耳をふさいでも目をとじても-5-

砂漠を渡るのは天馬でも1日では渡りきることが出来ない。
逆に、そうであることがシレジアの中立を今まで守ってきたのだと言っても過言ではない。
もしも天馬が1日で砂漠を渡りきる動物だったら、もっとシレジアに対する警戒をグランベルはしてきたに違いない。
それを思うと、そういったことは関係なしで、攻めようと思えばいつだって攻めることが出来る隣接したイザークが無条件でシレジアと中立を保っていることは、イザークが蛮族と言われてるけれど平和を好む草原民族であることを物語っている。
一方、天馬よりも強靭な竜達は更に天馬より早く砂漠を渡る。が、世の中はうまくバランスが取れているようで戦であれば最も優れた機動力を誇るトラキアの竜騎士達は、国の蓄えが心許ないが故に、よほどのことでもない限り遠征をしつづけることは不可能で、未だに隣国のレンスターすら掌中に収めることが出来ないのだ。
フュリーは自分の天馬を励ましながら砂漠を渡っていた。
本当は、離れたくない。レヴィンと。
けれど、とっくにその想いを乗り越えて、待つ身の辛さを感じているティルテュとアイラがフュリーの帰還を待っていてくれているのだ。
我侭は、言うまい。
母上を頼む。
レヴィンの声が思い出される。
「さ、もう少しでリューベック城よ。頑張って。そしたら、ゆっくり休みましょうね。一緒にシレジアに帰ってお前も仲間の元に戻りたいでしょう?・・・ああ、それにしても」
フュリーは空からちらりと砂漠を見てつぶやく。
「こんなところで病気にでもなったら、すぐに倒れてしまうわ。本当に砂漠は・・・」
そこで言葉を切って、天馬の上でフュリーはわずかに涙ぐんだ。
彼女がフィノーラ城を出る直前に、レンスターのキュアン王子率いるランスリッターが全滅したという話を聞いた。そして、キュアンも、エスリンも、命を落としたと。
それすら、アイラ達に自分は伝えなければいけない。
今でもまだ、信じられないというのに。
この、自分の天馬が降りることも嫌がる砂漠のどこかで。
彼らの命は途絶え、そしていつの日かその遺体がこの砂になってしまうなんて。

「フュリー、お帰りなさいっ!」
ティルテュが通路で大きな声で叫んだ。
フュリーの天馬の姿をバルコニーからみつけて、慌ててやってきたらしく息を切らせている。
リューベック城に入った広い踊り場から階段を昇り、調度二人に会いに行こうとしていたところで出会った様子だ。女中達が玄関で出迎えてくれたけれど、自分で直接行くから、二人にわざわざ知らせなくて良いとフュリーは彼女達を各自の持ち場に戻してきたので辺りに人影はもうない。
たった10日間近く離れていただけで、なんだかひどく時間がたった気がした。
フュリーは子供の頃からシレジア王宮勤めをしていたから例え国を違えても、ティルテュの身分のことは理解していて、自分は彼女を敬うべき立場だと思っていた。
自分が王宮の騎士団の人間だろうと、もともと生まれは貴族の血統でもなんでもない。ただの平民だ。それにひきかえティルテュは大国グランベルの貴族、聖戦士の血をひく公女なのだ。
フュリーはこの軍で同等の口を利けるのはシルヴィアだけだったし、そのシルヴィアがいくら気にせずにティルテュに対して同等の口利きをしていたからといって自分も出来るわけではない。
それでも、とても自然に。
ティルテュがフュリー抱きついてきたときに、とても自然に抱き返すことが出来た。
それは女性特有のコミュニケーションだし、元来フュリーは人にくっつかれることは得意ではない。
普段からあまりオーバーアクションではなかったし、姉であるマーニャに必要以上に甘えることもなかったと思う。
けれど、何故だろう。
たった10日離れただけで、フュリーはティルテュが抱きついてきてくれたことがなんだか嬉しかったし、そしてティルテュの温度を感じて安心する自分に気付く。恋人同士の抱擁とはまったく違う、それでもなんだかこみあげてくる愛しさにフュリーはびっくりした。
ああ、もしかして。
わたしたちは、もう。家族のようなものと言えるのかもしれない。そんなことすらフュリーは思ってしまう。
