春雷-2-

ティルテュはスカサハとラクチェの寝顔を見つめながらアイラのこと、アゼルのこと、自分の父親のこと、クロードのこと、さまざまなもつれ合った糸について思いをめぐらせていた。
部屋の中には乳母がいて、双子を見つめているティルテュから少しだけ離れたところで椅子に座って本を読みながら控えていた。
さすがにティルテュは子育てなんてやったことがないから、アイラの子供を守るね、なんていったとしても、彼らを育てることはまだ出来ないし、様子を見たってどうすればいいのか皆目検討がつかない。ただ、なんだかそこから離れたくない、というように彼女はそっと双子の傍らにいつづけるのだ。
昨日、ついにアイラは可愛らしい赤子二人を残したままでリューベック城から出て行ってしまった。
どうしたらそこまで強い意志をもてるのか、ティルテュにはわからない。
自分の腹部にそっと手を当てる。
アイラと同じ状況になったら、自分はどうするだろう?
アイラのように子供を置いていけるだろうか?
それすら想像はつかなかった。

行って来る、と言ってアイラが見せた笑顔はあまりにも美しくて。
まだ僅かに丸みが残っている体にいつも通りの軽装で、勇者の剣と銀の剣だけを腰に差して皮袋をしょっていたアイラ。
まるでそこいら辺に買い物にでもいく、なんていう様子にも見える。
リューベック城の城門前でティルテュはアイラと別れを惜しんでいた。
「アイラ様、お気をつけて」
「ああ、大丈夫だ。ティルテュもな、意地を張っていないで、動けるうちにシレジアに行くといい」
「・・・いやよ、アイラ様・・・。スカサハとラクチェを置いていけるわけないじゃない」
「大丈夫だ。シレジアの騎士達が守ってくれる。それを、信頼している」
「それはわかってるけど・・・」
「ティルテュ」
アイラはそっとティルテュに手をのばして、彼女の頬に触れた。
あまり人の体に触れることも、人から触れられることも慣れないアイラは、子供を身ごもってから以前よりずっと、そういうスキンシップが人と人の間で大切なのだということがわかったようだ。そういった時の彼女の仕草が時折言葉よりも表情よりも彼女の気持ちを如実に現している、とティルテュは最近わかってきた。
「ティルテュも、ティルテュのおなかの中にいる子供が大切なように、私もあの二人が大切だ。そして、私がティルテュを大切に思うようにティルテュが私を大切に思ってくれていることを知っている。でも、これとそれとは別なんだ。ティルテュはティルテュの責任で、自分と自分の子供を・・・アゼルのために守ってやってくれ。私は私の責任で、シレジアの天馬騎士団を信頼して、子供達を置いていくのだ・・・ティルテュの気持ちは嬉しい。でも、ティルテュも、ティルテュにしか出来ないことをやってくれ」
そういってそっとティルテュの頬からアイラは手を離した。
「アイラ様」
フュリーがアイラに「準備が出来ました」と声をかけた。砂漠の途中までフュリーも同行したいと申し出てきていた。それを快く了解したのは、これ以上自分の我侭だけを押し通すわけにはいかない、とアイラなりに判断をしたからだ。
「ティルテュ様、ほんの少しの間、お一人になりますけれど、私はすぐに戻って参りますから」
「きっとよ、フュリー」
「ええ。なので、ご安心して待っていてください。そして・・・私が戻ったら・・・シレジアに、行きましょう」
それへの即答は出来なかった。
やはり、自分はアイラがいうように、アイラとレックスの子供を置いたままでシレジアに、自分だけ安全な場所に非難するなんてことは出来やしないのだ。
「じゃあな、ティルテュ」
「アイラ様」
「戻ってくるつもりだが、どちらにせよその後にシレジアに行くことはないかもしれない。私が次にシレジアに行くのは・・・スカサハ達とイザークに戻り、シャナンと共にイザーク王家を再建した後、シャナンにイザークを完全に任せることが出来てからシレジアに改めて此度の礼をするために行くことになるだろう。身勝手なこととはわかっているけれど、それが今の私に出来る精一杯のことだ。そのときにティルテュがシレジアにいるのか、グランベルの揉め事が終わって、いるべき場所にいるのかは想像もつかないけれど・・・」
