春雷-3-

昨日のあの少年は命をかけたのね。
アイーダは夜になってもまだ執務室の机に向かって書類に目を通していた。
レプトールがやってきてからというもの、様々な細かい執務が増えてしまって日常の業務が滞りがちだ。そこにきてあの少年が持ってきた親書。
手元の灯りひとつだけで薄暗い室内で、アイーダはとっくに冷めてしまった茶を飲み干した。カチっと小さな音をたててソーサーにカップを置いてから、一日の執務に駆け回って少し乱れた前髪をかき上げる。
ほんのちょっとだけ、疲れたような気がする。
アルヴィスにヴェルトマー城を任され、日々の雑務をすることは別段アイーダには大変なことではなかった。何よりもレプトールの相手をすることがあまりの茶番でうんざりだと思える嫌な仕事で。けれども茶番は茶番なりに確実に疲労感を伴うことだと覚悟はしていたことだったし、こればかりは仕方がない。レプトールとのやりとりの中で何が面倒かといえば、あの小賢しい男が何一つ誰一人本当は信用していないということで、アイーダ本人があの男を好きとか嫌いとかいうそういった感情は二の次の話だった。
ヴェルトマー城の南側でシグルド軍を迎え撃つ手はずを整えながら、その後方を守るアイーダを信頼していないあの男。
ランゴバルトの訃報を聞いてから尚のことレプトールは自分の保身に敏感になった。ヴェルトマー城にやってきて、自分の城ではないというのにありとあらゆる場所にフリージの兵士を配置して、まるでヴェルトマー兵すら信用ならない、とばかりにアイーダの動きすら監視をしようとしている。
そんなときに、あの。アルヴィスの義弟であるアゼルのものだと一目でわかるヴェルトマーの紋章を形どったブローチをあの少年はアイーダに見せた。
あの少年の役目、その親書の中身。大方の予想はすぐに出来た。
とはいえその予想はその場で突然ふってきた事柄を元にしたものだったから、前から考えられていたシナリオにはまったく含まれてはいないものだったし、例え考えていたとしてもこんな形でやってくるとは思うことは出来なかっただろう。
(命をかける場所をよく見極めたものだわ。見たところなんの武術の修得すらしてなさそうな様子の、あんな少年が・・・それに、とりあえずはシグルド公子もやはり簡単には動いてくれないものね。さすがバイロン卿の息子だけはある)
ついついあの少年のことを思い出してしまうのは、今アイーダは執務をこなしながらバーハラからの使者を待っているからだ。アイーダはふう、と背もたれに体重を預ける。
(しかし、どこまでもレプトールめ・・・面倒な男だ)
レプトールのことを考えるとついつい頭の中ですら口調が荒くなってしまうことをアイーダは自覚している。
検問に並んだ列に紛れていた金髪の少年となんとか一対一で話を出来るように手配するのはとても面倒だった。アイーダのことをいちいち監視しているフリージ兵の目を欺くのもそうだったし、検問の件でやらなければいけないことが溜まっていた。それに、彼からどういう話があって、自分はどのように対処していいのか、バーハラにいる(表向きはこちらに向かって進軍していることにはなっているのだが)アルヴィスにすべてを問うわけにはいかなかったから、それを考える時間も欲しかった。
・・・そうだ、アルヴィス様。
アイーダは、ふう、と小さな溜め息をもらして姿勢を直した。茶を飲もうとカップにもう一度手をかけ、その中身を既に先ほど飲み干してしまったことに気付いて苦笑をする。
美しく整った顔は若干の疲れの色を見せている。それは体の疲れだけではない。
バーハラでアズムール王の側にいるアルヴィスを信じる道を自分は選んだ。それに後悔はしていない。ただ時折、今彼の側に寄り添っている美しい妃を思うと、えもいわれぬ不自然さを感じて何故だか気分が重くなる。
(思い過ごしだと、いいのだけれど)