「疲れたでしょ。休んでからでいいよ。いろいろ話があるんだろうけど」
ティルテュはそっとフュリーから離れて笑顔を見せた。その気遣いが更にフュリーには嬉しい。
「いえ。ただ、かなり砂煙をかぶって来たので、服を着替えないと。綺麗ではないですから」
「うん、じゃ、そうしてきて」
「アイラ様は」
「寝てる。夜、何度も目が覚めてるみたい。わたしが起きると、絶対アイラ様起きてるの」
「え・・・?」
「あ、今ね、一緒の部屋で眠ってるのよ」
「一緒の?」
また奇妙なことを、とフュリーは目を丸くした。ティルテュはなんてことない表情でさらりと答えて
「そうよ。・・ね、フュリー、着替える前に一個だけ先に教えて。みんなは無事?」
「・・・ええ、フィノーラ城に向かったシグルド軍は全員無事です」
そのフュリーの物言いにひっかかってティルテュは不安そうにフュリーを見た。次の言葉を待っているのだ。
アイラが一緒の時に言いたかったが、とフュリーはためらいの表情を見せ、それから意を決したように
「レンスターのキュアン王子率いるランスリッターが・・・グランベルと手を組んだらしいトラキアの竜騎士団に襲われて全滅しました。そこにはエスリン様もいらっしゃったご様子です・・・先日、この城前で私たちが交戦した竜騎士団がそうだった様子です」
「全滅・・・?」
「はい」
「ってことは」
言葉にしたくないことを、無理矢理フュリーは搾り出した。
「・・・キュアン様もエスリン様も、お亡くなりになったと思われます」
「・・・」
しばし、ティルテュは呆然としてフュリーを見ていた。フュリーもどうしてよいかわからずティルテュを見る。
ティルテュは既にわかっていたことをまたも思い知らされた気がして、唇を噛んだ。
これは戦なのだ。
自分の父が仕掛けた。
今更ながらそのことを痛感して、ティルテュは泣き笑いの表情を浮かべる。それから、あえぐような声で
「この子」
「・・・え?」
自分の腹部をティルテュは抑えた。まだ、そこはほんのわずかな膨らみだけで、言われなければ彼女が妊婦だなんて誰もわからない。たったそれだけの小さな命。
「わたし、お父様のところを飛び出してきて・・・勝手にクロード様についてきて・・・それに、アゼルのことを愛して勝手に結婚しちゃったわ・・・」
ティルテュはその場でぺたり、と床に膝を折った座り込んだ。フュリーは慌てて自分も膝を折ってしゃがみこむ。
「だから、こんなに幸せでいいのか、って思って。お父様が悪いことをなさったことはわかっているけれど、それでもまだ私、勝手に飛び出たこととか、色んなことをお父様が許してくれるのか心配で仕方なくって。そしたらエスリン様が言ってくれたの」
ティルテュは涙をぽろぽろとこぼした。
「どんな父親でも娘の結婚式は見たいに違いないから、勝手に結婚したことは残念がると思うって」
「・・・」
「でも、いつだってきっと、孫の顔は見たいものよ、って」
「ティルテュ様」
「あなたが、子供を産んで、その子をおじいちゃんに見せられるといいわね、って。そしたら、きっと私のことも許してくれるだろうし、お父様だって罪を認めて悔い改めてくれるかもしれない、って。わたし、エスリン様にそう言われて、すっごく嬉しかったの。わたし、頭悪いから、なんて言えばいいのか、わかんないけれど・・・エスリン様のその言葉で、すっごい救われたのに」
ぐるぐると思いが回るように、ティルテュはフュリーを見ているけれどそれはどこかうつろだ。
いつまでこうやって自分の父の罪をみせつけられ、傷つけばいいのだろう?
それはいつか終わりが来るのだろうか?
ああ、思い出すのは、エスリンの花のような笑顔だ。

キュアン様といつも寄り添うように立っていたエスリン様。
たくさんの人達のあまりの祝福にわたしは嬉しくて嬉しくて、そして不安で仕方がなくて。
そんなときおどけたようにあの方はわたしにそうっと教えてくれた。
私の父はね、アルテナが生まれたとき、ものすごく嬉しかったらしくて、領主の仕事を放ってレンスターに行くって聞かなかったらしいのよ。結局兄が来てくださったのだけど、いつも温厚な父が歯軋りするほど行きたがったんですって。
孫の威力って、絶大よねえ?
