宿命の鼓動-2-

夜風が室内に入る。
月の明るい夜に、アゼルとレックスはザクソン城で誰もあてがわれていない手入れだけは行き届いた部屋で、そっと出窓を開け放したままでゆったりと過ごしていた。
久しぶりに軽く酒を飲み交わしながらアゼルはレックスの表情を伺っている。
いつ、どのように戦局に変化があるかわからないから、彼らは決して過剰に酒を飲む夜はない。ほんの一杯、とレックスはいっていたが既に二杯目を飲み干そうとしていた。
アゼルはそれを止めなかった。レックスはもともとそうは弱くはなかったし、酒に頼って何かを忘れる、とかそういうことが出来る人間はないということも知っている。ただ、なんとなく飲んでしまっている、という様子なのだろう。
「昨日、リューベック城から放たれた兵士二人を捕獲した」
突然レックスが口を開いた。
現在正規のシグルド軍は、なんとか彼らだけでザクソン以東の防衛ラインをひくほどの戦力はあっても情報収集をする斥候役が足りなかった。デュー一人ではさすがにそこまでのことはまかないきれない。
よって、付近のシレジア国民とラーナ王妃の厚意によって幾ばくかの兵士を借りている。その兵士たちはどれも若かったけれど、シレジアへの忠誠心については疑いようもない誠実さを持っていて、日々大層シグルド達のために働いてくれていた。そもそも彼らにとってはバイゲリッターの侵攻はまだ記憶に新しい。そうであればそのグランベルからの侵略をふせぐためにザクソン城の東の地にあるリューベック城への警戒を強めるのは国を守ることと同義だ。お互いの利が一致したということだ。
防衛ラインにはアレクとノイッシュを中心にした騎馬とシレジアの天馬騎士が常に交代で駐留していて、今回のようにグランベル側から放たれた斥候などを食い止めてくれていた。
アゼルとレックスも三日おきぐらいにはそちらに詰めていたし、シレジアの兵士達も交互にザクソン城と往復を続けている。
シレジア国民の中からは、シグルド達をかくまったせいでグランベルからの侵攻をうけたのだ、という声もいくつかあがっていたけれど、ラーナ王妃がそれを一蹴した。
遅かれ早かれシレジアで今回のような内乱が起こる要素はあったわけで、それを抑えられなかったのは王妃である自分の責任だと彼女は否定した。そして、バイゲリッターが天馬騎士団を破ったことは事実だとはいえ彼らが来なくともパメラ隊とマーニャ隊がぶつかればどちらも生きては帰れなかったことは容易に理解できるはずだ、と。
であれば、最終的にダッカー公を倒して内乱を終結してくれたシグルド軍達がいなければ、既にラーナ王妃の手からシレジアの政権は奪われていたに違いない。
それについて深く追求をすると、結局は王子であるレヴィンがしっかりと国に残らなかったからだ、とかさまざまな論議は巻き起こっていたがなんだかんだいいつつもシレジアの民は自分達が信じているラーナ王妃、そしてレヴィン王子をそれ以上非難することは誰も出来なかった。彼らもまた、失った物の大きさに気付いて、何かを糾弾することに救いを見出そうとしていただけなのだ。
それはラーナにもシグルドにも理解出来る、悲しい心の動きに他ならない。
「それで?」
「ま、なんてえことない斥候役だったんだけどな。あんまり大した情報ももってなかったし」
「そう」
「そのうちの一人がよ・・・知ってる兵士だったんだ」
「・・・」
それは今に始まったことではない。アゼルは表情を強張らせた。
グランベルの兵士と戦えば、彼らの知り合いが含まれていてもおかしくはないのだ。
「・・・勘違いするなよ、アゼル。別に、だからって情が湧いた、とかためらいがあった、とかじゃないんだ」
「じゃ、なんだい?」
