春雷-5-

「俺はあまり賛成はできねえ」
ベオウルフは苦い顔でラケシスに呟いた。シグルド達との軍議を終えたあとでラケシスはシグルドに頼まれて、軍議の結果をベオウルフに伝えに来たのだ。相変わらず彼らは別々の部屋で朝を迎える間柄だったけれど、やってきたラケシスは慣れたようにベオウルフの部屋の椅子に勝手に腰掛けた。誰も知らないことだろうけれど、これは彼らにとっては相当な進歩だ。
ラケシスは彼の言葉に過敏に反応するわけでもなく穏やかに聞いた。
「では、どうすればいいと思う?」
「騎士の道理とか汚名とか、んなもんはかっぽって、逃げればいい」
「それが無理だと知っているのでしょ」
「ああ。知ってる。だから、俺たちはここにいる」
それでも、賛成出来ない、と呟いてベオウルフは愛剣に手を伸ばした。そして部屋の隅っこの床にどっかと座り込んでその剣を磨き始めた。その行為に没頭し始めるときの彼の表情は固く、戦場にいるときとあまり変わりがないほど真剣なものになる。
以前はそれを見てもなんとも心は動かなかったけれど、マスターナイトになって幅広い武器を扱えるようになったラケシスには、ベオウルフのその作業が大層丁寧で、思いのほか繊細に作業を行っていることを実感することが出来た。
そして、彼が何気なくそうしている姿を最近ラケシスに見せるようになった、ということにも彼女は気付いている。
「ああ、わたしも武器の用意をしないと」
ラケシスはそう言って立ち上がった。すると、それへ目線も動かさずにベオウルフは面倒くさそうに言う。
「夜になる。別に今夜中に出陣するわけじゃあねえだろうが」
「そうだけど」
「じゃあ、そんなに慌てることはない」
その言葉は。
慌てることはない。だから、ここにいろ。
ラケシスは驚いてベオウルフを見つめた。彼は相変わらず自分の剣のことしか見ていないし、それ以上の言葉をかけて引き止めるわけではないのだけれど。
(前は絶対「彼の時間」を共有させてはくれなかったのにね)
思えば、「ラケシス本人の時間」に彼を付き合わせたり、彼が「ラケシスのことを考えて作ってくれた時間」に自分を呼んでくれることがあっても、ベオウルフの、彼の自分だけの時間にラケシスを立ち合わせてくれることはあまりなかったように思える。
例えそういうことがあっても、ラケシスを引き止めてその時間にいろ、と言う事はなかったのに。
「どうした?」
困ったように立ちすくんでいるラケシスを視界の隅に捕らえているのだろう。問い掛けているくせにベオウルフは相変わらず彼女の方を見ないで、じっと自分の剣の刃にどこもおかしいところがないのかを探している。
「なんでもないわ」
時が流れているのだな。
ラケシスはそう思いながら苦笑した。
「ベオウルフ」
「あん?」
「私、今日ここで眠っても構わないかしら?」
その言葉でようやくベオウルフは顔をあげ、ラケシスを見た。
彼らしい不敵な笑みを浮かべて、軽く肩をすくめる。初めはとてもその仕草が下品にも思えて嫌だったことをラケシスは覚えていた。
「好きにしろ」
けれど、その声の響きは、出会った頃の彼が発していたものとは違う。返事をしてからまたベオウルフはラケシスから視線をはずす。
ラケシスは椅子に座り直して、彼が愛剣の手入れをしている姿をじっと見つめていた。
とりたててそれ以上かける言葉もないし、聞きたい言葉もない。いや、あるとしてもラケシスにはよくわからなかった。
だから、ただ彼女は。
ひたすらに、自分の子供の父親である男の横顔を見つめていた。

アイラは夕食前の時間にホリンの部屋を訪ねた。
彼女の突然の訪問にホリンは驚きを隠せなかったけれど、久しぶりに会ったアイラを見れば自然に彼も顔がほころぶ。
「どうした」
「うん、頼みがあって」
「珍しい・・・入るか?」
「いや、そう長い用事でもない」