ディアドラ、という名のその可憐な女性には、既にアイーダは目通りしている。クルト王子の忘れ形見である彼女をアズムール王は本当に可愛がっているし、アルヴィスはどうやら心から彼女を愛しているようだ。
自分がアルヴィスをどう思っている、とかディアドラをどう思っている、とかそういうレベルの話ではないことをアイーダは薄々感づいていた。良きにつけ、悪しきにつけ、自分は勘がいい方だ。
あの二人が並ぶ姿は、なんだか嫌な・・・幸せそうで、その反面何か嫌なものを感じる。
そんなことを思っていたときに、ゆらり、と空間が歪むような感触を感じた。
「・・・よい、現われなさい」
リワープを行使できる魔導士は少ない。
バーハラからのその使者も、一人ではその術を行使することが出来ず、現れようとする先にいるアイーダの魔力に手助けをしてもらわなければ実体を移動させることがままならない。
アイーダは魔導士に許可の言葉と共に、その実体化を手伝うために右手を床と平行にあげた。
その指が指し示あいた、机の前にぽっかりとあいている空間に人間の形をしたものがゆらりと蠢いた。と思うと、それはみるみる実体化して本当の人間になる。黒いローブに身にまとった男はうやうやしく跪いて言葉を発した。低い、室内には二人しかいないけれど、それでも他者へ聞かれないように、と気を使っている響きを感じさせる声だ。
「アイーダ様、夜分に失礼いたします」
「それで?」
面倒なやりとりをアイーダは嫌う。結果から先に延べよ、と促す。
「昨晩の文書をアルヴィス様にお見せいたしましたところ・・・」
その男はアイーダが聞きなおす言葉がひとつもないように、簡潔かつ丁寧に、更には迅速さを守りながら正しい言葉で報告を行った。言葉を伝えることが役目であるその男はとても執務に忠実だったし、自分とアルヴィスの間を行き来するには非常に適任だとアイーダはいつも思わされる。余計なエネルギーを使わなくてすむことはありがたい。それから、ひととおりの言葉を聞き終わるとアイーダは一度瞳を伏せた。
多分そうなるだろう、と思っていた言葉を男はよどみなくアイーダに伝え、彼女の反応を待っているところだ。
「わかった」
・・・アルヴィスならば、そうするだろう、と思った。それが葛藤の末のことでも、葛藤もなく下した決断だろうと、そこにいたるまでの経緯を完全にアイーダが把握を出来るわけではない。
ただ、彼ならそうすると思った。それでも。
命をかけてやってきたあの少年に対して酷なことを強いるな。
申し訳ないことだ。
アイーダはそんなことをふと思いついて、それから口はしだけで苦笑をした。
アゼル公子はどう思うことだろうか。
あの方は公子を心から大切に思っていたのに。
そして、アゼル公子について、今あの方はどう思っているのだろうか。
自分は今、あの方の側にはいないから、あの方の心を全て理解することは出来ない、もちろん近くにいるからといって人の心の全てを見透かす術などないけれど・・・。それでも、少なくともこのことについては、あの方の隣に今座って微笑んでいるあの妃では理解が出来ないことに違いない。
自分が、共に背負うものは、そういうものではない。
・・・アイーダは心持ち無理矢理な笑顔を作って使者に声をかけた。
「ありがとう、疲れたことでしょう。下がると良い。とはいえレプトールの部下達があちこちで見張りを立てている。そう何度もリワープなど行使できないのだろうし・・・違う?」
「はっ・・・」
「ここから」
アイーダは部屋の隅にある灯りをおくために壁に固定されている蜀台のところに歩いていき、その飾りの底の部分にふれた。
きゅきゅっと少し耳障りな音をたてながら蜀台の飾りを回すとかちゃりと音がする。それはこの部屋の主しか知ることがない隠し扉の鍵のしまい場所だ。
この部屋にある唯一の隠し扉へとその使者が入っていくのを確認して、再度鍵を閉めて一息つく。
例え隠し扉の中で何かがあっても、いざとなればどこへでも脱出先が定まらない、それでもなんとかなる程度にはリワープが出来ることだろう。その信頼があってのことだった。