レックスは少し下りている前髪を、苦笑しながらかきあげた。
「本気で、そいつは、親父が言ってる事を信じていた」
「ランゴバルト卿の?」
「ああ。まいったよ。俺が国にいた頃は、何度も俺と遠出をしたことがある、年が近い兵士だったんだけどな。何度も何度も親父が俺に、戻って来い、と書状を出したと聞いているらしい」
「書状を?ランゴバルト卿が?君に?」
アゼルはあんぐりと口を開けた。
アゼルはレックスの父親を知らないわけではない。更にいえば、レックスから聞く限りでは、非常にランゴバルト卿が野心に燃えるタイプで、そのためなら身内の死もいとわない人間だということも何度となく聞かされている。それはユングヴィのバイゲンリッター率いるアンドレイも同じだとアゼルは思う。
「そんな親心があったんだね。どんなことが書いてあったんだい?」
「バカ言え。んなもんが来るわけがないだろう、あのクソ親父から。大方、俺に敵対するのを躊躇する兵士を丸め込むための嘘八百だろう。・・・ここまで来たら、何もかもどうしようもないんだ。これから戦う相手が俺が知ってる兵士だろうが、そうじゃなかろうが。でも」
「うん」
「やつらは、騙されつづけながら戦って、そして俺たちに殺されていくのか、と思うと」
「・・・シグルド公子は、出来るだけ被害を広げないようにと考えているようだし・・・僕達に出来ることはそれだけだよ」
そうでなければ、自分達が犠牲になるしかない。けれど、それは出来ない話だ。
「例え僕達がそれに対して情けをかけて、武器を捨てて投降したって何一つ解決しないんだよ」
「そうだな」
「罪もない兵士が、と考えるのはレックスの優しさだと思うけど」
「優しさなんてもんじゃないよ・・・あんまりにも、優しさ、なんていうには情けなすぎる」
「そうかな」
アゼルは小さく微笑んだ。
「レックスのそういうところは、僕はとても好きだけれど」
「俺は嫌いだ」
そういってからレックスは拗ねたように小さく唇を突き出して黙り込んだ。その子供じみた表情はアゼルには気を許している証拠なのだろう。
「・・・お前、ティルテュどうする気だよ」
ひとしきり自分のことを話したらレックスは落ち着いたようで、不意に矛先をアゼルに向ける。
アゼルは、そのレックスの言葉の意味を間違いなく受け取って、カタン、とグラスをテーブルにおいてから肘をついて手を顔の前で組み合わせた。そこに軽くあごをのせて体を前のめりにする。その表情は真剣だ。
「明日、ティルテュを医者に見てもらうつもりなんだ」
「え?」
「・・・もしかしたら、子供が出来たかもしれない。本当に、もしかしたら、なんだけど」
「・・・そうか」
「もちろん、もしそうだとしてもまだまだ戦えると彼女は言っているし、正直なところラケシス姫とアイラ姫が動けない今、ティルテュまでもを戦線からすぐに遠ざけるわけにはいかない・・・と、考えないといけないんだよね」
苦笑してみせるアゼル。恋人としては子供を身ごもった彼女をこれ以上前線に置きたくはないのだ。言葉の言い回しでそれがレックスには痛いほど伝わってくる。
「こんなことを言うのはなんだけど」
小さくレックスは笑った。
「多分、出来てると思うぜ。おめでとう」
「それは明日もう一度いってくれよ。まだ、わからないんだもの」
「うん?きっと間違いないって」
何故だか無責任なレックスの発言にアゼルも表情を緩めて笑顔を見せた。
「そうだと、嬉しいな。僕達、実は本当に・・・子供が欲しかったんだ」
「・・・そうか」
「血の繋がった、本当の・・・ううん、そんな言い方をしたら兄上には申し訳ないのだけれど・・・」
窓からはいってくる風が、さらり、とアゼルの髪をなでて、彼の赤毛を揺らした。
