春雷-4-

デューがエーディンから治療を受けて少し休み、天馬騎士が砂漠をまた北上していくのを見送ってからシグルドは主立ったメンバーに召集をかけた。
アイーダ将軍に親書を託した顛末をデューから聞いて、今後のことを考えなければいけない。それは誰もがわかっていた。
シグルド、レヴィン、クロード、アゼル、レックス、それからラケシスとジャムカとブリギッドが室内に思い思いの場所に椅子を持ってきたり床に座り込んだり(これはジャムカとブリギッドだが)してデューの話をじっと聞いていた。
アイーダ将軍が真夜中のヴァルトマー城にデューを招き入れて話を聞いてくれたこと。それから親書をバーハラに届けることを約束してくれたこと。
そして。
アルヴィス公率いるロートリッターの援軍を宰相レプトールが待っているということ。
もし援軍が到着すれば、シグルド達に勝ち目はないだろう、ということ。
その知らせはシグルド軍の動向を決めるには十分すぎる内容だった。

「シグルド公子は反逆罪に問われているだけではなく、裁かれる権利すら今は持っていない。それをご存知?」
アイーダは誰一人護衛すらつけずに一対一でデューと話し合いの場を設けてくれた。
アゼルがもたせてくれたブローチのおかげ、とデューはわかっているけれど、それにしてもこの女将軍は豪胆な人間らしい。
ヴェルトマー城の一室で二人きりになっても、デューが危害を加えると思わないのだろうか?いや、違う。例えデューがそういうことに及んだとしてもかなわない力を彼女は持っているのだ・・・デューの勘は彼にそう告げていた。
「裁かれる権利・・・?」
デューは勧められたソファに浅く座って身を乗り出した。あまり腰が沈み過ぎないソファは、くつろぐためのものではなく、執務の話をするためにしつらえたものなのだろう。素材は贅沢なものを使っているけれど、その室内にある家具のどれもが、貴族の道楽で愛でるだけのものとは違うと一目でわかる。デューとて、そういうものと縁がない生活をしていたからといって職業柄その程度の判断が出来る眼力はもっている。
アイーダはデューに警戒するそぶりも見せずにその正面に座る。
もともと招かれざる客であるはずのデューに対してアイーダは飲み物を勧めた。デューはどうしていいかわからず、どもりながらそれを断った。軽く肩をすくめてからアイーダは話を続けた。
「正式な手続きをして裁判を行うような資格ももうシグルド公子にはないということ。あなたもわかっているのではない?何がどうひっくり返っても勝ち目のない立場においこまれているということを」
思った以上にアイーダ将軍ははっきりと言葉にする。
そんなことを自分にいって、どうしようというのだろうか。
少なくともデューがわかっていることは、ここで彼を捕らえたり殺したりしたって、アイーダ将軍としては別段何かの手柄になるわけでもないことだ。聡明そうなこの女性がそういった意味のない行為をするとは思えなかった。だから少なくとも命は保証されるのではないだろうか。もしも彼女がデューが感じたような人間でなかった場合はそれまでだけれど。
「でも、クロード神父はブラギの塔で!」
「確かにブラギ神の神託をうけることがクロード神父には出来る。それはみな知っています。でもね、悲しいことに私達は「それ」を目で見ることも聴くことも出来ない。証拠がそろってしまっている事柄を覆すのに完全な力を発揮するわけではない」
アイーダが言っていることはなんとなくはわかる。
デュー自身も正直なところクロードがブラギ神からの神託をうけ、ことのすべてをシグルドに告げたということを聞いてもなんだかぴんとこなかった。が、彼がもたらしたその内容は少なくともシグルド軍にとっては真実だったし、デューの目からみたシグルド達は、どう考えてもグランベルから追われるようなことをするような人間ではなかったわけだし。だから信じられた。けれどもグランベル側からすればそれは・・・
「なんだよ、じゃあ、なんでおいらを」
「あなたは、私にどうして欲しいと思ったの?」
「・・・おいらは、これを」