エスリン様は笑っていた。その時、わたしもくすくすと笑っていた。
けれど、もう、わたしは笑えない。
だって。
そのお父上のことも、エスリン様のことも、そしてエスリン様があんなにあんなに愛していらしたキュアン様も。
わたしのお父様の陰謀の中で死んでいってしまわれたのだから。
わたしは、忘れてはいない。
魔法を使ってわたしは敵兵士を殺してしまう。
その罪を忘れてはいない。
けれど、もっともっと根っこが深いところで、「そうさせている」のがお父様だってことを、わたしは、忘れてはいない。
わたしは。
また、こうやって瞳を閉じればキュアン様とエスリン様を思い描き、その姿、その声を思い出して自分を苛むのだろうか。

「ティルテュ!」
そのとき、通路の奥から声がした。アイラだ。フュリーはほっとしたようにそちらをみて一礼をした。
「フュリー、疲れただろう。大変だったな」
「い、いいえ」
久しぶりに見たアイラはまた一層腹部が大きくなったようにも見えて、一瞬美しい顔とのアンバランスさにフュリーはわずかに微笑んでしまった。ちょっとした仕草や物言いが変わらないのが(当たり前だが)また可笑しい。
どすどすと(体重が軽かった頃はかつかつと、だったのだろうが)歩いてきて泣いているティルテュを上から見下ろした。
「こら。床に座り込んでは冷えるだろうが」
アイラはティルテュが感傷に浸る間を与えないように、非常に現実的なことを口に出す。
「アイラ様・・・あの、あのね」
「うん?」
ティルテュはなんとか伝えなければ、と涙を拭ってアイラを見上げた。
「キュアン様とエスリン様が・・・お亡くなりに・・・」
アイラの表情は一瞬にして曇り、はっとフュリーを見る。
「どういうことだ」
嫌な知らせを人に伝えることは本当に気が滅入るものだ。
まず、フィノーラ城制圧までシグルド軍には死者が誰一人でなかったこと。
そして、自分達で確認したわけではないけれど、ランスリッターが全滅したこと。
フュリーは静かにそのことをアイラに伝えた。
「・・・そうか」
たった一言。
それ以上アイラは何も言わない。涙も見せずにフュリーとティルテュが見たことがない印を指できって、瞳を閉じた。
それは、イザーク流の祈りか何かなのだろうか?
数十秒の沈黙。ティルテュはそのアイラの姿を見て、なんとなく涙が止まったようでぐい、と手で顔をぬぐった。
わずかに苦しそうにふう、と息をついて、それからアイラは冷静に言った。
「レンスターが、危ない」
「・・・えっ・・・」
その言葉にティルテュは声をあげた。が、見上げてもアイラ自身は瞳をふせて眉根を寄せていてティルテュと目をあわせない。
「グランベルは、余程の自信があるのだな」
「どういうことでしょうか?」
「グランベルとトラキアが手を組んだなら・・・それに、キュアン王子が亡くなったということであれば、レンスターは風前の灯火だ。トラキアがレンスターを手に入れて領土拡大したら・・・グランベルにとっても今より脅威が広がる。それを助長するようなことをするということは、グランベルはトラキアを裏切らせない、あるいはトラキアを恐る必要がない力を持っているという自信があるということだ・・・。何があるというんだろう、一体」
どうせ剣のことしか興味がないんだろう、と何度も何度もレックスに言われたこともあったけれど、今や侵略を受けたとはいえ一国の王女であるアイラにとって他国の動きは実のところ、レックスなんかに比べてずっと気にかかることだった。
「アイラ様」
「フュリー、綺麗にしてくるといい。それから、ティルテュ、悪いが、今日は一緒に眠ることが出来ない」
「えっ、どうしたの?アイラ様・・・」
「・・・数時間前から、定期的に痛みを感じるようになった。これから女中頭のところへいってくる」」
そう言ってアイラは腹部に手を当てた。
「ええっ・・・大分予想していた時期より早くないですか?」
そうだな、と小さくアイラはうなづく。およそ半月は早いはずだ。
「すぐ、というわけではないが、あと1,2日の間にお産に入ることになるだろう」
「じ、じゃあ、仕度しないと」