アイーダは疲れたように椅子に腰掛けた。
「まったく、レプトールめ、面倒な」
それでも疑心暗鬼になりながらもヴェルトマーに背を向けて出陣してくれるのはありがたい。アルヴィスがバーハラを出て、彼の手勢であるロートリッターを率いてこちらに向かっているところ、という情報をうまく信じさせることが出来たのは我ながら上出来だ、とアイーダは思っていた。
この戦いが終わればフリージ家がアグストリアの王家になる、という約束をアルヴィスとレプトールは交わしている。もちろんそんなつもりは毛頭ないけれど、それを何故あの男は信じることが出来るのだろう?アイーダは不思議で仕方がない。レプトールは確かに宰相としてグランベルの中枢に必要な人物だったかもしれないけれど、国そのものを手に入れる、というこが本当はどういうことなのかわかっている、自分にはその器がある、と思っていたのだろうか?それを考えると本当に哀れな男だとアイーダは思わずにはいられない。
アルヴィスのように。
正しく民を導く国を作ろうと思う人間ですら苦労を強いられるこのご時世、私利私欲のために国をうまく治めることなど出来るわけがない。
「・・・明日、か」
もうそろそろ限界だ。
明日あたりにはレプトールを騙しているシナリオではロートリッターが到着してもおかしくはない。うまくシグルド軍が動いてくれなければちょっとややこしいことになる、なんてことをアイーダは思いながら、もう一度カップに手をのばし、それから手を引っ込めるのだった。
あの少年に会えたことは、ありがたい。だって、シグルド軍の進攻が止まってしまったことで、自分達のシナリオもどうなるかと少しはらはらしていたから。
けれど、それに感謝することは、命をかけてやってきたあの少年に対しては申し訳ないことなのだろう。

天馬がやってきた、という知らせをうけて、やはりいち早くかけつけたのはレヴィンだった。
当然、もしかしたらフュリーだろうか、という気持ちからにきまっているのだけれど。
けれども彼らの予想は裏切られ、フィノーラ城前にゆるやかに下りてきた天馬の背に乗っていたのはあまり見ない顔の天馬騎士と、それからとてもよく見た顔の少年だった。
「デュー?」
「た、ただいまあ。遅くなって、ごめんよっ!」
天馬から下りたデューはまだ痛みの残る体でぎくしゃくと出迎えた皆に手をふった。
が、顔にも残る擦り傷の跡などですぐに彼が通常の状態ではないことに誰もが気付く。
「エーディンを呼んで来る」
レヴィン、シグルド、アーダンにノイッシュ、それからブリギッド。一番初めに駆けつけた彼らの中で、最も再会を喜ぶはずのブリギッドは冷静にそう言って城内に戻っていった。それがとても彼女らしいとシグルドは思う。
「デュー」
天馬から降りたかと思うとデューは迎えに出てくれたシグルド達のもとに走り寄った。
が、その脚にはいつも通りの軽快さがない。
「へへ・・・シグルド様、遅くなって、ごめん」
「遅くなってって・・・よかった。生きていたのだな、デュー」
「うん、このとおりさ!」
「・・・それだけが、心配だったよ」
そう言ってシグルドはデューに笑顔を見せた。それは心からほっとした笑顔だ。親書が届く、届かないよりも正直なところデューの生存が彼にとっては大切だった。
もう誰も何も失いたくはない。
デューに事の成り行きを聞くことをせかすことなく、シグルドは胸をなで下ろしてほうっと溜め息をひとつつく。
その傍らで、どうしてお前が、とレヴィンが天馬騎士に声をかけた。
「わたしは今からリューベック城に戻ります。その、わたしは砂漠越えだけを目的にしていたのですが・・・デューさんをここまで連れて来たので、また戻って拾ってこないと・・・」
「はあ?」
そのとき、ブリギッドがエーディンをジャムカを連れて戻ってきた。
「デュー!お帰りなさい」
杖をもってエーディンは駆け寄った。ジャムカが呆れたように叫ぶ。