「なんだ?」
扉を開けたままで二人は会話を続ける。
「少し、手合わせをしてくれないか」
「何?剣か?」
「他に何がある?」
そういった物言いは相変わらずだな、とホリンは苦笑せざるを得ない。恋人が出来て子供を出産でもすれば多少変わるのではないかと思ったけれど、アイラはやはり以前のままだ。一部の男はそんな風に女性の変化に期待をしすぎることもある、とホリンはわかっていたけれど(とはいえ逆もまたあるのだが)大体は劇的に何かが変化する、というわけではない。当然彼はそれくらいのことは知っていた。だから、以前とまったく態度も調子も変わらないアイラを見て、そんなものか、と思うくらいだ。まあ、もともとそんな彼女のことを好きなのだし、変わらない方が彼女らしくも思える。
「もう、剣を振るえるのか」
「でなければここにいない」
「そうだけれど」
「とはいえ、もちろん以前と同じようにはいかない。だから、どの程度まで出来るのか、知りたいんだ。それには今まで一番私と手合わせしてくれたホリンと剣を交えるのが一番だと」
「そうだな」
それは確かだった。やはりそこは剣士同士、アイラはホリンと剣を合わせることが一番多かったし、ホリンはシャナンにも剣を教えていた。ホリンは実のところ以前からアイラに思いを寄せていたけれど、だからといってそれらのことを利用してどうこうと思うような男ではない。
どちらかといえばレックスの方が(俺は剣のことはわからないからなあ)と妬ましく思うことが多かったくらいだ。
「もう、動けるのか?夕食後は勘弁してくれよ」
「ああ、ホリンさえよければ今すぐにでも」
「そうか。じゃあ、ちょっと」
「ありがとう」
アイラは小さく微笑んだ。
「・・・礼を言われるようなことじゃあ、ない」
今はもう他の男のものになってしまった、美しい自分の姫君。
それでも、こんな形で役に立てるなら、いいさ。何度もそう思い込もうと彼は長い間苦労していたが、今は自然にそう思える。もしかしたらアイラの出産で変わったのは彼女ではなくて自分の方かもしれない。
男の方が女より女々しいところがあると思うし、男はずっと女よりも感傷的な生き物だと思う。そして自分も。
彼女が産んだ子供達を目にすることは出来ないけれど、彼女が出産をした事実は明らかに自分の心の整理をつけてくれる鍵になっていたらしかった。情けない、と思う反面、男のそういう弱さは無理矢理なくすことは出来ないのだとホリンはわかっている。
どういった形だろうと今はこんなに穏やかに彼女を見ることが出来る。その自分を褒めてやらなければいけないな、とホリンは心の中で苦笑を見せた。
「ホリン?どうした?」
「いや、なんでもない・・・じゃ、行くか」
ホリンはアイラにしか向けない笑顔を見せて、室内から剣をもって出てきた。

食糧調達は翌日の午前中には出来る、とシグルドのもとに報告がはいった。であれば、出発は昼頃には可能だと思われる。
シグルドはフィノーラの城下町の商人達を城に呼んで、少し前から「そうなるかもしれない」と思っていた出陣の準備をぬかりなく行った。
初めにフィノーラ城に攻め入った時にあった、城内、城下町内の民衆からの反感が完全に拭えているわけではない。それでもシグルド達は精一杯の誠意を見せて彼らに接してきたつもりだった。その甲斐あってか、出陣のための準備に彼らは好意的に協力してくれたし、初めはシグルド達を恐れていた城の女中達も、自ら手を差し伸べて出陣の準備を手伝ってくれている。
それは本当にありがたいことだと、ここでも感謝の気持ちをどう表してよいのかシグルドは困り、こういうときにオイフェがいてくれればいいのにな、と独り言を口に出してしまう。
この城を治めていたヴァハは確かにアルヴィスから信頼を寄せられていた部下かもしれないけれど、このような僻地の城ではグランベル中枢の住みよい城を管理するのとやり方が違うし、民衆の意識もかなり異なる。