ティルテュはのろのろと立ち上がった。
まだ目じりには涙が残っていたし、キュアンとエスリンの訃報を聞いて心は乱れて胸が痛むけれど。
それでも、次には新しい命のために彼女達はしなければいけないことがあるのだ。
「あ、ティルテュ様、あの」
「なあに・・・?」
「アゼル様から伝言があります」
こんなときに、とも思うけれど、こんなときだから伝えてあげなければいけない。そんな気が逸ってフュリーは慌てて言った。レックスからの伝言もあるのだろう、とアイラはわかっていたけれど、彼女はさっさと通路を歩いていって角を曲がってしまう。
それはアイラなりの気のつかいようなのだ。
「なんて・・・?」
「あの」
一言一句間違えないように伝えよう、とフュリーは自分を落ち着かせる。
短い言葉だ。そして短いから、どれだけの思いが込められているのかはフュリーには測ることが出来ない。
「僕達がいることを、いつでも忘れないで、と」
「・・・・」
「・・・以上です」
「ありがとう、フュリー」
ティルテュはそっとフュリーの手を握る。そしてもう一度、ありがとう、とつぶやいて、泣き笑いの表情を見せた。

誰もシグルドに声をかける人間はいなかった。出来るはずもない。
父親と妹と親友。それをたった一月の間に失ってしまった彼の心の傷はとても深い。
ありきたりの言葉で言えば、そういうことになるのだろう。
けれど、彼らは一刻も早くアズムール王へ釈明の文書を届けなければいけない。
そのための手段は既にシグルドとクロードが考えてあったから、後はシグルドがどんなにひきこもっていたってレックス達がどうとでも出来るところまで話が煮詰まっていたのだ。
彼らは彼らの大将が悲しみにくれている間に着々と準備を進めていた。
砂漠の町フィノーラの町外れでがやがやと人が集まっていた。レックスとアゼル、そしてデューを中心にホリンやレヴィンもそこにはいる。他の人間は城でやるべきことがあってここまでの見送りは出来なかったのだ。
「じゃ、これもっていけよ」
レックスはデューにリターンリングを渡す。
フィノーラ城の城下町にいた商人達がバーハラへと行くという。それに紛れてデューはシグルド達と別行動をすることになっていた。
この一軍の中でグランベル中枢に身分やその人物像が把握されていない人間といったらデューとシルヴィア、それからフュリーにベオウルフだ。が、見るからに傭兵、といった妙な風格をもってしまっているベオウルフがフュノーラ側からやってきた、とあってはみな不信がるに違いない。
ほかに信頼出来る人間も、ここでつてもない彼らにとってはデューを頼るしかないのだ。
アゼルは自分が家を出るときにもってきた、ヴェルトマー家の紋章がはいったブローチをデューに託した。そうすることで兄アルヴィスにもアズムール王にも、この文書にアゼルが関わっていることがわかるだろう、という配慮だ。
デューはリターンリングをはめ、アゼルのブローチをもち、それから既に幾多の戦いを経験して彼の手に馴染んだキルソードを腰につけた。
「デュー、気をつけていってこいよ」
「うん」
ジャムカはそう言ってデューにきずぐすりを自分の分まで渡す。その後ろからクロードとブリギッド、そしてエーディンが歩いてくる。
決してブリギッドはみなの前でデューと必要以上の会話をしない。
それだけで、この恋人達が二人きりだけのときは、まったく違う様子を見せているのだろうということが想像できる。
クロードが小さく笑顔を見せた。
「デュー、あなたが無事に帰還出来ますように、私に祈らせてください」
「やだなあ、神父様。おいらがヘマするわけないじゃん。おいらの無事なんかより、この文書がきちんと王様の手元までいくことを祈ってよ」
そういってデューは明るく笑うけれど、クロードはそれには答えずに、手にしたバルキリーの杖をわずかにかかげた。
その杖は本来は人の命を司る杖だけれど、彼がブラギ神の声を聞くことが出来る選ばれた人間だと示す証でもある。
「あなたに、神の加護がありますように。あなたが愛する者の元に無事に戻ってこられるように」