デューは懐からシグルドから預かった親書を出した。
けれど、それをアイーダには手渡そうとはしない。
「王様に・・・王様にどうにかして、渡したいんだ。だって、シレジアのラーナ王妃が手紙を書いても全然王様からの返事がこないっていってた。きっと、宰相のレプトールがそれをつぶしてたんじゃないかって思ってるんだ。だったら、今レプトールがここにいる間に、直接おいらがバーハラに言って王様に届けられれば一番・・・だから、困るんだよ、バーハラに行くのを許してもらわないと!」
「その親書は、シグルド公子からのもの?」
「そっ・・・」
そうだ、と言おうとしてデューは言葉につまった。
アイーダの瞳は強くデューを見る。
それまでの会話で見せなかった、強い視線。
「シグルド公子とその一味を討伐するために宰相レプトールはここに来ている」
アイーダはデューから視線をそらして言った。一体どこをみているのかデューにはよくわからない。
「とはいえ、その一味、という言い方は非常に曖昧になっている・・・行動を共にしているもの、という意味合いだけれど。でも、もしかするとその中には本意でなく一緒にいる人間もいるかもしれない」
「それが一体どういうこ・・・」
「実際はその親書が、誰が書いたものか、どういうものかを私は見る権利はないけれど・・・。場合によっては、本意ではなく行動を共にしている人間が、助けを請うために出したものかもしれない、とかね・・・」
アイーダが言っていることがデューにはわからない。
なんとなく。
なんとなく、先ほど「そうだ」と即答できなかったのは、デュー本人の中に迷いがある、とか恐れがある、とかではない。言葉をつまらせたのは「アイーダが言葉を出させないように」視線を送ったからだ。
考えなければ。
デューは額に汗が噴き出てくるのに気付いた。
この女将軍は今自分を試そうとしている。
彼女にアゼルから預かったブローチを見せて、賭けに出たときにも感じた、高鳴る鼓動。
沈黙が流れた。
「・・・水・・・もらえますか・・・」
ようやくデューが発した言葉はそれだけだ。
アイーダは何も言わずに立ち上がると、壁の近くに移動させておいたサイドテーブルに置いてある、シンプルだけれど見る人間が見たら相当な価値があるとわかる(もちろん目利きであるデューが気付かないわけがない)水差しとグラスをとってきた。
「例えば、これをグラスに注いであなたに渡す」
アイーダは静かに淡々と言いながら、実際にそのとおりのことをデューの目の前で行った。
「水だと思って、注ぐ。でも、それを実際飲んで、水なのか違うものなのかを確認するのは、飲むあなたでしょう?」
「・・・」
「甘かったり塩からかったりしても、私には、わからない。この水差しをもって来たのは女中だし、もっと極端なことを言えば毒が入っているかもしれない。でも、それは口をつけなければわからない。違う?」
「そりゃ・・・そうだけど・・・じゃあ、これ、毒がはいっているってこと?」
「さあ?可能性はゼロではないかもしれないけれど・・・あなたには、難しい話だったかもしれないわね」
アイーダはわずかにその表情に失望の色を浮かべた。
「もう一度、聞いても良いかしら?」
「はい」
「その親書は、反逆者であるシグルド公子からのもの?」
「・・・」
「それとも」
その先はアイーダは言わない。
デューは一口水を飲んで、瞳を閉じた。
その親書は、シグルド公子からのものではなくて、誰からのものならいいのだろう?
アイーダの言葉をつなげればそういう問題をデューに提起していることになる。
「・・・これを」
デューはわずかに震える手で懐からもうひとつ。
アゼルから借り受けた、ヴェルトマーの紋章を象ったブローチを取り出した。
それから、と切れと切れに言葉を続ける。
「これを、おいらに、預けた人が・・・・これを、王様に、って・・・」
自分の声がえらく震えていることにデューは気付いた。
嘘は、言っていない。
けれど、本当でもない。
その擦れ擦れの言葉を選ぶことを、アイーダは待っていたのだろうか?