さまざまな城を転々としてきたシグルドだからこそここでうまくやってこれたといっても過言ではないだろう。
多少の自負はあるけれど、シグルドは常に謙虚で、そして人々から自分は力を与えてもらっているに過ぎない、と思っている。
動くならば迅速に。
特に騎馬兵が多いこの軍にとって、砂漠の行軍は曲者だ。
フィノーラは砂漠の中央近くに位置しているけれど、そこから南下するのは、リューベック城からフィノーラ城への道のりよりも幾分歩きやすい。それを差し引いても、ここまでの行軍を考えれば明日すぐに出立した方がいいとシグルドは判断する。
(問題はがら空きになったこの城だ・・・もう一度、もともとの残兵確認をしなければな)
シグルドにはやることがいやというほどありすぎる。
おおよそのことは前もっていつでも何が起きてもいいようにと手配していたけれど、実際それをするとなるとまた話は違う。
「はあーっ」
オイフェがいなくなったことで、いつも彼に頼んでいたことまでしなければいけない。
それは案外と彼に負担を強いた。
「もう夜か・・・早いな」
とりあえずみなに必要な指示を出して部屋に戻ってくると、シグルドは部屋のソファに行儀悪くごろりと横になった。
靴ははいたままではみ出した足をまげてぶら下げている。
「いかん・・・夜番が誰だったか確認をしないと・・・」
見張りの夜番が誰なのかを確認して、明日の行軍に響きそうな人物であれば今晩のところはもともとの残兵にお願いをしなければいけない。
と思っていても体が重くて言うことを聞かない。
そのとき、ノックの音がした。
「誰だい?」
「公子、私だ」
「ああ、アイラか・・・」
起き上がろうとしたけれど、まあ、アイラならいいか、とシグルドはちょっと小ずるいことを考えて、そのままの態勢で
「開いているから入ってくれ」
なんてことを言う。ぎい、と小さな音をたててアイラが姿を現す。
「失礼する・・・ああ、お疲れの様子だな」
「すまないね」
「めずらしい」
アイラはすぐさまシグルドの様子を見て、くくっと喉を鳴らした。ソファにだらしなく横たわりながらシグルドは手をあげる。
「許してくれるかい?砂漠を渡ってきたきみの方が疲れているのだとは思うけれど」
「いや・・・公子は気疲れも多いに違いないから」
別段気安い仲というわけではないけれど、実はもともと細かく面倒なことを得意としないシグルドは、アイラのいい意味での鷹揚さをありがたいと思い、こういうときには甘えさせてもらうことにしていた。
一国の王女相手に、ソファでだらしなく横たわりながら話を出来るなんて、自分とレックスぐらいのものだろう(ベオウルフもそれくらいはやってのけるけれど)とシグルドは苦笑する。
アイラはシグルドの側にやってきて、そっと顔を覗き込む。
それがなんだか、子供が親の顔色を伺う表情に似ていて、シグルドは横たわったまま小さく笑いをもらした。
「何がおかしいんだ、公子」
「いやいや、なんでもないんだ。で、どうしたんだ?」
「ちょっとさっき、ホリンと打ち合って様子を見たんだが」
「うん?」
「どうも、私は体の調子が元に戻っていないらしいのだけれど」
呑気なその言い方に、シグルドはぶはっと笑い声をあげた。アイラは「何がおかしいんだ?」と怪訝そうに眉をひそめる。
「なんだ?」
「い、いや・・・うん、でもそれはそうだと思っていたよ。当然じゃないか」
「そうなのだが。ホリンが見てくれたところによると、剣の腕はそうそう落ちてはいないらしいのだが、スタミナが」
「うん」
「具体的な数字が出るものではないが、いつもの半分の時間で、体が言うことを聞かなくなるほどだ」
「・・・それでも、すごいものだと思うよ」
シグルドはゆっくりと体を起こした。
「いいのに、寝ていても」