ヴェルトマーにいる彼の兄アルヴィスは、聖戦士ファラの正統な血筋をもつ、ファラフレイムを継承していた、アズムール王からの信頼厚き男だ。その異母兄弟であるアゼルは、兄を誇らしいと思いながらどことなくいつも交わりきることができず、まるで異母兄弟である負い目を背負っているかのようにレックスは見えた。
アルヴィス卿が優れた人物であればあるほど。
レックスなんかは単純に、アイラの子供というだけで嬉しいのだが、アゼルは本当に、自分だけの大事な家族が出来る、ということが嬉しいのだろう。
例えランゴバルト卿やレプトール卿がこの謀略を企てたとしても、話をすればアルヴィスだけはわかってくれるはずだとアゼルは思っていたし、そのためにこれから彼らは上都するのだ。
が、その一方で彼の心の中で、アルヴィスが自分を信じてくれれば、ここまで大きな被害が出る前に防げたのではないのだろうか、アルヴィスはアゼルが本当に反逆者の一員だと信じているのだろうか、と強い懸念を持ちながらここにいるのだろう、とレックスは口には出さないけれどそう考えていた。
「ティルテュは俺たちに巻き込まれちまっただけで・・・本当は何も関わりがなかったはずだ」
そのレックスの言葉にアゼルはうなづいた。けれど、それをおおっぴらにいうことは、クロード神父を責める言葉にもなってしまう。
クロード神父がブラギの神託をうけるためにブラギの塔に出向いた。そのときに、まだ淡い恋心をクロードに向けていたティルテュがついてこなければ。
「レプトール公を彼女の目の前で討ちたくない。本当は、レプトール公が出てこないことを僕はずっと祈っているし、君には申し訳ない
けれど君の父上の独断だけでこの陰謀が動いたと思いたい」
それはアゼルの苦渋の言葉だった。レックスはそれへは何の言葉も返さない。
「だから、もし、彼女が身ごもっていたら・・・。シレジアに・・・」
アゼルの最後の言葉は消え入りそうだった。レックスはアゼルのグラスをひったくると、こぽこぽと音を立てて安酒をそこに注ぎいれる。以前はこうやって酒に付き合うこともあんまりなかったのにな、と、親友である自分も気付かないうちにアゼルが成長したことを
嬉しく、そして頼もしいとすら思いながらレックスはグラスを返した。それから、自分のグラスにも注ぐ。
「これで最後の一杯にしようぜ、今日のところはさ」
そういいながらも、ちらりとレックスの脳裏にはブリギッドとエーディンが浮かんできた。
彼女達も、自分の弟であるアンドレイと決着をつけるときがくるに違いない。そのとき、自分の父親を殺した自分の弟を裁くために、きっとブリギッドはイチイバルをひくのだろう。それを思うと、彼らが見慣れた、弓を引くあまりに美しい彼女の姿が、逆にレックスの心を痛めた。
何が一番初めに狂ってしまったのだろう?
今更ではあったが、今更だからこそ思わずにはいられず、レックスは最後の一杯を大事に飲むことは出来なかった。

夜風にしばらく当たってレックスは酔いを覚ました。ほんの数杯飲んだだけでは別段どうということもない程度だが、酒の匂いが残る体でアイラのもとに戻る気がしなかったのは事実だ。
最近では腹部の重みで眠るのが苦しいとアイラは言っていたけれど、その言葉は決して苛立ったぼやきではなかった。
自分が愛しいイザークの姫はとても勇猛で、恐ろしい剣に使い手だ。戦になれば先陣を切り、どんなに血飛沫を浴びても臆することがない。とはいえ人の命を奪うことにまったく躊躇いがないわけではない。
迷いが見える敵兵に無条件で切りつける女ではないことをレックスは知っていた。
それでもひとたび敵とみなせば、彼女と剣を交えて生き残ることが出来る人間がどれだけいるのだろう?