「どうしたんだ、その傷!大体、どうしてヴェルトマー側からじゃなくてリューベック方面からやってくるんだ!?」
「へへ・・・ちょっとドジやっちゃって・・・」
城門を遠目で見えるバルコニーからはラケシスとシルヴィアがデューに手をふっている。それへ気付いて手を振り返そうとして、デューは「いててて」と顔をしかめた。じっとして、とエーディンに怒られてデューは大人しくその場に座り込む。
一番初めに天馬を見つけたのは見張り台に立っていたベオウルフだった。そして、一緒にそこにいたノイッシュがシグルドのところに報告にいった、というわけだ。ベオウルフは別段何があったわけでもない、という風にデューを囲む一同には取り立てて興味もなさそうに、見張り台から相変わらずフィノーラ周辺の景色ぐるりと眺めるだけだった。
「・・・うん・・・?」
デュー達がやってきた方向。
砂漠から抜けたところにある、小さな小さな部落がある方角から、誰かがやってくる。
「・・・ありゃあ・・・おいおい・・・どっかで見たぞ・・・?」
呑気にベオウルフは前髪をかきあげた。どっかで見たぞ、なんていう間柄でもないくせに。
彼がいる見張り台は、ラケシスとシルヴィアが立っている中二階のバルコニーよりも上にある。
更に他の方角には今、それぞれアレクとミデェールが立っているはずだ。
「おおい、お前ら!」
バルコニーで女同士の話をしていたのかラケシスとシルヴィアは肩をよせあって、デューが皆に囲まれている様子を見ている。その頭上からベオウルフは大声を出して呼びかけた。
「・・・なあに?何か、呼んだ?」
シルヴィアが気付いて斜め上の見張り台を見上げる。
「レックス。レックス呼んでこい!」
「はあ!?なに!?レックスを、ベオウルフのとこに、つれてけばいいの!?」
シルヴィアは甲高い声で叫ぶ。ラケシスも一体ベオウルフが突然何を言い出したのか、と不思議そうな表情を見せている。
「レックス呼んで、門の外にいかせろ!お姫様が、登場だぜ?」

「ふうー・・・先に行ってくれ、とはいったものの」
アイラはぐい、と額の汗をぬぐった。燦燦と降り注ぐ日差しに正直体がついていかない。もう少しすれば日が傾くけれど、出来る限り早くフィノーラ城につきたい、と思う。
途中までは天馬がアイラのスピードに合わせてくれていたが、視界にフィノーラ城が見えた時点で、先にいけとアイラが自分から申し出たのだ。さすがに天馬に三人も乗るわけにはいかない。どちらにしたって砂漠を越えた後は一人でフィノーラ城にいくつもりだったから自分の足で歩かなければいけなかった道のりだ。
それでも産後、完全に調子が戻っていない身体には堪える。
(これでは、足手まといになってしまうな・・・。かなりカンは戻って来たと思うのだけれど)
妊娠していたとき、背後にいる人間の気配をいつもより感じることが出来なくなっていたことをアイラは知っている。
それが出産を終えて、少しずつ体が元に、自分一人の体に戻ってくるにつれてカンも戻って来ている。とりたててティルテュ達にいうほどのことでもないけれど、アイラはそれを感じてこれならば、と自分にGOサインを出したのだ。
体は、軽い。
この前まで3人分の体重を支えていた足は、今支えている自分の体のあまりの軽量さに大喜びだ。
けれど、急激な運動は受け付けてくれない。無理な動きをすれば下腹部やらどこやらがまだ痛みだす。
「はー!休憩!休憩!」
アイラはもうすぐフィノーラ、というところであたりを見渡して草地を見つけると腰をおろした。
このままでは、いけない。
砂漠を渡った、といってもそれはフィノーラ城近くの緑地に辿り着いた、ということで、フィノーラからヴェルトマーに向かうまでにはまだいくらか砂漠は続いているのだ。リューベックからフィノーラへの道のりは距離にしてはそんなになかったはずだけれど、休憩所を確保せずに渡るには砂漠は甘くない。フィノーラ手前の、地図のどこにもないあの小さな村落があることが旅人達にとってどれだけありがたいのかアイラは自分の身をもって知った。