それはまるで今生の別れにも聞こえて、ティルテュの心をかき乱した。
アイラが言っていることはとても正しくて、そして何一つ嘘偽りもなかった。
そうであればあるほど、なんて自分は小さな人間なのか、とティルテュは思わずにはいられない。
自分は、そこまで考えていなかった。いや、違う。考えたくなかったし、そう思いたくなかった。それがティルテュの正直な気持ちだ。
戻ってきてください、とフュリーはアイラに約束してもらった、と言っていた。けれど。
アイラがリューベック城に戻ったとしても、その先すぐにイザークにいってしまえば、確かに自分とアイラを結ぶものはもうなくなってしまう。
シレジアのラーナ王妃にどれだけの感謝を思っていても、アイラにとって、イザーク王家の人間にとっては、ラーナの厚意を無駄にしないためには一日も早いイザークの再興を実現することが一番の恩返しなのだ。アイラがリューベック城に戻ってくれば、また会えるなんていう約束は、ない。アイラはあくまでも、リューベック城に戻ってくる、という約束しかしてはいなかったのだから。
そうだ。この人は、家族を失い、長い長い間国を追われ、逃げ惑い、シレジアにいる間だってイザークで弾圧されている民衆のことを思っては心を痛める日々を送っていたのだろう。ティルテュがアイラに出会うずっとずっと前から。それは未だにうまく想像が出来ない。
今度は、自分の番なのだ。ティルテュは不思議とそんなことを思った。
何一つアイラと自分は同じ立場ではないけれど、なんだかそう感じずにはいられなかった。
「私も・・・」
「うん?」
「強く、なりたい」
「・・・ティルテュは、十分、もう、強い」
アイラは苦笑を見せた。
「アゼルを待とうと決めたのだろう?・・・人を待つ、ということは、ものすごい強さが必要なのだと痛感した。ティルテュはそれを選んだんだ。だから、ティルテュは、十分強いと、私は思う」

ティルテュは目の前で眠っているスカサハとラクチェをみつめながら、アイラのその言葉を思い出していた。
何度も何度も頭の中で反芻する。
そうかしら、私、強いかしら?
でも、アイラ様にそう言ってもらえることって、なんて心強いんだろう・・・。
コンコン
ノックの音。
「どなた?」
「ティルテュ様、フュリーです、戻りました」
カチャリとドアをあけて、フュリーが姿を現した。赤子がいる部屋に入るのだから、と到着してから先に着替えをしてきたらしい様子がすぐにわかる。
「フュリー!」
ティルテュはぱあっと嬉しそうな笑顔を浮かべ、それからふ、と双子にまた視線を戻した。
・・・フュリーが帰ってきたということは、アイラはもうすぐ砂漠を渡りきるのだ、ということだ。
ああ・・・行ってしまったのだな。
ティルテュはそんなことを思いながら、おかえりなさい、とフュリーに言った。

予定の期日まであと一日となっても、デューは戻らなかった。
その夜、顔色があまりよくないエーディンが、夜番になっていたレックスとアレクのもとに暖かい飲み物を差し入れにやってきた。
「二人とも、お疲れ様」
「ああ、エーディン」
砂漠の近くのフィノーラ城でも、やはり朝晩は多少は涼しい。春とはいえ、毎日が暖かくぽかぽかで・・・という気候とはまた違った、特殊な場所だった。
もう少しレンスター側か、もう少しバーハラ寄りになればまた気候は穏やかなのだけれど・・・。
あまりグランベルの人間がここいらの地域を重要視していないことがわかるような、あまりに杜撰だったフィノーラ城の守りを思うと、なんて今までグランベル中央の、過ごしやすい地域で生きてきた自分達は甘えていたのだろうとアレクは思う。
シアルフィは気候が穏やかで過ごしやすい場所だ。グランベルの多くはその豊かな土地に占められている。
「ありがとうございます」
アレクはエーディンに礼儀正しくそういって、彼女の手からカップを受け渡してもらった。
「エーディン、あまり顔色がよくないぞ」
気付いてレックスはそう言う。エーディンは肩にかけた薄紫色の地厚なショールを胸元でたぐりよせながら小さく微笑んでみせる。
「そうかしら?」
「ああ・・・ブリギッドのこと、か?」
「・・・それも、あるわ」
見張りには4人ほどが毎晩交代で立っている。