そんなアイラだったけれど、子供を身ごもったことに対しては拍子抜けするほどに大らかで、苦しいときでも呑気に受け入れている。
あまりに体調が悪くてヒステリックになりがちだったラケシスと違ってけろっとしていたアイラだったけれど、ある意味ではどちらもとても女性的だとレックスは思っていた。
通路を歩いて部屋に戻ろうとすると、ドアの隙間から灯りが漏れていることにレックスは気付く。
眠れずにアイラが起きているのだろうか?キイ、と小さな音をたててドアをあけると、アイラは椅子に座ってよりにもよって剣を磨いていた。
「レックス、遅かったな」
「アイラ、起きてたのか」
「うん。一度寝たのだけれど。なんだかこの子達が騒いでいるような気がして」
そういって腹部に手を添えるアイラ。
「だからって剣を磨いてるなんて、お前らしいな」
笑いながらレックスは上着を脱いだ。
アイラはそれを受け取るような真似はしないで、手を休めず剣を見ていた。また、レックスもそれが当たり前というように上着を自分で衣類掛けに掛ける。
「レックス、疲れているか?」
「いや?そうでもないぞ。それに、明日は非番だし」
ここ数日はザクソン城近辺を見回る番が回ってきていた。明日休んだら明後日からは国境付近に行くことになる。
「そうか。だったら、頼みがあるんだけれど」
「なんだよ」
めずらしいことを言うな、とレックスは少し驚いた。アイラは手を止めてレックスを見て静かに言った。
小さな暖かな色の灯りに照らされたアイラの顔半分は橙色に染まる。
「私の髪を切って欲しい」
「え・・・」
「お前に切ってもらいたいと思って、待っていた」
アイラの言葉をどう捕らえていいのかレックスにはわからない。
「なんで髪切るんだ?」
「いや?この子達に栄養を吸い取られてしまうからな。毛先が、とても細くなってきた。栄養を貰えずに可哀相だから、いっそのこと切ろうかと思って」
レックスはその言葉を確かめるように彼女の髪をひとふさ手にとった。確かにアイラが言うとおりに彼女の毛先は細く、弱くなっている。
「いつも、どうしてた?」
「うん、国を出てからは適当に・・・邪魔になったら切っていた」
「適当に、ってのがお前らしいな」
確かにそうかもしれない、とレックスは思った。
一応今まで彼らはなんだかんだいって各国の城から城へと渡り歩き、城下町で何の不自由もない生活を続けることが出来た。が、アイラはイザークから逃げ延びるときにはそんな悠長なことはしていられなかっただろうし、人が多い城下町に行くとなると、更に身の危険が降りかかると判断したに違いがない。
彼女の髪はずっと美しかったけれど、時折大雑把に切ったようにも見えていた。
「この、指の長さくらい、切ってくれると助かるのだが。さすがにこの腹ではそういうことをするだけでも面倒に思えてしまって」
そういうとアイラはレックスの右手の中指を握った。
「俺、あんまり器用じゃないぞ」
「うん、知っている」
「そういうのはエーディンとか、ああ、あとシルヴィアなんか・・・」
「お前に、切って欲しいんだ」
「俺に?」
「ああ。駄目か?」
「駄目じゃないけど・・・どういう風の吹き回しやら。どうなっても知らないぞ。どこから見てもまっすぐに、なんて切れないし」
そういってレックスは苦笑した。
「いい。適当で」
しかし、いくらなんでも剣ですっぱり切る、というわけにはいかないだろう、それ用の道具を、とレックスが言ってもアイラは構わない、としか答えない。本当に彼女が一国の王女なのかと思うとレックスは笑いがこぼれてしまう。
アイラはその場で自分の髪を左右と後ろ、3房に綺麗にわけた。
「切ってくれ、レックス」
「うーん、自信ないけど・・・それに、俺は剣は苦手だぞ?」
「じゃあ、斧でもいい」
「無茶言うな!」
それこそそんな器用な真似が出来るか、とぶつぶついいながらレックスは仕方なくアイラから剣を受け取った。
どうやら初めからそのつもりだったらしく、レックスでも多少は扱えそうな細身の剣だ。
レックスは彼女の後ろに立って、後ろ髪を何度か手で梳いて左手にそっと束を握った。そのとき、アイラがまっすぐ前を見ながら言う。