身をもって、といえば。
まだもう少し自分の体と相談をしなければいけないな、とつぶやいてアイラは水筒を取り出して水を口に含んだ。
(シャナンを連れて砂漠を越えるとき・・・敵地とはいえ、砂漠の中に村や城があることは助かったな・・・)
そうやって辛かったときのことを考えれば今の自分の状況は、そんなに困るようなことでもない。
少し休んで、それからまた歩けばあっという間にフィノーラにつく。
けれど、「あっという間」の距離が今の自分には厳しいのだな、と思いついてアイラは苦笑をした。
自分の体がまだ本調子ではないことを、それこそ身を持って痛感しているのが今の彼女だ。
以前ならばこの程度の距離に休憩などとる必要はなかっただろうに。
わずかな草地の上でアイラはぼんやりと空を見上げた。
今日はありがたくもないほどに太陽が強く空が澄み渡っている。風がないから砂煙が舞い上がらないことはありがたい。一長一短だな、ともう一口だけ水を含んだ。飲む、という行為ではない。
(我ながらよく砂漠を渡ろうと思ったものだな・・・スカサハとラクチェを置いてまで)
天馬騎士が先にいってしまったことで、一人になったアイラは色々なことを考えてしまった。
この戦いの行く末。
イザークへ戻ったはずのシャナン。
リューベック城に残して来た双子。
それから。
「・・・っ!?」
びくり、とアイラは顔をあげた。
何かが、動いた。
視界の隅でなのか、それともただの気配なのか。
天馬騎士がデューをフィノーラに送って、それから自分をまた迎えにきてくれたのだろうか?いや、空には何も飛んでいない。
(これで黒い点でも見えたら、わたしはお終いだな)
黒い点、というのは竜騎士のことだ。
アイラは以前イード砂漠を渡るときに竜が飛んでいるのを見たことがあった。
今思えば、もしかして既にあのときからトラキアとグランベルはどこかで密約があり、そのための使者がこの砂漠を横切っていたのかもしれない。
まあ、もちろんここで竜騎士が飛んできたらそれはそれでフィノーラ城から兵が出てくるに決まっているのだけれど。
では、一体今感じたものはなんだろう?
アイラはたちあがった。
座っている状態ではそれ以上近くに気配を感じない。
立ち上がり、そっと勇者の剣に手を触れた、と思うと
「・・・あ」
フィノーラ城側から近づいてくる人間がいる。
徒歩だ。
空を飛ぶものではなければ、例え敵でもなんとかなるかもしれない・・・と思ってはみたものの、フィノーラ城方面からやってくる人間といえば、仲間か、それとも商人に違いない。が、どう見たってその人間はたった一人だから商人ではないだろう。彼等は砂漠を越えるにはキャラバンを組んで動くはずだ。
アイラは目を凝らし、それから、そうっと剣に触れたその手を降ろした。そして
「・・・レックス・・・」
アイラは久しぶりに口に出してその名前を呼んだ。今、自分の目の前にやってこようと歩いている人間は、自分にとって大事な愛しい男に他ならない。それがようやく彼女にも見えたのだ。
あれは、レックスだ。
「・・・あ、あはは・・・」
水筒をしまったけれど、アイラは自分からは動かず、レックスが近づいてくるのをただ待っていた。
点にしか見えなかった人間が形を作り、それから自分の愛しい男だということがわかり、そして、彼が自分を迎えにきてくれたということがようやくわかる。
アイラは感動、とも喜び、とも違う笑い声を漏らした。
口元を手で被ったけれど、よたよたと砂地に脚をとられながらレックスが近づいてくる中、ついに抑え切れず
「あははは!」
なんて風に豪快に笑い出してしまう。
「な、な何笑ってんだよ!お前はっ!!」
アイラの笑いに気付いて、レックスはまだ少し遠い場所から叫んだ。
「だ、だ、だって・・・お前っ・・・」