城の西側に2人、北側に一人、東側に一人。南側は崖になっていて、トラキアの竜騎士といえども攻め入ることが難しい地形にこのフィノーラ城はたっている。
レックスとアレクは西側の警備に夜半すぎまで立つことになっていた。
南側の一階と二階の途中の踊り場から出られるベランダに、警備のための詰所がある。とはいえ、風を防ぎながら空も地面も見える場所に、小さな小部屋があるようなものだ。それも扉は開け放してあって基本的に彼ら二人はベランダに立っていることになる。詰め所に入ってしまえば見張りの意味がないからだ。
「でも、ちょっとだけ単純に体調がよくないの。本当にちょっとだけだから、心配しないで」
「デューのやつが、さっさと帰ってくればいいんですがね」
アレクは彼には珍しく溜息をついた。いつも軽口を叩いている男だが、ここで「大丈夫大丈夫」と無責任なことを言えるような状態ではないと彼とてわかっている。
「お姉さまが心配しているのは、デューのことだけではなく、アゼルのことも、なの」
エーディンは、ベランダの手すりに体をもたげているアレクとレックスの隣に並んで、どんよりとした空を見上げた。夜風は吹いていないから、まだ過ごしやすい。
アレクは手すりの上に受け取ったカップを置く。
「アゼル公子が?」
「ええ・・・デューがここを発つ前に、アゼルが・・・ヴェルトマーの紋章がはいったブローチをデューに渡したらしくて・・・
それが、災いしているのではないかってアゼルが心配しているようだったから・・・ほら、お姉さまは・・・人の気持ちを煩わすことがとても苦手で、ついつい意地をはってしまう方だから・・・」
アゼルがそのことを気に病んでいるのが耐えられないのだろう、とエーディンはいう。
それは、もうどうしようもないことだ、とレックスは思った。
アゼルの心配もわかるしブリギッドの心配もわかる。
何よりレックス達もデューが持っていった親書のことよりもデュー本人の命の方がやはり心配なわけで。
「やっぱ、そんな話ばかりじゃあ、しんみりしてしまうなあ・・・。今、一番アゼルがつらい時期なんだろうしな」
「アゼル公子は・・・ここでなんとかアズムール王に親書を届けてもらわなければ、自分のお嫁さんの父親を殺すことになるわけですしね」
嫌そうにアレクも同意した。
「・・・エーディン、大変だとは思うけれど・・・あまり、なんでも気に病むことはないぞ」
「ありがとう」
「調子が悪いなら、ゆっくり休めるといいんだがな・・・アレク、エーディンを部屋に送ってくれないか」
「はい。お任せを」
「ああ、いいのよ、そんな。お城の中なんだし」
慌ててエーディンはそれを断わる。そんなことをして欲しくて、二人に差し入れに来たわけではない、と申し訳なさそうに言うが、アレクはうやうやしく
「お送りいたします、エーディン公女・・・俺のような者でも、話相手になれればいいのですが」
エーディンは驚いたようにアレクを見て、そしてレックスを見た。
「どうして?話相手、って?」
「・・・エーディンは、デューとも仲良しだったし、旦那(ジャムカ)もデューと仲がいい。ブリギッドだけじゃなくて、エーディンも、ジャムカも、デューが帰ってこないことでまいっているのは、知っているよ。もちろん、シグルド公子もな。一人になりたくないけど、ジャムカやブリギッドと一緒にいるのもつらいんだろう?」
そのレックスの言葉を聞いてエーディンはふう、と溜息を漏らした。苦笑を見せながらショールをたぐりよせた手に力をぎゅっといれ、そして静かに瞳を伏せる。
「情けないわ。私・・・自分が愛する人達がみな辛い思いでいるのに・・・それを、受け止めてあげられる器量がないなんて」
「そんなことは、ないでしょう」
アレクは彼にしては極上の優しい口調で言った。
「あなたは、いつも受け止めようとしすぎているくらいだ・・・人間はそんなに都合がいいものではないんですから。愛し合っている者同士がいつも一緒にいれば、苦しみも何もかも緩和されるわけじゃあ、ないでしょう・・・。それは、理想だ」
「・・・ありがとう。そう言ってもらえると、幾分ほっとします」
気丈にもエーディンは笑顔を見せた。
ジャムカとエーディンはこの軍一番といっていいほどのお熱い夫婦だ。