「本当は、その髪は」
「うん」
「きっと、私の父が触ってくれていた最後の部分だ」
「・・・」
「あれからもう3年近い年月が経つ。イザークにいた頃に伸びてきた髪が、もう、毛先にしか残っていないような気がする」
正確にはわからないけれど、と小さく付け加えた。
あまりイザークにいた頃のことや家族に対する思いとかをアイラは多くは口には出さない。
それは元来そういう気質だったということもあるけれど、明らかに彼女なりにレックスに気を使ってのことだということはとっくに彼は気付いていた。
「じゃあ、取っておけよ・・・お前、イザークにいた頃の思い出やら何か品物やら、何ももってないんだろ?」
「いいんだ、レックス」
「・・・アイラ」
「シャナンがいるし、私の剣技が私がイザークにいたことを忘れないでいる。・・・それに、いつか、戻るから」
レックスはその言葉にはあまり合点がいかなかった。
いつか戻っても、平和に暮らしていた頃の記憶が薄れていき、失ってしまった家族の記憶も失っていくに違いない。それが悲しいと思わないのであれば、この毛先が彼女に唯一残された、楽しかった日々の最後の名残だということを口に出すわけがない。
「アイラ」
「レックス、気にするな。お前に、知っておいて欲しかっただけだ」
「そうか。いいんだな?」
「ああ、別に昔のことを切り捨てるわけじゃあない。もしお前がそう思っているなら、それは間違いだ。ただ・・・父上に、お前と私の子供を見せたかったと・・・そんなことを思っただけなんだ」
そういってアイラはそっと髪を乱さないようにレックスを振り返った。
「もしかしてお前、俺たちの子供を俺の親父に見せたい、とか思ってるか?」
「うん?いや、別にお前の父親に見せたい、という気持ちはないな。ただ、まあ、子供達がおじいちゃん、と呼べる存在がいないというのはちょっと寂しいかもしれないが。私は小さい頃はおじいちゃんっ子だったんだ」
「俺は、俺の親父にお前との子供を見せたくなんかないぞ」
「そうなのか?」
「ああ。やなこった。そもそもあの親父は黒髪の女が好きなんだ。お前のことだって見せたくないね」
「どういうことだ?」
「内緒」
そういうとレックスはアイラに口付けた。最近なんだかレックスは何かにつけてアイラに口付けることが増えてきた。よくもまあ飽きないものだとアイラは思う。まあ、それについては彼女も予想していないわけではなくて、きっと本当はいつだってレックスはアイラを力いっぱい抱きしめたいのに出来ないからだろう。苦しい、とアイラが言ってもレックスは腕にこめた力をすぐにはいつも緩めなかった。今はさすがに腹部のこともあってそうそう彼が思う存分力をいれることも出来ないのだから仕方がない。
彼らが二人きりの甘い恋人同士だった期間は案外と短かったように思えるから。
「じゃ、切るぞ」
「ああ」
レックスはアイラの美しい黒髪に、そっと剣先を差し入れた。磨きぬかれた剣の切れ味はよくて、あまりにあっけない手ごたえに拍子抜けするほどだ。時折剣の刃にきちんとあたっていなかった毛がくつん、とひっぱられてアイラが小さく痛がる。その様子すら可愛らしいと思えてしまう自分は、相変わらずのいかれっぷりだとレックスは自覚していた。
しゃりしゃりと音をたてて床にアイラの髪が落ちていく。
そっと斜め後ろからアイラの様子を伺うと、思いもよらないことに彼女はほんの僅かに嬉しそうな表情で、少しだけはにかんだ様子で穏やかに室内を照らしている灯りを見つめていた。
どうして彼女が微笑んでいるのかはわからなかったけれど、彼女の髪を切っている自分もなんだかくすぐったい嬉しさを感じていることにレックスは気付いた。
言葉にすると、嫌になるくらい陳腐で人に馬鹿にされそうだけれど。
レックスは彼女の後ろ髪が案外うまくそろったことを確認して、左側の髪の束を手にとりながら思う。
俺はこいつのことが好きで好きで仕方がない。
それに、こいつもきっと俺のことが好きで好きで仕方がないんだろう。
「・・・バカだな」
「何?何か言ったか?」
「俺、バカだな」
「何を今更」
アイラは悪気もなくそう答える。
「・・・ムッカつくーーー!!」