ついにはアイラは目の端に笑いのために涙を浮かべるほどだ。昼寝でもしていたのか白いシャツを一枚はおっただけのなんだかやたらと軽装なレックスは、とりあえず仕方なくもって来たように勇者の斧だけ腰にぶらさげてよたよたと歩いていた。
いくらフィノーラ城に近いとはいえ無防備にもほどがある、と思うけれど、アイラが笑っているのはそのためではない。
「なんだよ!」
また少し近づいてからレックスは叫んだ。それへアイラは笑いながら
「お前、砂地を歩くのが下手だな」
と答える。
「・・・ふ、ざっけんなー!人が必死に歩いてくればそれか!馬よか少しは早いだろうが!」
「ははは」
アイラはまだ笑いを収めない。そしてやはりレックスはうまく砂地を歩けないのだった。

ようやくレックスははあはあと肩で息をしながらアイラが立っている草地に辿り着いた。
それから、再会の喜びだとか、愛情表現だとか、そんなものは後回し、とばかりに呆れたように、けれど少しだけ怒ったようにレックスはふてくされた表情でアイラにいう。
「なんで、お前ここにいんの」
「出産が終わったから」
「子供どうしたんだ」
「置いて来た。見ればわかるだろうが」
「どういうつもりだ」
「子供達を守ってくれる人間は、いる。頼んで来た。けれど、この戦いの本当の姿を知ることが、イザークの王女としてのわたしの務めだと考えたからだ」
レックスは呆れたようにアイラを見る。
怒り、とは少し違う。
本当は、少しだけ思っていた。もしかしたら、アイラはリューベック城で待っていられないのではないか、と。
それを強いることはとても酷なことだとレックスはわかっていた。
母親として、イザークの王女として、ひとりの剣士として、そしてレックスの恋人として。
様々なものを背負った彼女の中に、この選択があることを、レックスは薄々わかってはいたのだ。
だから、「ああ、この道を選んだのか」・・・それが今のレックスの正直な感想だ。
アイラは、そのレックスの心中をどう読んだのか、彼女にしては滅多にみせない申し訳なさそうな表情を見せた。
「レックス、すまない」
「・・・」
次の言葉を、レックスはおおよそ予想をしていたし、それは実際に当たっていた。
「私にはこんな生き方しか出来ない」
それは、今ここにこうやって立っている彼女をまさに象徴する言葉だな、とレックスは心の中だけで呟いた。
普通の神経では、考えられない。子供を置いてここにいるアイラを、ここに向かったアイラを、リューベックに残っているはずのティルテュやフュリーは一体どういう気持ちで見送ったのだろうか。
「はは・・・わかっているさ」
レックスは、自分で意識をしていなかったけれど笑い声をこぼした。
今更ながら思い知らされる。自分の愛しい女がこういった生き方しか出来なくて、それゆえに彼等の気持ちも体も寄り添うまでにとても時間がかかったこと。そして、そうできるようになったことが到達点なのではなく自分達の出発点だということ。それらを今まで嫌というほどレックスは思い知らされていたけれど、それを再確認したような気がする。
自分が愛してしまったこのイザークの王女は、彼がそれを知っていることをわかっていながら、それでも謝る。
少し前だったらそれに苛立ったかもしれない。謝るくらいならするな、とか、そんなわかっていることをいちいち謝るな、とか。けれど、もうレックスは子供ではなかったし、何よりもアイラが自分に対してこうやって謝ってくれていることだけで自分が彼女にとっての特別だと思えて、自分は情けないことにこれが嬉しいとすら思えてしまう。
「だから、俺はアイラが好きなんだ」
「レックス」
アイラの表情は緩和しない。けれどもレックスはそのまますぐに会話を変えた。
「子供は、元気なのか」
「ああ。順調だ。スカサハとラクチェだ。約束通り、その名前をつけた」
砂漠の真ん中の草地で、なんて馬鹿な会話を自分達はしているのだろう、とレックスは思う。しかも置いて来た子供のことを淡々と答えているアイラの方はどうなのだろうか?