いつでも彼らはお互いのことを深く愛し合っていて、お互いに理解が深い二人のような気がしていた。それはきっと間違っていないし、誰の目からしてもお似合いの二人だと思える。
とはいえ、いつだってお互いがお互いの支えに必ずなれる保証はなく、ジャムカも、エーディンも、そしてブリギッドも、少し今はまいっているところなのだろう。
それは、わかる。
人間が一人二人だけで生きていけないのはそういうことが回避出来ないからだ。
一人になりたくない。でも、いつも側にいてくれるこの人と今は一緒にいても、お互いに良くないと思える。
そういったときに第三者にまで救いを求めるのは、至極当然のことだとわかるほどに、レックスもアレクもこの3年で大人になった。
調子が悪い、といいながらもなんとなくやってきてしまったエーディンの気持ちは、レックスもわからないでもない。
そそのかされてヴェルダンがユングヴィに侵略をしなければ。
エーディンがさらわれなければ。
もっともっと根っこの場所では、クルト王子のイザーク遠征前から仕組まれたことだったことはわかっていたが、シグルド達を動かしてしまったのは、自分がさらわれたからだ。
不可抗力だと思いながらも、それが頭から離れるときはいっときもなかったし、そのときエーディンを守りきれなかったミデェール、ユングヴィへ進攻したヴェルダンの父王をとめられなかったジャムカ、そして、幼い時に生き別れてしまったがゆえに、弟であるアンドレイが親殺しをするほど道を踏み外すことを止められなかったブリギッドと、そして自分。彼女の近くにいる人々は、なんらかの形でこの戦が始まるための歯車になってしまっていた。
そして今、自分を救おうとしてヴェルトマーからかけつけてくれたアゼルは、それゆえにティルテュの父親と対峙することになってしまうし、ヴェルトマー城を攻める可能性だって出てきてしまっているのだ。
あまりに重くのしかかってきている重圧の上に、イザークに逃れたレスターのことを思えば尚のことエーディンは具合も悪くなろう。
「じゃあ、行って来ます」
「ああ。ちょろっと中庭の散歩がてら城内を回ってきてくれよ」
「わかりましたよ」
まっすぐに部屋に戻るよりも、その方がエーディンも気が楽だろう。
でも、見張りがレックス一人では、とエーディンは申し訳なさそうな表情を見せる。
「大丈夫大丈夫。・・・よく眠れるといいな?」
「ありがとう、レックス」
アレクに付き添われてエーディンはそっと歩き出した。ベランダから踊り場に戻るときには、わずかに段差がある。
それを、アレクが先回りをしてうやうやしくエーディンの手を取った。そこいら辺はアレクは正しい騎士の作法を知っている。
シアルフィの騎士は誰も彼も朴念仁で、貴族の女性達に受けが悪いけれどアレクは違った。もちろん別段彼はそれを売りにしているわけでもないけれど。
それを見送ってから、ああ、折角アレクの分も持ってきてくれたのに冷めちまうな・・・とまだほのかに湯気が立ち上っているカップをレックスは見た。
「飲むか?ブリギッド」
「・・・気付いていたのかい。抜け目のない男だね」
ひょい、と暗い詰め所からブリギッドが姿を見せた。いつも髪をあげているヘアバンドをとっているため、普段よりずっとエーディンと似ているように見えるな、とレックスは思った。
「・・・声をかけたんだけれど、エーディンは気付かないようだったから、大丈夫かと心配で」
「そんで、付いてきたってわけ・・・飲むか?」
「うーん、アレクが口をつけたものだろう?」
「いや、俺がそっちは飲む。いくらなんだってそんなもん、女性に勧めるか」
「あはは」
レックスからカップを受け取ってブリギッドは笑い声を漏らした。が、すぐに真剣な眼差しになって
「なんとしてでもデューには戻ってきてもらわなければいけない」
「・・・そうだな」
「これ以上、誰かが後悔をする姿を見るのは、嫌だ」
「それが、一番の理由とは思えないが?」
レックスの言葉に対してブリギッドは動揺も見せずに
「それを言わせてどうしようっていうんだい」
とさらりと交わす。それもそうか、とレックスは自分の下世話ぶりに反省をしたようで、
「・・・失言でした、お姉さま」
「あたしの方が年上だったっけ?」
おかしそうにブリギッドはくっくっく、と笑って、遠慮なくエーディンが持ってきてくれた茶を飲んだ。