「レックスは馬鹿だ」
「なんでだよっ!」
「私のような女を選ぶなんて」
「・・・お前、そういうこと言うとぶっとばすぞ」
「何故」
「何故も何も」
アイラは嬉しそうにくすくすと笑う。それから彼の女神はあっさりと言うのだ。
「髪を切り終わったら、お前にキスしてもいいか?」
「・・・・今でもいいぜ」
「駄目。終わってからだ」
「じゃ、俺からする」
レックスはもう一度アイラに口付けようとしたけれど、それはあっけなくアイラの「嫌」の素振りで終わってしまった。仕方ない、とばかりにおとなしく彼女の左側の髪の束を何度か指で梳いて、剣を握りなおす。
俺はこいつのことが好きで好きで仕方がない。
それに、こいつもきっと俺のことが好きで好きで仕方がないんだろう。
先ほど思ったことを繰り返しレックスは思う。
ああ、俺は本当に馬鹿だ。
だって、子供がこれから産まれるっていうのに。あんまりにもこいつが愛しくて。
俺には今、これ以上の幸福がこの先訪れるのかなんて思い描くことすら出来ないのだから。

それは、突然ではなかったけれど、予想外の展開だった。
数日後、リューベック城方面から一騎、ザクソン城に向かってやってくる騎士がいるとの情報がシグルドの元に入ってきた。
そして、どうやらそれは敵ではなく、逆にリューベック城から出てきた兵士達に追われている様子に見えるとの報告だ。
ただ、天馬騎士の斥候が遠目に見たことなので、一体どういう人物なのか、どの程度の手傷を負っているのかは不明だという。
「何かを私たちに伝えようとしている騎士なのかもしれない」
シグルドは立ち上がった。室内にいたのはシグルド・レヴィン・オイフェ・ノイッシュをぐるりと見回す。(アレクとアーダンはザクソン城東の防衛ラインで警備をしているのだろう)
「罠ではないのだろうな?」
レヴィンが冷静に言う。それへオイフェが答えた。
「その可能性は低いと思います。待ち伏せての罠ならば考えられますが。彼らは間違いなくこちらに向かっていますし、我々の警戒範囲内にもうすぐ入ってきます。そこで前もって敵兵が罠を仕掛けておくことは到底無理だと」
そうか、とレヴィンは答えて、それからシグルドに向き直って静かに諭すように言った。
「わかっているな、公子。ここで俺たちが出て行けば、それが戦の火蓋を切ることになるんだぞ」
その場にいる全員がそれはわかっていた。が、その覚悟は今からするものではなく、もう何日も何日もいつくるかと誰もが身構えていたものだった。今になって恐れをなすものは誰一人といない。やがて、一拍間をおいてからシグルドは重々しく答えた。
「わかっている。もう、時期だ。それに、我々のもとにその騎士が単身逃げてきているのであれば、我々はそれへ応える必要があるだろう。見殺しにするなんて出来ない」
シグルドの表情が引き締まる。わかっていたこととはいえ、その言葉を出すのは彼にとっても勇気が必要だったに違いない。
「その騎士を助ける。そして、それでもリューベック城側の動きが止まずに接近してくるのであれば、そのままこちらから攻め込む!」
彼の言葉でその場にいた全員の表情が険しくなった。
ついに、来るべきときが来た・・・。全身総毛立つ感触を感じてオイフェは嫌な汗をかいている自分に気付いた。
戻れない道、そして歩みを止めることさえ出来ない道に踏み出すための言葉が、今、自分の主の口から発せられようとしている。
次の瞬間シグルドは、厳しい視線をオイフェに送って叫んだ。
「オイフェ!すぐに全員に通達!出陣するぞ!用意は出来ているな!?」
「はい!」
オイフェはすぐさま部屋を駆け出していく。ドアは閉めずに開け放したままだ。聡明は少年は、すぐに誰もがその部屋から出ることを知っていたのだろう。
「それからノイッシュ、すぐに城周辺の状況を再確認。伝令を走らせて警備をしているアレク達に、その騎士を保護するように伝えろ!戦力の判断はアレクに任せる。無理だと思ったら私がたどり着くまでは動かないように指示を出してくれ!なんとかなりそうならば天馬騎士の力を借りて、一時的に騎士だけでも天馬に乗せて山奥に避難してもらっても構わない」
「承知いたしました!」