「いや、やることがあるにはあるんだ・・・」
「そうか、公子は大変だな」
「まあね、でも、みんなが助けてくれる。だから、大丈夫なんだ」
そう言ってシグルドはソファに座り直して、それでもまだけだるそうに体は背もたれに体重をかける。アイラは相変わらずぼうっと突っ立ったままでシグルドを見ていたが
「・・・そうか。そうだな」
と、なんだか納得したように自分に言い聞かせる風に頷いた。それへシグルドも
「ああ。そうだよ」
と応える。
「・・・私はイザークから逃げるときに、自分一人でつらい思いをして、誰も助けてくれないと思っていた。それはある意味本当で、でも、今になるとそうではなかったのだと思う」
「・・・そうなのかい?」
「シャナンを守る、というと自分ばかりがつらい思いをしたように感じるけれど。不自由な体でここに来て、わかった。私は、シャナンに助けられながら、シャナンを守って砂漠を渡ったのだろう。あの子を守ることをすべてだと思いながらひたすらに進んでいた道は、あの子に助けられながら歩んだ道だ」
「・・・ふむ」
「今こうして、信頼出来る仲間がいることは、ありがたいと思う。そう思ったときに、なんて自分は一人でつらかったのだろう、と思ったこともあった・・・でも、そうではないのだとようやくわかった」
「そうか」
「自分が保護者だろうがなんだろうが、憎く思っていない人間が側にいる、というだけで助けられて、生きていけるのだろう。人はそれを忘れてしまうことも多いのだろうが。公子は、そのことをよく知っている。だから、みなが公子の側に集まる」
「買いかぶりだよ」
「グランベルに侵略された国の王女である私でも、そう思うのだ。間違いはない」
それも一体どういう道理かとも思うけれど、時折そういったアイラの強引な言葉はシグルドを、そしてレックスを助けてくれる。アイラはどうも言葉が足りなかったり、グランベル式の会話が出来ない代わりに不思議な嗅覚を備えているような気がしてならない。前々からそう思っていたけれど、とシグルドは溜め息に似た息を吐いて、小さく微笑んだ。
「ありがとう、アイラ。少し気持ちが楽になった」
「何を感謝されているのかわからないけれど・・・?」
「みんなが助けてくれるから、大丈夫だなんて、本当にそうは思っているけれど、自分にも言い聞かせようとしていた言葉だったから。その言葉と一緒に背中を押された気分だ」
「よくわからないが・・・」
シグルドがいっている意味が伝わらない、とアイラは少しだけ不満そうな顔を見せた。
「まあ、いい・・・よくわからないけれど、公子が楽になるなら・・・言葉で楽になるならいいんだが、私の体はそれでは簡単に楽になってくれないようなんでな」
と話を元に戻すように言うと、アイラはきゅ、と軽く唇を噛み締めた。
「本当は足手まといになるのは嫌なのだが」
「足手纏いになんてならないよ、アイラ。君にはクロード神父とエーディンの護衛を頼もうと思っている。適材適所だろう?以前のように前線に出てくれ、なんていうつもりはなかった」
「そうか」
明らかにほっとしたようにアイラは笑顔を見せた。
「ティルテュがいなくなった今、それが出来る丁度良い人間がいなくてね、困っていたんだ。だから、感謝する」
「そう言ってもらえると、私も・・・気持ちが楽になる」
「ああ、すまない、アイラ、座ってくれ、立たせっぱなしで申し訳なかったね」
シグルドは初めて自分の迂闊さに気付いたように、慌てて彼女に椅子を勧めた。けれどアイラは首を軽くふって断る。
「いいや、別にそう長い話でもないだろうし」
「うん・・そうか」
とりあえずアイラのその言葉で、彼女がここに来たのはシグルドが彼女を次の戦でどう使うかを心配して相談に来ただけなのだ、ということがわかった。シグルドの方でもまだやらなければいけないことがたくさんあるから、アイラと長話をしている暇も正直なところない。