そんな年齢の話なんてしたこともないくせに、とレックスは少し苦笑いをする。
「逆効果にならないことを祈ってるんだ。親書が届いても届かなくっても、それは仕方がないことだ。一番悪いのは、デューが帰ってこない、なんてことになっちまったら、誰もかれも意気消沈しちまうからね」
「でも、デューには俺がリターンリングを渡しておいたんだし」
「ああ。だから、だよ。だから尚更だろう」
なのに帰ってこられないということは。考えたくない可能性がレックスの脳裏に浮かぶ。
「あんたはすごい女だな」
「レックスの彼女も相当なものだろう?」
「違いない」
それでも、自分が愛する男の死をも感じさせる言葉をさらりといってのけるこの女性は、やはりすごい女だ、と思う。
「士気が下がる。戦わなくてすむようになるのなら、それでもいいけどね」
それは一時期とはいえ海賊の首領をやっていた彼女ならではの見方だ。薄々レックスもそれは感じ取っていたことだから、あえて返事はしない。
シグルドは今、あまりに深く悩んでいる。これ以上の犠牲をグランベル側に強いてまでも自分の主張をすべきなのか。
けれど、それをしなければ、彼についてきた人間は全員グランベルへの反逆罪を認めたと判断され、狩られることだろう。一生逃げつづけるわけにもいかない。
苦渋の選択でデューにすべてを託したが、その彼が戻らないということになれば、シグルドも、誰もが、後悔をして苦しむのだろう。
ブリギッドは星がない夜空を見上げた。
レックスは何も言わずにそれに習う。
そうだな、アイラも確かに相当なもんだ・・・。あいつは、子供を身ごもっているくらいが無理をしなくて丁度いいのかもしれなかったんだけれど。
今頃、どうしているんだろうか。
そんなことを思いながら。
空には、星は出ていなかった。出ていても、彼らには見えない。

アイラは天馬騎士の力を借りて、なんとかイード砂漠を渡りきろうとしていた。
時折砂煙は天馬の足元まで舞い上がり、それゆえに天馬が嫌がって天馬騎士が握る手綱の動きに逆らうようにいやいや、と身もだえするほどだ。低くもなく高くもない高度で渡るには細心の注意が必要だったし、天馬のコンディションを整えることが普段以上に難しいことをアイラも天馬騎士もわかっていた。
頻繁に休憩を取るけれど、それでも場所によっては天馬は下に下りたがらない。崖がある場所ならば崖の上に降りるけれど、そうでなければあの憂鬱な砂の上に体を休めなければいけない。空の生き物である天馬にとって、まるで足を取られて地の下へと連れて行かれそうにまとわりつく砂は最も忌み嫌うものだった。ならば、まだ雨で翼が張り付いて重くなるほうがましに思える様子だ。
アイラは自分の体力が、やはり想像以上に衰えていたことを実感していた。
天馬に乗っていても与えられる衝撃は、出産後のアイラの体からやはりそれなりの体力を奪っていき、まだ完全に本調子ではない彼女の体を苛む。
それでも、イザークからシャナンを連れて逃げた時に比べれば何倍もましだとアイラには思えた。
この砂漠は初めてではない。
あの逃亡の際にシレジアを選択することは出来なかった。あの季節はまだ緑があり、シレジアへの道を行くには追っ手の馬にとって恰好の季節だったからだ。砂漠を選択したのは、自分達が徒歩を得意とする民族だったことと、グランベル軍はその多くが騎兵だったからだ。
砂漠を渡りきっても助かる見込みはなかった。レンスター方面に行こうとしたけれど、結局出たのはグランベル方面で、逆にどんどん敵陣に入っていく羽目なったのが幸いしたように今では思える。よもや追っ手もアイラ達がグランベル方面に向かうとは思っていなかっただろう。現にグランベルの追っ手がシレジア方面、レンスター方面に派遣されたという話も風の便りで聞いたことだった。
過酷な砂漠だった。
捕まれば殺される。みつかるわけにはいかない。しかも自分一人ではない。
それは幼いシャナンにはあまりにも辛すぎる逃避行だった。
砂に足を取られて疲労困憊したシャナンをおぶってアイラは砂漠を横断した。
ここで死ねない。
ここで死んだら元も子もない。
彼らが砂漠を越えられたのは奇跡的で、その源となったものはただの意地だけだった。