ノイッシュはきっちりと敬礼をしてから、開け放したドアから慌しく出て行く。
「レヴィン」
「ああ」
「天馬騎士をひとりシレジアのラーナ様のもとへ派遣して状況を伝えてくれ」
「わかった」
「・・・出発は半々刻後。ノイッシュからの報告を待って、部隊編成は出発直前にする」
「シグルド公子」
「うん?」
レヴィンは右手をシグルドに差し出した。
「あんたは大した人物だ。あんたと共に戦えることを光栄に思うよ」
「なんだ、急に」
小さくシグルドは微笑んだ。この緊急の事態とは思えない呑気なレヴィンの言葉にわずかに気持ちが緩和する。が、それは決して悪い緩和ではない。
「あんたを見ていると、俺もシレジアの王子として、自分が負った責任を果たそうという気持ちが強くなる。人はそれぞれに必ず何かの責任を背負いながら生きているんだろうな。俺は、そういうものは、俺みたいな王族だけが生まれながらに背負っているものだと勘違いをしていた」
「・・・私もそうだった」
シグルドはレヴィンの手を握って答えた。
「自分には、何も責任がないと、思っていた。いつの日か父が倒れて、シアルフィを治めるとき。そのときに初めて生きていく上での責任が自分の背にのっかってくるとね。思えばなんて甘い人間だったのかと自分でも笑ってしまう」
がっしりと二人は握手を交わした。そのとき、開け放しておいたドアの前をとことことシャナンが通りかかった。
「あれ?」
めずらしくドアが開いているのに驚いたようにシャナンは覗き込む。それにシグルドは気付いてそっとレヴィンの手を離してからシャナンを招き入れた。それが合図のようにレヴィンはマントを翻して出て行く。
シャナンはいつもと変わらないように見えるシグルドの表情のどこかに強い決意のようなものを感じて、唇を引き結んで近づいてきた。
彼ら二人は立ったまま向かい合っていたが、シグルドはシャナンの前に腰を低くして目線を合わせた。
「シャナン、これから戦が始まる」
「えっ!・・・ついに、始まるんだね」
「私もすぐに出なければいけない。・・・セリスを、頼んだぞ。アイラとラケシスと子供達(エーディンの子供であるレスターとラケシスの子供であるデルムッドのこと)を、守ってくれ。もちろん城の守備に人員は残すけれど、いざというときには側にいてやって欲しい」
「・・・うん。僕が、絶対に・・・絶対に、守るから、安心して」
「頼んだぞ」
そういってシグルドは体を起こしてからシャナンに手を差し伸べる。それは、シャナンにとっては生まれて初めての、男と認めてもらっての握手だったに違いない。まだ小さなシャナンの手はシグルドの大きな手にすっぽり包まれるぐらいだったけれど、それでも彼の精一杯の力でシャナンは握り返す。
「でも、シグルド」
「なんだい」
「必ず、戻ってきて。僕が守っているから。シグルドが帰ってくる場所を」
「・・・・ああ、必ず。戻ってくる」
そのシャナンの言葉に一瞬シグルドは言葉を失ってしまった。
自分が帰ってくる場所。
それはシアルフィのことだろうか?いや、本当は妻ディアドラがいるべき場所なのかもしれない。けれど、それは今は失われてしまっている。
「セリスを、頼んだぞ」
「うん!」
シグルドにとって帰るべき場所は、息子セリスがいるところだろうか?
いいや、それだけではない。
セリスのもとへ行くために飛び出ていったシャナンの後姿をみながら、シグルドはマントを付け直し、愛剣を腰につけた。
今の彼にとっては、自分を信じてここまで運命を共にしてくれたすべての人々がいる場所だ。
本当ならばちりぢりで生きるはずの、どこかで糸が絡み合って出会った、彼に関わったすべての人々がいる場所。今となっては彼らがいればどこでも彼が帰る場所になり得る気がしていた。それほどまでに彼らを結び付けている絆は濃度を増している。それは誰もがうなづく真実だ。
もう、何一つ失いたくない。そんな思いを胸に抱いてシグルドは自分の部屋を出た。
「ディアドラ。行って来るよ」
そして。
扉が閉まる無機質な音だけが、室内に広がった。


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