「子供は、元気かい?」
社交辞令と思われてしまうかもしれないけれど、それはシグルドにとっては本当に気になるところだった。
アイラの子供といえば、イザーク王家の血をひく人間だ。
シャナンが無事イザークに辿り着いたという話は報告を受けていたけれど、シャナンとアイラがいればそれでよい、というわけにいはいかない。グランベルがイザークに対して仕向けた謀略を思えば、シグルドはアイラの子供達をきちんと保護してやりたいと心から思っている。イザーク再建のために、グランベルの人間である自分が出来るもっとも近くて正しくて必要なことがそれなのだと彼は思ってもいたから。
「ああ、順調だ・・・ここにくることを選ぶのは、相当に努力が必要だった。どうもなんというか、赤子というのは・・・ううん」
「?」
「困るな。目を離したくなくなって」
「・・・」
シグルドは驚いたようにアイラをみた。
彼女からそんな言葉を聞こうとは思ってもみなかった、いや、とてもそれは当たり前のことなのだが・・・
「でも、私ひとりでは二人も面倒を見きれないし、王族というのは自分で子供を育てないものだ・・・と乳母に口うるさく言われたからな。そういってくれるならば逆に甘えてみようと思って、それで任せてみた。おかしい。レスターの時はそこまでみな口うるさくなかったのに何故私のときはそんなに色々言うんだ、彼女たちは」
あまりにもくそ真面目にアイラがそんなことを言うものだからぷっとシグルドは吹き出した。
「自分で今答えをいっただろう、王族だから、だよ。残念というか幸運というか、エーディンは王族の人間ではないからね、だから彼女が自分で赤ん坊を育てる、というわがままも通ったようだけれど」
「デルムッドのときもそんなにうるさかったか?」
「君と違ってラケシスは、王族を王族扱いする人々への接し方を心得ているから・・・ラケシスは子育てに関しては、乳母をすぐに頼っていたようだったよ。それが、グランベルやシレジアでは普通なんだろうね。エスリンは自分で育てたと言っていたけれど、簡単に子供を置いて来てくれたからそれもどうか怪しいものだが・・・君がどう思っているかわからないけれど、それは別段恥かしい行為ではないし、とても自然なことだ。何故なら君がここにこうしているように」
そのシグルドの言葉でアイラの表情は引き締まった。
「私がここにこうしているように」
「ああ。王族の人間は、他にもしなければいけないことがあるから・・・だから、君はここにいるのだろう?」
「・・・公子の言う通りだ。それは、正しい」
アイラは静かにそう言った。それから一呼吸おいて、では、これで失礼する、と軽く一礼をする。それへシグルドも引き止めずに曖昧な返事をして、部屋から出ていこうとしたアイラの背中をただ見ていた。彼にはまだ考えることがたくさん残っていたから、既にそちらに気がいってしまっていたのもやむを得ないことだろう。
と、扉を開けようとして思い出したようにアイラは振り返った。それにシグルドは驚いて、ちょっと慌てて目を見開き、素っ頓狂な表情を見せてしまう。アイラの方はそんなシグルドの反応にお構いなしに
「・・・言い忘れるかもしれないから、今、言っておこうと思う」
「うん?」
何か大層なことかな、とシグルドは身構えた。が、アイラの言葉はそんな彼の予想を裏切ってとても柔らかい、穏やかな言葉だった。
「公子に助けてもらって、本当に、感謝している。ありがとう」
「何を今更」
ふふ、とシグルドは笑いを漏らすけれどアイラは真剣だ。
「一緒に、イザークに行こう。オイフェを迎えに。私がイザークに戻るときは、あなたも一緒だ」
「そうだな。わかっているよ。ありがとう、アイラ」
そのシグルドの言葉にアイラは笑顔を返して、それ以上は何も言わずに部屋を後にするのだった。