水をがぶがぶ飲みたがるシャナンを叱りつけ、泣きそうなシャナンをなだめ、自分を叱責して。
シャナンが眠りについたときには夜の冷えを避けるために抱きしめながら辺りの様子を伺い、始終気が張り詰めた状態だった。
それを考えれば、天馬騎士には申し訳ないけれどこんなに楽にこの砂漠を渡れるなんて。
どんなに天馬が嫌がって、いつも通りの飛行が出来ないとはいえ、あの地獄の日を思い出せば、アイラにはそれすらどうということもない些細な事柄だ。
「もうすぐ、砂漠を渡りきれますね」
シレジアの女騎士はそう言ってアイラに笑顔を見せた。
途中まで一緒だったフュリーももうリューベック城に戻り、アイラの頼りになるのはこの天馬騎士一人だけだ。
「ああ・・・すまなかった。天馬にも無理をさせた。渡りきったところに村があるはずだ。そこでゆっくり休んでから戻るといい。私はそこからは自分の足でフィノーラ城まで行けるだろう」
「はい。申し訳ありませんが、あまりグランベル側には・・・」
これ以上は近づきたくない、という気持ちはよくわかっている。アイラは謝ることはない、と天馬騎士に笑顔を返した。
と、自分で、ああ、今私は笑いかけていたな、とふと気がついた。
自分は愛想がない、とか可愛げない、なんてことをよく言われていた。それはちょっとした感謝の言葉と共に笑顔を作れないからだ、とはっきりと兄上に言われたこともあったっけな。
イザークにいた頃のことをふと思い出す。・・・ああ、そうか。こんなときに、笑顔を返せるようになったのは。
多分、レックスのせいだ。
アイラは自嘲気味に口はしを歪めた。

その村にたどり着いたアイラ達が村に入るよりも早く、天馬の姿を見つけてか、村人達の方から村の入口にとやってきてご丁寧にも迎えに出てくれた。イザークからの逃亡の際にこの村には立ち寄ったけれど、何分あの時はあまりの疲労のため、ここの住民がどういった気質を持っていたかとか、イザークに対して、グランベルに対してどのような感覚でいるのか、といったことを残念ながらアイラは知る余裕もなかった。それを今更悔やんでも仕方がないが、とりあえず彼らから敵意を感じないことだけは間違いはない。警戒しすぎることは逆に反感を買うだろう、とアイラは考えた。
5,6人の村人達が代表者らしき男を囲んで向かってきて、アイラと天馬騎士から5,6歩離れた距離で横一列にぴたりと足を止めた。
その代表者らしき男が一歩進んで穏やかに声を出す。
「シレジアの天馬騎士の方とお見受けいたしますが」
「はい」
アイラは答えないが、共にここまで来た騎士団員は丁寧に返事を返した。
「もしやとは思いますが、シアルフィのシグルド公子とお知り合いではございませぬか」
「公子をご存知か。今、フィノーラ城にいるのだな?」
アイラがそれへ反応して声をかけた。
「あなたは・・・」
「・・・ああ・・・」
身分を明かしていいいものか、と一瞬アイラは躊躇したけれど、相手方が素直にシグルドの名を出したことから、きっとシグルド軍を知っていて、更には天馬騎士であるフュリーがその軍勢にいたことをわかっているのだろう、と踏んで正直に名乗った。
「私は、アイラという。シグルド公子の軍と行動を共にしている。彼らと合流するため、シレジアの天馬騎士の力を借りてこの砂漠を渡ってきた」
「アイラ・・・ああ!もしや、あなたはイザーク王家の」
「私を、知っているのか」
アイラは警戒を強める。
グランベル側からすれば、まだイザークはクルト王子を殺害した蛮族の国、という悪名が拭われていない。その国民に、自分の素性が明らかになるのはいいこととは思えない。
・・・が、アイラのそんな思いとは裏腹に、相変わらず彼らには敵意はなく、逆に恭しく礼をされるだけだった。