「それは、アゼル公子のものだと、私にはわかるし、アズムール王が見てもヴェルトマーのものだとわかるでしょうね」
淡々とアイーダはそう答える。
「あなたがシグルド公子の一味の人間だとは、私は知らない。それを証明するものはないから」
その言葉で、自分が間違っていない答えを出したのだ、と気付いてデューはふうーっと長い溜め息をついてソファの背もたれに体を預けた。たったこれだけの短い時間で、相当自分は神経をすり減らしたものだ、と気付く余裕もない。一瞬だけ頭の中が空っぽになったような気すらする。
「私に出来るのは、このブローチをこの親書と共に、バーハラにいるアズムール王宛てにヴェルトマーの使者を出すだけ。アゼル公子が、好んでシグルド公子のもとにいるのかどうなのか真実はまるでわからないし。少なくともアゼル公子御本人からシグルド公子を弁護する文書が来た、という話は聞いたことがない。もし、仮にそういうことがあったとしても、私は知らない、それだけのこと」
それはシレジアにいたときに送っていたはずだ、とデューは思ったけれど、よく考えればその相手先は、アゼルの義兄であるアルヴィス公だったかもしれない。どちらにしてもアイーダが知らない、というならば知らないのだろうし、その方が都合が良いわけだ。
「本当にそれだけ。例えば」
「・・・」
「アルヴィス卿率いるロートリッターをレプトール卿が待っている・・・この親書がアズムール王の元に届くのと、援軍がフリージ軍に合流するのはどちらが早いのかはわからない。それは、何も私には約束が出来ない」
「ロートリッターが!?」
デューはびくん、と飛び起きた。
いくら戦について詳しくないデューでも、ロートリッターがフリージ軍と合流してシグルド討伐に軍を動かしては完全に勝ち目のない戦になるということが予想できたに違いない。
例え親書がアズムール王に届けられたとしたって、アズムール王がシグルドの言い分を聞き届けて制止をかけたときに、両軍が無事である保証などなくなってしまう。
「そんな、それじゃあ、困るよ!」
「困るといわれても」
アイーダは冷たく言い放つ。
「もうロートリッターはバーハラを出ているはず。正直なところ、親書をアズムール王のもとに届けても、その返事を待つ余裕はないと思える・・・。けれど、これ以上のことを私には出来ない。そうでしょう?」
「・・・」
それは、間違っていない。
アイーダは十分すぎるほどにデューに手を差し伸べてくれた。
これ以上何を言ってもきっと、彼女はデューの思うようには動いてくれないだろう。
「・・・ありがとう。ロートリッターのことまで、教えてくれて・・・。ほんとは、そんなこと、おいらに教えてくれる義理なんてないのにね」
「別段あなたに知られても痛いことではないもの。あなたは、この親書を預かっただけの、通りすがりのキャラバンの人間なのでしょう?検問に並んでいた、キャラバンの人間の中の一人なのでしょう?」
「・・・」
それに対してデューは肯定も否定もしなかった。
する必要もないと思える。
とはいえ、どうしてアイーダが自分にこれだけよくしてくれるのかはどうも腑に落ちずにデューは反対に質問をした。
「だからって、どうしておいらに・・・確かに、おいらをどうこうしたって得はしないかもしれないけれどそれにしたって」
アイーダはその言葉を聞いて、ようやく微笑みを浮かべる。きりりとした造作をもつ彼女の微笑みは、デューが思った以上に女性らしく、美しい表情を見せてくれた。
「検問を閉鎖してしまって、とても迷惑をかけたようだから」

ヴェルトマー城からの抜け道を伝って外に出ると、城下町のはずれの小さな林にある古ぼけた小屋に出ることが出来た。
そこから出て空を見ると、もうすぐ明け方になる時間だった。
(さて、これからどうするかな・・・)
フィノーラ城に戻るのに、とりあえず一番簡単な方法はリターンリングを使うことだ。
正直なところ、なんだか目に見えないそんな不思議な力を頼るのは恐いと思えた。
自分の体が、別の場所に移動する。
エーディンがワープの杖をもっているけれど、あれはなんとなくわかる気がする。術者がいて、その魔法を行使するのが魔力が高い人間だから、そういうことも出来るような気がする。
けれども、リターンリングはなんだかわからない無機質なものなのに魔力があって、その力を使うのが自分自身ときたものだ。
