒し、国境ではトラキア兵から土地を強奪される者もあって兵力強化がいつも課題になっている問題が山ほどある国だ。
1万Gくらいどうってことない、なんていう簡単な話ではなく、それはキュアン王子自らが闘技場にはいって稼いだ金だとあとで聞いた。
だから、本当はシグルド軍ではなくて、俺の雇い主はキュアン王子のはずなんだ。
まあ、きっと後からシグルド公子から1万G分貰ったんだろうけれど。
「買った、なんていうと人聞きが悪いけどな」
ははは、と声をたててキュアン王子は笑顔を見せた。
「この軍で今まで一番戦の経験があるのは傭兵だった君だ。レンスターに戻る前に、フィンをもう少し鍛えたいのだが、実戦経験が豊富な君の方がうってつけだと思って、短い時間だけどお願いしたいと思ってたんだ」
「俺に!?おいおい、槍と剣じゃあ勝手が違うぜ」
「ああ、だから馬術だけでいい。ラケシス姫への手ほどきを見ていれば、君が案外人にものを教えるのが上手いってことがわかる。レックスに頼もうかと思ったんだけど、彼は今、アゼルの特訓に付き合っているからね」
「ああ、そうか」
確かに。もともと魔導士だったアゼルは、シレジアに来てからマージナイトの称号をもらって馬に乗る魔導士になった。とはいえ、すぐに馬に乗れるわけでもなく、最近はレックスが練習をつけているようだ。
「ま、ちっとだけならいいぜ。根性がないやつはすぐ見捨てるからな」
「ありがたい。一応離れた国にいても私には私の仕事があるもんでな。君には色々苦労をさせてすまないな」
「苦労?」
「ラケシスのこととか。・・・今思えば、あの戦場で君を仲間にしていなかったら、我々は途方にくれていたと思う。それはシグルドだって同じことを考えているさ」
「・・・よせよ、そういう話は。意味がないことだ」
それは、多分本当だろう。
そういう意味では俺はラケシスのみならず、シグルド軍にとっては大層ありがたい存在だったってわけだ。
「あんたが、貪欲に闘技場で稼いで金を持ってたからだろう」
俺がそういうとキュアン王子は笑った。笑って、最後に
「ラケシスを頼む。何も出来ないで、力になれなかったけれど、大切な友人の妹なんだ」
「・・・わーってるよ」
ああ、そうだろうさ、あんたは何もしてねえだろう・・・そんな悪態をつく気にはならなかった。そもそも、ラケシスの力になれるような人間はなかなかいやしないんだ。この王子は本当に真面目で、朗らかで、人当たりがよくて。そして奥方にベタ惚れだ。
多くの交流はもたなかったけれど、この男とあの戦場で出会ったのはきっと意味があることなんだと思う。
だって、エルトシャンの妹と俺をめぐり合わせたのも、俺とこの男の出会いだから。

「おい、姫さん、入るぞ」
「ま、待って!?」
キュアン王子と話をして、彼と一緒にフィンに明日からの予定を確認にいってから、俺は意地悪にもラケシスのもとへ向かった。
ノックもなく、彼女がドアを開けるのも待たずに入ったことなんて今まで一度もない。どうせ扉は鍵がかかっているんだし、と意地悪をしてがちゃ、とドアノブを性急に回した。案の定鍵はかかっていたけれど、ラケシスの慌てたような声がおかしくて俺は笑いをこらえる。
「不躾な男だわ。一体どうしたっていうの」
そういってラケシスはそっとドアをあけた。
「・・・なんだ・・・。悪い。ぬぐっちまったのか」
「えっ」
ラケシスの唇には薄く色が残っていて、こすったのかわずかに口端からその色ははみ出ている。
「俺に見せるのが嫌だったのか」
「な、何のこといってるの」
「あんたが、綺麗になったところを見に来たのに・・・お姫さんだってのに、こんな逃亡生活じゃあろくに化粧も出来なかっただろうしな」
ラケシスは絶句して俺を見つめた。
「ティ・・・ティルテュ達が・・・何か言ったの・・・?」
「ああ。それで、期待して来たんだけれど。・・・俺にはみせたくないらしいな。そりゃ、すまなかった」