デューはブリギッドを見た。
ブリギッドもデューを見る。
彼らがどんな愛の形を持っているのかは、そこにいる誰もがよく知らない。
「じゃっ、おいらいってくるね。だーいじょうぶだって、レックスがリターンリング貸してくれたんだもん。危なくなったらすぐケツまくって逃げてくらあ」
陽気にデューは笑ってみんなを見渡して、さっさとその場を離れようとした。
けれど、なんとなく誰もがデューを心配してそっと彼の後をついていってしまう。
気をつけて、とエーディン。無理はするなよ、とはジャムカ。途中まで一緒にいってあげる、とシルヴィアが言えばそんなことは余計だ、とデューは答える。街の外ですでに商人達のキャラバンは準備を整えてデューを待っていてくれているのだ。せめてそこまで、とみな足早に追いかける。
ブリギッドはその場に立ったままだ。瞬きを忘れたようにまっすぐにデューを見つめている。
ほんのちょっとだけ唇を開いて。いつでも言葉を発しそうな表情。やがて、それに自分で気付いたかのようにブリギッドは口元をきりりと引き結び、デューから視線をそらした。
レックスはその様子を一部始終見て
「・・・ここで、いいのか?」
「構わないよ。そんな長い別れじゃないだろ」
「そうだけどさ」
「あたしが女々しい方が嬉しいのかい?レックスは」
「誰もんなことはいってないだろ」
苦笑して見せるレックス。
「すぐに、戻ってくるだろうし」
そう言ってブリギッドはふい、とその場を離れてフィノーラ城の方向にさっさと歩いていってしまった。
別に今生の別れではないし、あれだけ装備が万全ならば世渡り得意の彼は不必要に危険な橋も渡らないだろう。
それでも、レックスはなんとなくブリギッドの後姿にひっかかりを感じる。
すぐに戻ってくるだろうし。
その声音はどこかで聞いたような気がする。
わずかに語尾が震えているような気もする。
デューを見つめる強い視線。何かもう一言いいたそうな唇。そして、そのすべてを胸に閉じ込めるかのように最後に唇をひき結んだ毅然とした表情。それをレックスは何かで知っていた。
もちろんその何かというのは。
(そうだ)
レックスは突然気付いたように小さく溜息をつく。
(アイラも、今のブリギッドのような表情をしていた)
もう、何を何があっても決して揺るがない。いや、揺るがないようにと自分に言い聞かせているその瞳。
本当は伝えたい愛の言葉も聞きたい愛の言葉もたくさんあるのだろうし、一緒にいられないことへの憤り、もどかしさ、さまざまな感情が交錯している。
ああ、ブリギッドも女なんだ。
当たり前のことに気付いてレックスは苦笑した。
「どうしました、レックス公子」
「いや。・・・以前デューが、ブリギッドの側にいてやることしか出来ないけど、それだけならいくらでも側にいてやる、って言っていたのを思い出して。デューの奴も何も言わないけど・・・かなりの決心だったんだろうなと思って」
「・・・そうですね。でも、それはあなたもでしょう?」
「・・・うん?・・・はいそうです、と素直に言えるような人間じゃないんでね」
レックスは苦笑して、ブリギッドの後を追うようにその場を離れる。
「先に城に戻ってる」
「わかりました」
アイラも同じような表情で俺を見ていたし、きっと扉を慌てて閉めた俺の後姿を、まっすぐとみつめていたに違いない。
いたたまれなくなって目を閉じると。
そのまぶたに最後に見たアイラの表情がふっと浮き出てくる。
そしてブリギッドのように、僅かに語尾が震えてしまった、取り繕うぎりぎりの瀬戸際で発したその声が、鼓膜を震わさずとも聞こえてくるような気すらする。
どうにもこうにも、そんなことを思ってはデューを見送る一群の中に入っていける自信は、レックスにはなかった。
もう、苦しくはない。けれど、愛しさで胸が痛くなるような、そんな気すらする。
さっさと戻って来てやれよ、デュー、なんて、自分のことを棚にあげたことを思いながらレックスはフィノーラ城へ向かうのだった。

そして、その場に立ち尽くすのはクロード一人。