デューはこわごわレックスから預かったその指輪を見て、とりあえず使ってみようか、と思う。
「なんかよくわからないけど・・・フィノーラ城に、戻してくださいっ」
たどたどしくそんな言葉を口に出してみる。
が、アイラに話したとおり、なんだかフィノーラ城のイメージが湧いてこなくてリターンリングの力は発動してくれなかった。
それは、フィノーラにいた時間が短かったから、という理由だけではない。
アイーダとの会見が、それほどまでにデューの中では衝撃的で、そして彼の脳の隅々までを支配してしまっていたのだ。
(人間、使い慣れない場所の脳を使うと、逆に馬鹿になっちゃうものなのかもなあ)

「なんてことをしてたら、フリージ兵にみつかっちゃって・・・捕まりそうになったんで、逃げてたんだ」
「そうか。それにしたって・・・だからって変なところに・・・」
「夢中で逃げていたときに、なんか・・・勝手に・・・多分、リターンリングの力だと思うんだけどっ・・・急に変なとこに飛ばされちゃって、おいら、夢中で走ってたから・・・」
突然のことに対処できずにパニックに陥った挙げ句、崖から落ちてしまったらしい、という話をしてデューは苦笑いを浮かべた。
「それで、あのちっこい村の人に見つけてもらって、手当てしてもらってたら・・・アイラさんがやってきたんだ」
「第一、アイラは子供をどうしたんだ」
話がそれるけれど、と呆れたようにジャムカが言う。
それへはラケシスが可笑しそうにくすりと笑ってから
「アイラらしいのではない?それに、アイラが来てくれなければ、デューが戻るのはもっと遅れていたのだもの。感謝しないといけないでしょうね」
みなの視線がレックスに集るけれど、レックスは肩をすくめるだけでそれに対して何もコメントはしない。
そのことについてははシグルドも苦笑を隠せない。
確かにアイラは自分達を追ってくるかもしれない、とシグルドは内心思っていたから「ああ、やっぱりなあ」なんていうつまらない感想しかもたなかったけれど、他の人間からすればやはり大事なのかもしれない。
案外とそういうところに頭が固いのはレヴィンとジャムカだ。
女が産んだばかりの赤ん坊を置いてくるなんて、と彼等は思っているのだろう。
「まあ、それはまた話題が違いますし」
クロードが口を挟んで話を元に戻そうとしてくれる。
「それでは、ロートリッターがレプトール卿の軍勢と合流するのですね?」
「うん。そう言ってた」
「これは、難しい選択を強いられますね」
クロードは溜め息をついてシグルドをちらりと見る。シグルドは口元を手で被って、目をふせている。
「アズムール王に親書が届くのはいつなのかわからないし」
「届く前にロートリッターと合流したフリージ軍と交戦を始めたとしたって・・・それでは勝ち目はない」
「彼等は魔導士の精鋭部隊だ。ここに来るまでに相手をした者達とは格が違う・・・」
「このままここで篭城している方がいいのではないか」
「いや、城ごとメテオで集中攻撃を食らうのが関の山だ」
「けれど一定期間耐えればきっとアズムール王が」
「そんな保証はどちらもない。耐えることも王がこちらの話を聞いてくれることも」
「とはいえ、討って出るとしたら・・・」
どの言葉を誰が言っているのか、それはシグルドにはどうでもいいとすら思えた。お互いが口に出す言葉はお互いがいやというほどわかっている今の現状とこれから予想されること、ただそれだけだ。そのすべてを理解できないような人間はここにはいない。
「戦わないとしたら」
レヴィンが厳しい視線をシグルドに送る。
「このまま硬直状態を続ける選択を選んで・・・もし、我々の話をアズムール王が聞き届けてくれれば、それが一番いい選択だ」
それは誰もがわかっているし、そうであって欲しいと願いを込めて彼等は進軍をここで止めていたのだし。
「が、もし聞き届けられなければ、最悪の事態に陥る」
「そうだな。砂漠の中央で孤立したまま、篭城もままならなくなり、しかもロートリッターまで加わった軍勢を防がなければいけない」
甘かった、とシグルドは思う。
宰相であるレプトールと、今やアズムール王から絶大な信頼を預かっているアルヴィス、この両人がそろってまでも自分達を討つために動くとは。それではバーハラは一体誰が守るというのだろう?