と、あまり心にもないことを言うと、ラケシスは少し赤くなって
「馬鹿だと思う?」
「何が」
「・・・今更、綺麗にしたって・・・」
拗ねたようにそんなことを言った。多分、なんとなく恥ずかしくていたたまれなかったのだろう。ぐい、と唇を手でぬぐった。それは、涙をぬぐうときと同じで、なんだかあまり自分のことを大切にしていないような粗雑さだ。
「女は綺麗でいた方がいいに決まってる。綺麗で、ちょっと馬鹿なくらいの女が一番いい」
「・・・」
俺は断りもなくラケシスを押しのけて部屋に入った。それを非難する声に聞く耳を持たずに、ドレッサーの前にそうっとおいてあった、先ほどティルテュ達が置いていったであろう練り紅をみつけて、覗き込む。
「この色を選んだのか。あんたに似合いそうだ・・・俺には見せてくれないようだけど」
「別に、お前に見せるために塗ってたわけじゃあないわ」
また強がりをいってラケシスは俺を軽く睨む。それは、どちらかという断りもなく部屋に入ったことに対しての非難の視線だ。
「じゃあ、自分のためか?そいつはいいことだ」
「そ、そういうわけじゃあ・・・」
ない、と言おうとして、ラケシスは口篭もった。あまりに説得力のない言葉になることが自分でもわかったのだろう。
「じゃあ、エルトシャンのためか?」
はっという表情でラケシスは小さく目を見開いた。僅かに開いている口元は、まるで血を拭ったようにところどころかすれて紅の色がついている。余程慌てていたのがわかって、なんだか愛しいとすら思えてしまった。
「それは、違うわ」
「・・・なら、いい。その言葉だけが、今のあんたには必要なことなんだろうから」
「ベオウルフ・・・」
「それが、聞きたかったんだ。本音は。・・・じゃあな、悪い、邪魔したな」
「ま、待って」
俺が背を向けると慌ててラケシスは俺の左腕を後ろから両手で掴んだ。追求はしなかったけれど、左腕を掴んだのは、意識してのことなんだろうか?
「なんだ。あんたが俺を引き止めるなんてめずらしいことだな」
「そのまま、ちょっとだけ待ってて」
「うん?」
「こっちは向かないで頂戴。向いたら、二度と口をきかないわよ」
その物言いは子供のようで、噴出しそうになるのをこらえるのが大変だった。ドアの方をむいていたけれど、調度ドレッサーよりドア寄りにあった小さな棚の上に花瓶がおいてあるのが見えた。
前にここに来たときに、この花瓶にさしてあった枯れていた花をラケシスはぼろぼろに崩していた。あれは完全に枯れていた。水を与えられずにただただ枯れてしまった花で、原型を留めているものもあったことを思い出す。
「いいわ・・・こっち、向いて」
「んー?」
俺が振り向くと、ラケシスは予想通りそっと恥ずかしそうに唇に色を乗せてこちらを向いていた。
沈黙に耐え切れない、じっとみつめられるだけなのは耐えられない、といった風に慌てて
「おかしくない?似合わないかしら。わたし、変・・・?」
「なんで、悪いことばかりいってるんだか」
卑屈な子供のようだな、とまた俺は笑いをこらえた。
唇に可憐な色を乗せたラケシスは、お世辞抜きにだってべっぴんだったし、色も悪くない。あんまり誉めるのも嘘っぽくなるだろうから、俺はあまり多くはいう気はないけれど
「その方が、いい。なんてったって、綺麗に見せたい、っていう気持ちがある女性の方が魅力的だ。・・・自分では、どう思う?」
「・・・結構似合うと思う」
「はははは、自分でそう思えるならいいことだ。・・・自分で選んだ色なんだろ?まさか、エルトシャンが好きだった色だ、なんて言わないよな?」
静かにラケシスは首を横にふった。
「こんなときにまで失礼な男ね」
「そりゃ悪かった」
「お前は、どうなの。この色は・・・」
「あんたが自分で選んで自信をもって付けている色が一番いい。その色はあんたによく似合うよ」