「お前は元気なのか」
「一応。かなり体も戻ったように思えるけれど・・・その、前よりはまだ肉がついているし、多少だるかったりはするけれどな、ここに来るくらいの元気はあるぞ」
「そうか」
「お前は、元気なのか」
「・・・なんて、馬鹿な挨拶だよ・・・お前・・・」
少し、二人の距離は遠い。そんなことを思ってレックスは一歩だけアイラに近づいた。
ずっと妊婦姿だったアイラを見ていたせいか、元の体型に戻りつつある彼女を目の前にして、なんだか少し自分の心はたどたどしくなっているような気がする。
まるで、今初めてあったような。
「お前は」
「うん?」
「子供、腹にいたときも綺麗だと思ってけれど」
「・・・なんて告白だ」
「こんな、美人だったっけか?」
「あはは・・・」
我ながら間抜けなことをいっているな、とレックスは思ったけれど、それは本音だ。
リューベック城攻略前に自分が切ったはずの髪もまた伸びて、自分一人の体に戻ったアイラの、もともと線が細い体つきやあまり広くない肩幅、子供を産んでからどうやって戻ったのかわからないけれど、妊娠中のむくみがすっかりとれた、美しい顔、腕、脚、これが自分の女だったんだな、と本当に初めて知ったような、そんな感覚を受けている。
「馬鹿なことをいうのだな、お前は」
アイラはそこでやっと表情を緩和させて小さく口端で笑った。
あ。
この笑顔は知っている。レックスはアイラの顔をみつめた。これは笑顔だけれど、だけれど、けれど。
「仕方ないだろ、本当にそう思って・・・」
「はは・・・」
「アイラ」
それから、レックスはアイラに手を伸ばした。
笑い声を漏らしながら、久しぶりの軽い、お互いを知っている会話をしながら。
「アイラ」
アイラの頬に涙が伝って、今にもあごのあたりからしずくが足元に落ちそうだ。ぱちり、と瞬きをした瞬間にまた涙が同じ軌跡をたどって頬を流れ、ついに自分の重さに耐え兼ねて彼女の足元にぽとりと沈んで、そして消えていく。
「レックス」
「なんだ」
伸ばした手でアイラの肩を抱きながらレックスは答える。
ずっと妊婦だったから、レックスはやはりまだアイラの体に触れるのに少し気を遣う。これまでこんなに優しく扱ったことがあっただろうか、と思い返しながらアイラの体を引き寄せる。必死に歩いて来たから汗をかいているけれど、それをどうこうとアイラが嫌がるとは彼には思えなかったし。
アイラはすっぽりとレックスの腕の中に収まって、こらえることが難しい涙を流していた。
「レックス」
「だから、なんだって」
絞り出したアイラの声は、完全に涙声になっている。レックスは引き寄せた仕草とは正反対に、乱暴にアイラの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、荒く答えた。
「お前に、会いたかった」
「・・・知っているよ・・・」
「お前に、会いたかった。もう、ここにいる理由が本当はなんだって、構わない」
「ああ」
「私は」
「いいよ、もう、アイラ」
お前に、会いたかった。
アイラのその言葉を、そっとレックスは口付けで遮る。
ほんの少し彼が覚えているよりも唇の感触が固いのは、体調が完全ではないのに砂漠を渡って来たからだろう。
そんな無理をしてでも。
例え理由がなんだってかまわない。どれが本当でどれが嘘、なんてことがないことをレックスは知っている。
アイラは、確かにイザークの王女としてこの戦いの行く末を見ようと思ったのだろう。それは本当のことだ。
でも、それよりもきっと。
「お前の体が、どんなに苦しんでても、ここに来た以上は甘えられないぞ」
「わかっている。そのつもりだ」
「だからな・・・その・・・」
「うん?」
「俺の側にいろ。俺が、いくらでもお前の足りないところを助けるから。だから・・・」
「うん」
「俺の、側にいてくれ」
アイラは言葉の代わりにレックスのシャツを握り締めて、体を強く摺り寄せた。薄い布が彼女の涙をレックスの素肌に伝える。
もう、彼女の身体に気を遣ってやることがレックスには出来なかった。
レックスは強く、アイラを抱きしめる。柔らかくて、小さくて、そしてよく知っているはずの今腕の中にいるこの女が、あまりにも大切過ぎてそれ以上言葉にすることがとても出来やしない。
レックスは強い日差しを背に感じながら、胸に抱いたぬくもりへの愛しさに頭がおかしくなったようにぐるぐると同じことを考えていた。
ああ、そうだ、俺達は。
ずっと、こうしたかったのだ。そして、これからもずっと。
ずっとこうしたかったのだ、と。


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モドル

ついに二人の再会です。そして例のセリフから引用。すべてを使うバージョンもあったんですけれど、悩んだ末に前半のみを使うことにしました。(パッケージに書いてある部分ですよね)