それを放棄してでも自分達を討伐することを国の優先事項にしたということだ。
そう思うことが、一番つらい。
「戦うとしたら」
「・・・反逆罪を・・・汚名を晴らすためには、レプトールをなんとしてでも生かして捕らえたい」
シグルドは低く声を絞り出した。それへはアゼルが頷く。
「ただレプトール卿を倒しただけでは、反逆罪が重くなるだけだ。レプトール卿を捕らえて・・・罪を認めさせることが一番僕たちにとってはありがたいことだと思う・・・たとえアズムール王が親書を読んで、こっちの言葉を聞き届けてくれたとしても、どちらにしてもレプトール卿がやったことを彼に認めさせなければいけない」
「が、それをするには・・・ロートリッターが来る前に、手を打たなければいけない」
「戦が長引いたら、危険だ」
「けれど・・・」
シグルドは顔をあげてみなを見渡した。
「私は、こんなときでも、グランベルの騎士なのだ・・・みなに迷惑をかけていて、本当に申し訳ないと思う」
突然そんなことをシグルドが言い出すのに、そこにいた全員は困惑の表情を浮かべた。
「出来ることは、すべてやった。デューも、頑張ってくれた。ロートリッターが出てくる、というのは予想外の事態だから、これについてはもうどうにも仕様がない・・・その状態でなおもこれほどの二択をせまられるのであれば」
「シグルド公子」
レヴィンが名を呼んだけれども、シグルドはそれに対しては何も返さずに、心に決めた言葉をそのまま続けた。
「私は、グランベルの騎士として。もしかすると、私しか出来ないかもしれないことをするべきなのだろう」
「それは、レプトールを、裁くということですか」
穏やかだけれど、とても重たい言葉を発するのはクロードだ。
「シグルド公子」
クロードはシグルドの名を呼んだ。
先ほどのレヴィンの呼びかけには反応しなかったけれど、シグルドはクロードと視線を交わした。
それから、無言で頷く。
「打てる手はすべて打った。あとは、可能性を信じることと、そして、自分にだけ出来ることを・・・神に恥ずべきことは何もない。グランベルの騎士として、グランベルのために自分だけが出来ることをすべきなのではないかと、そう思う。けれど、これは私個人の考えであって、軍として選択すべき最良の策だとは思っていない」
「軍、か」
レックスは小さく笑った。
「まあ、俺はグランベルの人間だから、俺がこんなことを言っても説得力はないかもしれないけれど」
「なんだい、レックス」
「・・・ここは、シグルド軍だと俺は思うんだけどさ」
「レックス、けれど
彼が何を言いたいのかシグルドにはわかっている。
苦しそうな表情を一瞬見せて、それからシグルドは軽く首を横にふる。その精悍な顔付きにはあまりそぐわない少し長めの睫毛がそっとシグルドの瞳を被い、視線を一度下に落とした。シグルドが次に言葉を続ける前にジャムカが不敵な笑みを見せる。
「今更、水臭いことをいわれるのは、困るんだけどな」
「・・・みなが、そう言ってくれることは、嬉しい。ありがたいと思う。けれど」
「いくらあなたの軍でも、大将の個人的な意見で軍の方針が決まるなんてことは正しいとは思えない・・・でも、それはもう、私達の間では意味のないことだと本当はあなたもご存知なのに」
「ラケシス」
「公子、顔をあげろよ」
レヴィンの言葉に、今度こそシグルドは反応して、彼にしては情けない自嘲気味な笑みを浮かべながらみなをぐるりと見渡した。そこにいる面々は、もう、シグルドが下した選択肢を受け入れる覚悟が出来ている。
一目でそれとわかる。その信頼関係の強さに対して、愛しさすら感じる。
自分は引力の中心ではない。
お互いにひき寄せ合って、それがとても危うい、その反面とても強い関係を作っているこの自分達。
シグルドはシレジアで共に生活をしていた仲間達・・・それは、リューベック城に残っているティルテュ達、イザークへと身を隠したセリス達、そして。
もう失って戻ってこない、キュアンとエスリン。
自分は中心ではない。ただ、引き寄せあっている人々が自分を愛してくれて、自分のために何かをしようと思ってくれて、こうやって側にいてくれる。だから中心のように傍からは見えるのだろうが、本当はそうではない。
みなが、必ず誰かを、お互いを愛してくれていて。
今、自分が最も人々の助けを必要としている弱い人間だからこそこうしてみなの力を与えてもらっている、ただそれだけだ。
シグルド軍とは、ただ、それだけの。人々の優しさの上に成り立っているだけの、何者にも支配されない存在なのだと彼は思っている。だから、レックスの言葉は正しいけれど、正しくない。
ああ、なんて。
これは、どれほどの感謝を繰り返せば、自分の生涯を終えるまでに返すことが出来る愛情なのだろうか?