一方、その頃レックスはアゼルの部屋で話をしていた。アゼルはその晩は見張りにたつ予定だったから、あまり長い話は出来ないけれど、といいながらレックスを部屋に招きいれたのだ。
もちろん話というのはアイーダのこと、そしてアルヴィスのことに他ならない。
デューがシグルド達に報告をして、みなで話し合った軍議の場で何度もアゼルはヴェルトマーについて・・・地形、城、はもとより、アイーダのこと、アルヴィスのことを聞かれ、そしてそれに対して答えていた。
アイーダのひととなりをアゼルは知らないわけではないけれど、知っている、と断言できるほど彼女のことを理解しているわけではなかった。少なくとも自分よりアルヴィスの方が何倍も彼女のことを知っていただろうし、アゼルの感覚では政や戦に関することであれば、アルヴィスは自分よりもよほどアイーダと言葉を交わしたことの方が多いに違いない、と彼はシグルド達に話した。そして、その信頼関係は今に始まったことではないことも。
それでもアゼルは親友のレックスにしか話せないこともあったし、それは以前から変わらない内容だ。
いつもアゼルの中には、異母兄弟である兄アルヴィスに対する畏怖の念がある。
だから、シグルド達に何か情報を提供する際にも、その個人的な感情のために余計な情報が混じらないかとアゼルは不安になって仕方がない。レックスがその場にいてくれるときは時折彼の様子を見れば、自分が兄について片寄ったことを言っていないか確認をしながら話が出来て心強いのだけれど。
アゼルにとっては、デューがアゼルのブローチをアイーダに見せて親書を託したことは、アイーダが、アルヴィスが、自分をどこまで信じてくれるのか、ということにすべてがかかっている、と思わずにはいられず、それは相当な心の錘になっていた。
もちろんレックスはもとより、その場にいたみなはそのことをわかっていたし、さらにはそのことに対してかけるべき言葉もないということを知っていた。
その空気に以前のアゼルなら耐えることは出来なかっただろうが、シグルド軍に一員として旅を続けたアゼルはもはや、三年前にエーディンを助けるためにヴェルトマーを後にしたアゼルではない。今の彼は、守るべきものがあって、そしてそのために正しく強くなろうとしている逞しい男性へと大きく成長を遂げている。
「きちんと、話せていたよ、アゼルは」
向かい合って椅子に座っているレックスは小さな円卓に肘をついて手を組み、そこに顎を乗せてにやりと笑いながらそう言った。
レックスにそう言われることはとても勇気にもなる。
みなはレックスとアゼルが親友であることを不思議がったりもしていたし、大概、勝手気侭な次男坊であるレックスに対して「もう、レックスは仕方がないんだから」とアゼルがフォローをいれる役割だと思われることが昔から多かった。
それは確かに間違いではないけれど、アゼルにとってのレックス、について人々はあまり理解をすることがなかったのも事実だ。
ちらちらと部屋の灯りが揺れる。わずかに窓から隙間風が入って来ていて、それが部屋の灯りを優しく揺らしているのだ。
城の周囲は砂漠の中のオアシスよろしく、木々が多く植えられていたから多少の隙間風があったところで部屋中が砂だらけになるようなことにはならない。そのことをここ半月ほどの滞在で知ったのでアゼルはその隙間を放置していた。
が、そんなことはわからないレックスはちょっと気にして窓を振り返る。それへ「大丈夫だよ」と声をかけてからアゼルは
「レックスが言う通りだったならばいいのだけれど。やっぱりね、ヴェルトマーのことになると・・・」
と言葉を濁した。
アゼルはヴェルトマー家では第二夫人の子供として、幼少の頃からアルヴィスと明らかな差異をつけられて育っていた。その心の傷や、手を差し伸べてくれた兄への尊敬の念、そしていつの頃からかわからないけれど感じるようになった兄への畏怖の気持ち、それらがアゼルの中では渦巻いていて時折彼の判断力を鈍くする。