まだがやがやとデューにあれこれ世話を焼きながら歩いていく一団の騒ぎは収まらない。それをみつめながら彼は小さく溜息をつく。
「・・・戻って来てください、デュー。あなたは生き延びることで、我らの意志を継ぐ者達への力になるのですから」
運命は見えている。
それは決して口にはしないけれど。
デューが彼なりに任務を終えて戻ってくることもクロードは既にわかっていた。
それでも。
見えている未来のほんのわずかな光明を、決して失わないように。
ブラギの塔で彼に未来を見せつけた残酷な神に、それでも彼は祈るしかないのだ。
だからこそ、彼は決していえなかったのだ。その文書が、アズムール王に届きますように、とは。
この神父が苦しみの中でもがいていることを知る者は未だにいない。
命をかけるほどに彼を愛しているあの踊り子すらも。

痛みの感覚が短くなった、と女中に告げた後、産婆がやってきた。それは翌日の昼間のことだった。
リューベック城に移動する、とザクソン城で決定したときからやってきてくれた年配の女性で、レスターのこともデルムッドのことも取り上げた産婆だ。
痛みで食欲のあるなしもない、という状態だったけれど、子供二人を産むとなれば頑張ってもらわないと困る、と無理矢理食事を流し込まれてアイラは苦しい息をもらしながらまだ減らず口を叩いていた。
「まったく・・・敵兵に切られている方が何倍も楽だ」
と口に出したらレックスにすぐさま怒られるようなことをぼやいてアイラは苦笑いを浮かべた。
出産に入る前の彼女から最後に聞いた言葉がそれだなんて、とティルテュとフュリーもまた別室で苦笑いをしていた。後でみんなに言ったら誰もがアイラらしい、ということだろう。
時間がかかるんだから、気にせず寝ていろ、とアイラに言われたものの、やっぱりそういうわけにもいかない。
ティルテュもフュリーも既に身ごもっているのだから、アイラの出産はまったくもって他人事ではないのだ。
「うまく出来たでしょ」
「本当に。ティルテュ様は指先が器用でいらっしゃる」
生まれてくる子供のために、とティルテュが編んだ小さなケープは大層可愛らしい出来栄えだった。
男の子でも女の子でもいいように生成色の毛糸で編んで、胸元には花のモチーフをあしらってある。
「じゃあ、ティルテュ様のお子さんが生まれるときは、わたしが編んで差し上げますね」
「ほんとっ?じゃあ、フュリーの赤ちゃんが・・・うーん、でも、シレジアの後継ぎだもんね。きっとラーナ様からいいものたくさんもらうんだろうし・・・」
「編んでくださるのですか」
「いいの?わたしが編んでも」
「喜んで」
「うふふっ、楽しみいー。フュリーは、シレジアに来てからあんまりみんなに馴染めなかったわたしに、よくしてくれたから・・・」
フュリーは小さく微笑んだ。
それはシグルド軍の人間には申し訳ないけれど、ティルテュがレプトールの娘だとか陰謀がどうとか、ということについて正直なところフュリーは今ひとつぴんと来なかったからというのが理由のひとつだ。
アイラのように自国を侵略され、国全体が汚名を着せられたわけでもなく、狂ってしまったグランベル中枢がアグストリアへの干渉を放置しておいたがゆえに悲劇がに巻き込まれたラケシスとも違ったし、そして逆にいえばこの混乱のおかげでレヴィンを見つけて国に戻ってこれたのだから、フュリーの立場はみなとは違う。
だからこそティルテュのことを遠巻きで見ることもなかったし、アイラやブリギッド、ラケシスなんかに比べれば余程とっつきがよかったのも正直なところだ。
そして、シレジアがグランベルからの干渉をうけた今では、もはやティルテュは自分にとって比較的仲がいい、年の近い友達に他ならない。
「男の子が生まれたら、このお花は青いお花にするの。女の子が生まれたら赤いお花にしようと思って」
「素敵ですね」
ティルテュはいくつもいくつも花のモチーフを編みつづける。小さいものだからほんの少しの時間でいくつも編めてしまう。それはフュリーがシレジアでティルテュに教えてやったものだ。今ではティルテュのほうがうまく編んでいるようにすら思える。