「はいってもいいか」
ノックをしてレックスは声をかけた。
返事のかわりに、かちゃりと扉が開き、話し合いをしている間に十分やすんだアイラが、くつろいだ衣類を身にまとってレックスを出迎えた。
以前の彼女ならばきっと着ることがなかった、上下すとんとしたシルエットの麻の一枚着で、少し大きくあいた肩口から出ている二の腕が美しい筋肉に戻っていることをレックスにわからせてくれた。
「めずらしいな。はいってもいいか、なんて。お前と同じ部屋で寝泊まりするようになって、そんな言い方をすることなぞついぞなくなったかと思っていたのに」
「なんか、新鮮な気がしてな」
アイラの指摘にレックスはわずかに照れくさそうに無理矢理眉根を寄せて答えた。
はいってもいいか、なんて許可を求めたものの、今アイラが休んでいた部屋は、フィノーラに来てからずっとレックスがあてがわれていた部屋だ。既に着替えなど何度も見たことがある中であるお互いなのに、それでもついつい入室の許可をとってしまったのは、案外とレックスの方がアイラと自分がどういう付き合い方をしていたのか、なんていうごく自然なことをぽっかりとわからなくなってしまっているからだろう。
けれど、そんな習慣とか癖とか、そういったことがどうであれ、アイラを愛しいと思う気持ちを忘れるわけも忘れられるわけもない。レックスは室内にはいって、どっかりとベッドに体を投げ出した。
「あ、お前、横になってたのか、悪い」
そうわかって横になったと思ったらレックスは起き上がる。それは、何気なく横たわったベッドに残っていたアイラの体温を布ごしに感じ取ったからだ。
「別に構わない、十分休んだし」
「そうか」
アイラはレックスにベッドを譲って、自分は白木で出来た(とはいえ、その材木はこの近辺では見られない・・・金をかけてそろえられたものなのだろう)椅子に座った。それを確認するとレックスはそのままもう一度ベッドに身を投げ出す。
「あ」
「なんだ」
「お前の、匂いがする」
「わたしの?何もつけていないぞ?それに砂漠を渡って来たから・・・」
汗の匂いのことではないのか?と怪訝そうな表情をして、アイラは自分の腕を自分の鼻先にもってきて、ふんふん、と動物のように自分の体臭を確認しようとした。が、どうもアイラは自分では匂いを確認できないようで、少しおどおどと
「汗くさい、ということかな」
とレックスに聞いてくる。
「違う。お前の匂いだよ・・・な、いやじゃなければ、ここに来いよ」
「そんな呑気なことを言っている暇があるのか」
「出撃したら、それどころじゃなくなるんだから、いいんだ、今くらい」
そのレックスの言葉で、シグルド達の軍議によって出陣がきまったのだということがアイラには伝わった。
アイラはそっとベッドに近寄って、それから久しぶりの行為に一瞬躊躇して、それでも嬉しそうに
「レックス、何度でも、私の髪を梳いてくれ」
「・・・バカ」
そっとベッドにのぼって、仰向けになっているレックスの顔を覗き込んだ。ぎしり、とベッドがきしむ音をたてる。もともと二人用になっている(セミダブル程度の大きさだが)ベッドは、一人で寝返りをうってもわずかにぎしぎしと鳴るのだが、古いもの、というだけで実際はかなり高級なベッドのように見える。
レックスは自分の顔にちらりとかかるアイラの髪をひょい、とひっぱって笑った。
「なんだ。人の顔じっと見て・・・アイラ?」
「いいじゃないか。穴が開くわけでもないだろう?」
「そうだけど・・・あくかもしれないだろ」
「それは困るな」
レックスはアイラの髪から手を離すと、さらに腕をのばして、レックスの上に覆い被さるように馬乗りになっているアイラの頭をぐいと引き寄せた。それに大した抵抗もしないで、アイラはすとんとレックスの体の上に自分の体をぴったりと重ねた。