「この間、シグルド公子がこの村を訪れた時に、我々に教えてくださいました。イザークは、悪いことはしていない、と。例え、イザークとグランベルの間に大きな諍いが起こりそれが続いていることが事実だとしても、我々はイザーク国民を全て恨む必要はない、と。悪い者はすべて、その諍いの元を作り出した人間だけで、その国そのもの、その国民誰もが悪いわけではないと。砂漠を渡ってきた人間は、どんな事情であれ体に疲労を抱えてこの村を訪れるのだろうから、わけ隔てなくその人々に手を差し伸べて欲しい、と。我々は砂漠の側に生きる、ささやかな小さな村の人間です。戦の大局や国と国の諍いといった大きな物事を知らされず、知らず、ただ訪れる人々を受け入れ、そしてまた見送るだけの、何も力がない慎ましい生活を送っています。シグルド公子と、公子の父親であるバイロン卿はそれをとてもわかってくださって、そして、グランベル領地であろうと、どれだけこの村がグランベルからの恩恵も受けずにひっそりと生活をしているのかを理解してくださいました。だから、我々はあのお方の言葉を信じようと思っているのです・・・それから、シグルド公子は、あなたがここを訪れるかもしれない、と教えてくださいました」
「私が!?」
アイラは驚きの声をあげる。
・・・なんてことだ。
シグルド公子には、お見通しだったのか・・・あんぐりと口をあけて代表者の言葉を呆然と聞いているのが精一杯のところだ。
「ところで、あなたが本当にシグルド公子と合流をするのであれば、一緒に連れて行って欲しい人間がいるのですが」
「どういうことだ?」
「昨日、ヴェルトマー城の方向の崖から転落したらしい少年を見つけたのですが・・・・」
「・・・何?」

村の小さな一軒家に案内されたアイラは、思いがけない人物と出会った。何がどうしたのかさっぱりわからないけれど、その家にはこともあろうにデューがいた。
暗い室内でデューは質素な固いベッドに横たわり、毛布一枚を腰から下にかけた状態で静かにこちらをむく。
いつもと同じ恰好だったが、腕や顔など剥き出しの部分のあちこちにすり傷やら痛々しい青痣があることが一目でわかる。ただ、どこにも剣や槍による傷がなさそうだとアイラはさっと見てとった。
彼はアイラを見て目を大きく開けたけれど、声をかける前にみじろぎしたため、いてて、とうめいてからふうーと息を吐き出した。
「どうしたんだ、一体!」
「・・・ああー、ヘマやっちまったよう・・・でも、どーしたんだ、はおいらのセリフだよ、アイラさん・・・」
「デュー、なんでこんなところに」
「話せば長くなるんだけどさあ・・・」
横たわったままでデューは力なく笑った。
この村には癒しの術を行使出来る人間がいないから、薬草の力を頼るだけなのだ、と代表者が説明をしてくれる。
「我々がフィノーラにお連れしようと思ったのですが、それがヴェルトマー側にわかってしまっては、村に被害が及ぶかもしれない、とこの少年は意地を張って譲ってくれないのです」
その気持ちはわかる。
とにかく今回のこの戦に関しては、出来る限り無関係な人間を巻き込みたくないというのはシグルドの願いだ。
こんな風に自分やデューをかくまっているとグランベル側に知れてしまえば、この村のグランベルからの扱いは悪化するに違いない。
「デュー、説明してくれないか・・・お前、それ・・・レックスのリターンリングじゃないか。どうしてそれを使わないんだ」
アイラはベッドのデューの枕もとで跪いて彼の指先に光っている指輪を見た。へへ、とデューは小さく笑うと
「だってよー、リターンリング使おうと思ったら・・・おいらさあ、フィノーラ城って、あんま、いなかったから・・・思い出せなくて全然イメージ出来なかったんだよお・・・そいで、やばい、と思ったときにはさあ・・・追っ手に捕まりそうになって・・・慌てたら、足を踏み外して・・・いててて」
デューが何を言っているのかアイラには、わからない。ただわかるのは、リターンリングを使わなければいけないような状況に彼が陥って、けれど、帰るべきフィノーラ城にいた期間があまりにも短かったためにリターンリングの力をうまく発動させることが出来なかった、ということだけだ。
そもそもこの指輪に秘められた力というものはかなり特殊で、戦に出ている騎士が本城の危機を察知した時にその本城に対する忠誠心を源として守るべき場所に連れて行ってくれる、というものだ。時折そういった状況でなくとも戻りたい場所へのイメージが強ければその場所に戻ることも出来るのだが、デューはどうやら慌ててどうにもならない状況での使用になったため、その力を発揮出来なかったのだろう。
そのとき、薬を持って年配の女性が入ってきた。
アイラを押しのけてその女性はデューの体に出来た傷にべたべたと薬を塗りたくっていく。いてて、いてて、とデューは小さく声をあげながら、それでも