そんなにいっぱい編んでどうするんですか、と言おうと思ったけれどフュリーは黙った。
どんな思いで今ティルテュがその行為に没頭しているのかまではフュリーは測りかねている。
昨晩からアイラのお産のためにばたばたと女中達がリューベック城内を動いていた。
ティルテュはひさしぶりに一人で眠ることになったのだろうが、よく眠れたのかどうかは、顔を合わせたときにすぐにわかった。
泣きはらした目。
それでも彼女はフュリーに笑っておはよう、と言った。
やっぱり、泣いちゃった。だって、キュアン様のこともエスリン様のことも、大好きだったから。
それ以外、彼らの訃報についてティルテュは語らない。
改めてフュリーはキュアン達の訃報を報告してしまった自分の愚かさを呪った。
ティルテュもアイラも今は大切な時期だ。アイラに関しては出産間近、という状況が「大切な時期」という表現になるけれど、ティルテュにとってはレプトールの娘であることが彼女の身を「大切な時期」にしてしまっている。
そんなときに子供を身ごもって、そしてアゼルと離れて。
黙っていてあげればよかったのだ。ティルテュの顔を見て、フュリーは愕然とした。けれど、それはもう取り返しがつかないことだ。
「大丈夫だよ、フュリー」
編物をしながら突然ティルテュはそうつぶやいた。
「えっ」
「大丈夫。あんまり心配しないで。わたし、昨日わんわん一人で泣いちゃったんだけどね、フュリーのおかげでこれでも眠れたのよ」
「え?」
「アゼルからの伝言、ありがとう。あの言葉がわたしの勇気になったから」
「・・・」
フュリーはティルテュが言っている意味が半分しか理解が出来ない。
ただ、自分が思っている以上にあの言葉はティルテュにとって深い意味があったのだろう。
「人間は、都合がいいものね」
「どうしてですか?」
「だって、直接アゼルに言われたわけじゃないのに、わたしにどんな顔でどんな声でアゼルがその言葉をいってくれるのか、勝手に想像して、そして浮かんでくるの」
「・・・・」
「ぐるぐる回ったわ。キュアン様のことエスリン様のこと。だけど、最後にわたしが大好きなあの人が出てきてくれて、わたしに勇気をくれるのよ。アゼルと、まだ見ないこの子と」
僕達がいることを。
その僕達、というのは、アゼルと、そして今ティルテュの体の中で息づく命のことなのだろう。
どれだけその言葉が彼女の気持ちに染み込んだものなのか、フュリーにはわかることは出来ない。
けれど、自分がレヴィンを深く愛しているようにティルテュはアゼルを、アゼルはティルテュを愛している。それだけは間違いはない。
そんな風に考えれば、自分が伝えたたったあれだけの言葉がティルテュにとって何もかもからの救いになったっておかしくはないのだ。
そう思いたい。そう思わなければ、あまりにも彼女はかわいそうではないか。
ティルテュは手を止めずに続けた。
「シレジアで、あなたのお姉さまがお亡くなりになったとき、葬儀で花びらを空に撒いたでしょう?この辺りにはもう花が少ないし、出歩くのも危ないから摘みにいけないじゃない?・・・だから、ね」
ティルテュはそういって自分が編んだ花のモチーフを2,3枚手に持った。フュリーはそれに驚いてあわてて立ち上がる。
「わっ、わたしも、編みます。やだ、ティルテュ様、早く言ってください!そういうことは!」
「アイラ様に怒られるかなあ?赤ちゃんのために編んだケープにつけるお花と同じお花を弔いの花にするのは」
それへはすぐにフュリーは首を横にふった。
「そんな了見がせまいことをおっしゃる方ではないと思います。・・・わたしも、編んでいいですか」
「うん。別にいいよ」
そうして二人は。
今は戦場から遠ざかってしまった二人は、戦場で散った命のため、そしてまた生まれる命のために、冬の足音が忍び寄ってきた
リューベック城でそっと花を作り出すのだった。
さまざまな形に変化していく命というものに対して、今はもう待つことしか出来ない彼女達はその気持ちを編みこんでいくのだ。

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