「軽くなったな」
「戻っただけだ」
「ああ、そうか」
「お前はなんだか・・・前よりも胸板が厚くなった気がする」
「お前が細くなっただけだろ」
「そうか」
アイラは瞳を閉じた。ちょうどレックスの鎖骨あたりに頭をこつんと置くような位置だ。レックスは彼女の身体を包み込むように両腕を背中に回してそしてアイラにいわれたように何度も何度も彼女の髪を梳いた。
とりたてて言葉もなく、ただお互いの体温と息遣い、そしてレックスはアイラのつややかな髪の感触を、そしてアイラは自分の髪をかきわけて通っていくレックスの指先の感触だけを感じていた。
どれくらいそうしていただろうか。
アイラの全体重をレックスに預けても、レックスはまったく平気で、そのまま眠れるとすら思ってしまう。
やがて、先に口を開いたのはアイラの方だった。
「・・・攻め入るのか。レプトール卿の軍勢に」
「ああ・・・」
レックスはかいつまんで話し合った内容をアイラに教えた。
アイラは多くは言わずに、ただ彼が報告してくれる内容を、彼の体から離れずに聞いている。
「そうなると、砂漠を南下することになる・・・キツイぞ?」
「わかっている。わかっていて、ここに来た」
「そうだな」
「わたしの覚悟は、お前が一番よく知っているはずだろう?」
「ああ」
「それに、お前が」
アイラはもぞもぞと動いて、レックスの肩にあごをひっかけた。
「よいしょ」
「うん?」
「これなら、いい」
「何が・・・」
そっとアイラはレックスの頬に自分の頬を摺り寄せた。
そんな、子供を身ごもる前でもしなかった彼女の少女めいた仕草に驚いて、レックスはかあっと赤くなる。が、そこは男のメンツとやらで、そうだということを気付かせないように冷静さを装って言った。
「めずらしいことを」
「スカサハとラクチェの頬は柔らかかった。間接的で悪いが、お前にも、と思って」
「・・・なんだ、そりゃ」
呆れたようにいいながら、レックスは今度は自分からアイラの頬に頬を摺り寄せる。
幸せの時間。
もっと自分が子供だった頃は、隣で寝ている女と出会った意味はなんだったのだろう、なんてふうに、いちいち哲学ぶって考えていたこともあった。
けれど、そんなものはどうでもいい。
今ここに、最も愛しい女と一緒にいるというその真実以外に意味も何もないと思う。
彼女が何者で、自分が何者で。明日何が起こるのか。
そういったことはあまり重要なことではないような気がする。そして、それは離れてからやっとわかったことだ。
「そうだ、レックス、デューから預かっていたんだ。リターンリング、あれはレックスのだろう?」
「ああ」
アイラは置きあがろうともぞもぞと動いた。が、レックスがそれを許さない。
「こら、離せ」
「お前がキスしてくれたら、離してもいいぞ」
「・・・」
アイラは少しの間だまって、うらめしそうにレックスを見ていた。それから
「離してくれなければキスひとつも出来ないではないか」
「・・・完敗です」
レックスはそういって腕の力を緩めた。
その途端、アイラは上半身をおこして、レックスの顔をまた覗き込む。
「うん?」
「離してくれたからな」
「・・・」
アイラはそのままレックスの顔へと自分の唇を近づけた。そして。
ほんの少しの、わずかに唇が触れ合うだけの、まるで子供のような口付け。そのぎこちなさは彼等の心が通じ合うようになってからまったく変わることがない。それは、とてもレックスを嬉しい気持ちにしてくれる。
さらり、とアイラの髪がレックスの顔をくすぐる。
すぐに別れなければいけない唇同士は、本当は名残惜しいのに違いない。
照れくさそうにレックスから体を離して、アイラはベッドからすとん、と降りた。