「早く、帰らないと、みんなおいらを待ってるんだ・・・おいら、王様への手紙、アイーダ将軍に、渡して来たんだよお・・・」
「・・・王様への、手紙?」
「でも、保証は出来ない、って言ってた。動き出してしまったものを止めるには、遅いかもしれない・・・って。それでも、おいら達が、本当はグランベルと戦争なんてしたくないんだってことを・・・それを伝えようとしているってことだけは、王に伝えようと思っているって、あの綺麗なお姉ちゃんは、おいらに言ってくれたよ・・・ってええーっ!おばちゃん、もっと優しく塗れよっ!」
「アイラ様」
その会話を聞いて、シレジアの天馬騎士がそっと耳打ちする。
「・・・私が、あの少年をフィノーラまで送りましょうか?」
「・・・いや、それは・・・迷惑がかかってしまう」
「でも」
迷いもなくアイラはきっぱりと言い切った。
「申し出はとても嬉しいが、これ以上シレジアにひとつでも迷惑がかかることをシグルド公子もよしとはしないだろう」
「ですが、きっと」
天馬騎士はそれでも譲らない口調で返す。
「ラーナ王妃がここにいらっしゃったら、きっと私にそう命じると思うのです」
「・・・」
アイラはしばらくその騎士を見つめた。
それから、彼女にしてはうやうやしい仕草でその場で跪き、まるで自分より上の位の人間に対するように頭を下げた。さらりとゆれた豊かな黒髪は、ついこの間切ったとばかり思っていたのに、既に切る前の長さに近く戻って艶やかに輝いていた。
自分が摂取する栄養分を自分だけに与えられる体に戻ったのだな・・・。アイラは一瞬自分の視界に入った自分の髪を見てそんなことを思う。
「アイラ様!?」
「・・・イザークの王女として、シレジアが私にどれだけの尽力をつくしてくれたかは、嫌というほど身にしみて・・・言葉では、もう感謝の気持ちを言い表せない。中立の国といえば聞こえはいいが、戦を嫌う臆病な国だと陰口を叩く人間も多い。けれど、そうではないことを私は知っている。シレジアの騎士達はみな勇敢で、そして心が広く・・・自分の主の思いを、正しく理解している素晴らしい騎士達だ。私はそなた達のことを、イザークの民に伝える義務があるな・・・では、そなたに、ラーナ王妃に、もう一度だけ甘えさせてもらってもよいだろうか?」
顔をあげて、目の前で困ったように立っている天馬騎士を見る。
「そなたの言葉を、ラーナ王妃のお言葉と、信じても良いのだろう?」
「アイラ王女・・・勿体無いお言葉です」
わかってはいたけれど。
この人は、なんという、穢れのない王族の生き様を貫こうとしているのだろうか。
あまりにも身に余る言葉を他国の王族から与えられ、この騎士は深く頭を下げるばかりだ。僅かに震える声で答える。
「私が知る、私が敬うラーナ様が真のシレジア王妃であれば」
「・・・それならば、そなたを、信じよう・・・ご尽力、感謝する」
アイラは立ち上がってデューの傷の様子を見ようと顔を近づけた。その背中から天馬騎士は目をそらすことが出来なかった。
のちに、シレジアに戻ることになるこの騎士は、同僚達に何度もこの時のアイラの言葉を、熱く語り聞かせることになる。


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モドル

切っても切れないイザークの血。
どこまでもどこまでもそうであるアイラでいて欲しいし、それを嫌というほど知っているレックスでいて欲しいと思います。
5章会話で、アゼルはティルテュと子供達を安全なところへやりたい、アイラは何があってもシグルドと共に行く、ベオウルフはラケシスにレンスター行きを勧める、という、おのおのの行き先が伝わってきます。子供を産む女性でありながら、自分の男との会話に留まらずにバーハラ行きを決断するアイラ。これが、彼女のすべてを表していると思いますし、それに対してそんなアイラだから好きだと言い切るレックスの懐の広さに今更ながら感動してしまいます。
そして親友同志でありながらこれほどの差異をもつアゼティルとレクアイ。
取り立てて対比を書きたいと思ったわけではありませんが、気付いたら比較できちゃうような流れになっていました。不思議なものですね。