俺はラケシスの右頬にそっと手を添えた。一瞬嫌がって顔を離そうとしたけれど、それからゆっくりと俺の手のひらにラケシスは頬を寄せる。
「生きてて、よかっただろ?こんな綺麗な自分に会えて」
「腹立たしいことを・・・」
まだ言葉が続いていたのだろうけれど、俺はラケシスに口付けた。軽く、それでも、優しく。
やがて体を離して、そっと彼女の頬から手を離した途端にラケシスは小さく、本当に可愛らしく笑った。
「・・・お前には似合わない色のようね」
「そーだろうな。似合ったら、困るだろう」
ぐい、と唇を拭う。
「とれたかな?」
「大丈夫よ」
「さっきのあんたみたいに色が残ってたら恥ずかしいからな」
「悪かったわね」
キスをしても心を動かされない様子を懸命にふるまっている。それでも、本当は唇を重ねるたびに今までも少し彼女が震えていることはわかっていた。でも、俺はそれについては何も言わない。
それから、消え入りそうな声でラケシスは、ありがとう、と言った。俺は簡単にうん、とか適当な返事をしただけだったけれど。
ドアに近づいて、じゃあな、と声をかけようと振り返ったとき、ちらり、と彼女がドレッサーの鏡に映る自分に視線を動かしたのに気付いた。
俺はにやにや笑って、でも、本気で言った。
「心配しなくても、あんたは、綺麗だよ」
「・・・」
「俺は、美人には弱いんだ。あんたは綺麗だし、その口紅は良く似合っている」
そういって笑うと、もう一度小さくありがとう、とラケシスは小さく笑顔を返したけれど。
それは見る見るうちに泣き笑いになって、ぼろぼろと涙をこぼしだした。
「折角の美人が台無しだ」
「まったくだわ」
離れたばかりだったけれど、俺はそっとまたラケシスに近づいて、彼女の小さな体を引き寄せた。
「なんだ、一体何を泣いている」
「私、嬉しかったの」
「何が」
「今、お前に、誉めてもらって、本当に嬉しかったのよ」
「そうか」
「今まで、私の容姿なんて、誰に誉められたって当たり前で、嬉しいなんて思ったことがなかったのに」
それはちやほやされて育ったお姫様の傲慢な言葉とはちょっとだけ違った。この言葉の意味は俺はきちんと知っている。
エルトシャン以外の人間に誉められたって、嬉しくなかった、という意味なんだ。これは。
「ふざけてる。お前に誉められて、嬉しいなんて」
そういって泣き続けるラケシスのことが俺はまた愛しい気分になって、やれやれ、とため息をつきながらもラケシスの髪を何度も梳いて、そして軽くそれへ口付けた。
この感情が一体何なのかはまだ俺たちはよくわかってはいない。
花瓶にさしてある花は、今度はきちんと水を取り替えてもらっているようで生き生きとしている。
それと同じように、ラケシスは自分で自分を少しづつでいいから、潤してやることが出来るようになるのだろう。
泣きながら、もう一度ラケシスは言った。
お前に誉めてもらって、嬉しかったのよ、と。

Fin

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モドル

結局この二人はどうなったわけ?という声が聞こえそうですが、どうもなってないと思われます(苦笑)
一体どこからが恋なのか、愛なのかもわからないし、前回ベオウルフがぶつぶつ言ってるように、多分恋ではないし愛でもないのでしょう。ベオラケって、そういうところがあると思います。
そういえば書きそびれてましたが、彼らはまだ「あんた」「お前」ですが(笑)さすがにコドモが出来たら「お前」「あなた」になる予定でございます。父親が母親を「あんた」ってのも、母親が父親を「お前」ってのも子供の教育上・・・(笑)
この話はこれで終わりですが、まだこのサイトのベオラケは続きます。
レクアイよりもベオラケの方が、彼らの運命を最後まで書く予定なので・・・。