腕の中から彼女の体温がなくなってしまうことは、こんなにも心許なくて寂しいことだったのだ・・・・そんなことをレックスが感じていると、アイラはクローゼットを開けて、自分がかけていた衣類などをごそごそとかきわけた。それから皮の薬袋からデューから預かっていたリターンリングを取り出して、まだ寝転がっているレックスの右腕をつかんで彼に無理矢理握らせる。
「ほら、これで確かに返したぞ?」
「んー・・・」
気のない返事を返してからレックスはむっくりと起き上がった。それから乱れた前髪をかきあげて、アイラによって手の中に押し込まれたリターンリングをしげしげと眺める。それは少し太めで鈍い輝きをはなつ銀色の指輪で、男女どちらがしてもおかしくないデザインだし、マジックアイテムだけに、誰の指に通してもそのまましっくりと大きさを変えるという不思議な力すらもっている。
「確かに、これは俺のものだけれど・・・アイラ」
「うん?」
「ほら」
レックスはぐいっとアイラの腕をひっぱった。
そのせいでぐらり、とバランスを崩してアイラはどすん!と大きな音をたててベッドに腰をおろした。(というより尻餅をついた、というほうが正しいかもしれないけれど)
「全部、全部ことがおわって、スカサハとラクチェを迎えにいって・・・。イザークにいったら」
「・・・レックス」
「今はこれしか出来ないけど」
「何・・・」
「そしたら、正式に結婚しようぜ。順番ちょっと違ったけどな」
レックスはアイラの白い手を少し乱暴にひっぱり、そして有無を言わせずにリターンリングを左手の薬指にはめた。
アイラは何度か瞬きをして、指輪を見て、そしてベッドの上に起きあがっているレックスを見て。
「あー、うーんと」
返事がないアイラにレックスは苦笑を返した。
「もちろん、きちんとした指輪を、そのうち買うから、今はこれで・・・な、結婚しようぜ」
その言葉にアイラはくくっと笑いを漏らし、それから嬉しそうにレックスをみた。
「ああ。嬉しいぞ。わたしは、お前の妻になれるのだな?」
「もちろんだ」
なんて、力強い返事だろう、とアイラは思う。
それからしげしげと、ぴったりと自分の指にはまってそのサイズになじんでしまったリングをみつめた。
結婚をするとかしないとかは、妊娠がわかってからは尚更レックスが言葉にすることが多かったのだけれど、いつもアイラは照れくさくてきちんと答えを返せない、と自分で思っていた。
けれど今は、言えた。
嬉しいと。レックスの妻になるのだろう、と。
もしかして、自分がこんなに素直になれるのはスカサハとラクチェのおかげかもしれないな・・・そんなことを思って、アイラは自然と口元をほころばせた。そこに、さらにレックスはとどめの言葉を続ける。
「イザークに、戻ろうな?俺と、一緒に。見せてくれ、お前の故郷を」

イザークに戻ろう、俺と一緒に。

ああ、砂漠を越えてこの男のもとに来たのは間違いではなかった。
そして、ここからこの男と共にバーハラに向かうことも間違いではないのだろう。
アイラはレックスの目の前でそっと、無意識にその指輪に軽く口付けた。あまりの愛しさから湧き出たその仕草をレックスはじっと見つめていた。それからベッドに片膝をのせて、もう一度レックスの体に静かに擦り寄おうとすると、レックスはまたも大きな手を差し伸べてアイラを抱き留めてくれる。
この大きくて力強い、だけれども優しく自分を労ってくれる腕が、一日も早くスカサハとラクチェを抱けるといいのに。
そんなことを思いながら、出陣のことすら考えることも出来ずにアイラはまた、彼に体重を預けながら瞳を閉じた。



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