そうである自分を彼はとても嫌っていて、もっと強くなりたい、と願い続けていた。
レックスは、アゼルほど、強い心を持ちたいという願いを抱いている人間を他には知らない、と思う。そして彼のそれは、ティルテュと結ばれたことでより一層強くなっているとも感じていた。
「大丈夫だ。お前は、ほんと、強くなったよ」
「自分でも、少しそう思うよ」
「少し、じゃないよ。ずっと見てた俺がいうんだから、保証付きだぜ?」
「あはは、ありがとう、レックス・・・レックスも、強くなったね」
「アイラと付き合ってりゃ嫌でも強くなるぜ?・・・そうだなあ、昔の俺だったら、親父に斧を向けるなんてことは絶対出来なかっただろうな。口先ではなんと言っていてもさ」
「そうだね」
アゼルは小さく微笑んだ。
「・・・今でも、やっぱり、なんていうんだ?ヴェルトマーにいた頃みたいな・・・引け目みたいなものを、感じるのか?」
「いや・・・」
そのレックスの問いに少し考えたようにアゼルは首をかしげて、それから
「それは、今はない。もう、僕は僕だよ・・・僕の母親が第二夫人だとか、兄と半分しか血がつながっていない、とか、そういったことはあまり意味がなくなったよ・・・。僕は、自分を守れるくらいには、強くなったようだね」
「頼もしいことを言うな」
「でも、それだけじゃあ、だめなんだ」
「・・・」
静かに彼は言葉を続けた。
「自分を守れるくらいに強くなるのは、誰でも簡単なんだって・・・そう、思う。誰かを守れるくらい強くなりたいと思っていた。そうでなければこの強さになんて意味がないと・・・・そう思うから」
アゼルとの間で今まで何度も交わされた会話。
他の誰に語るわけでもないけれど、レックスは何度もアゼルからその話を聞いていたし、そういうことを考えている彼に対して好感を持っていた。
誰か、というのはもちろんティルテュと、きっと彼女の中に生まれた新しい命のことだろう。
それを守りたいというのは男としては当然のことだし、そのための強さが欲しいと思うのも道理だ。
が、アゼルにとってはそれは容易なことではない。何故ならば、今彼等が敵対しているその相手は・・・
「これからティルテュは辛い思いをするだろうし今だってしていると思う。本当はレプトール卿には自分から・・・すべてのことを話して、きちんと罪を償って欲しい・・・きっと、それは出来ないことなんだろうけれど・・・」
「難しいだろうな」
「そうであれば、尚更ティルテュはつらい思いをする・・・ねえ、レックス、僕は小さい頃から陰口を叩かれていたし、目に見えない悪意や嘲笑の対象に自分が時折なっていたことを知っているよ。それはとても醜くて、だけど簡単に抗うことも受け止めることも出来ない厄介なものなんだ」
「・・・そう、なんだろうな」
「それを知っているから・・・目に見えないものから、自分の大切なものを守ろうとするのって、とても大変だと思える。物理的な攻撃ならまだいい・・・でも、これから・・・レプトール卿の悪事を白日の下晒すことが出来たら、そこからティルテュの、目に見えない戦いは始まるんだ。今は逃げるために、子供のことを口実に彼女をシレジアに残すことが出来たけれど・・・ティルテュのお兄さんであるブルーム卿が今回のことについてどう関わっているのかもわからないし、僕は会ったことはないけれど、年が近い妹さんもいたはずだ。ティルテュだけがシレジアで静かに暮らすわけにはいかなくなるに決まっているんだ」
「そうだろうな。当然だ。たとえレプトール卿がどうでようと、ブルーム公子がどういう関わりを今回の件にもっていようと、フリージ家に対して下される処罰や、存続のための事柄やら・・・もろもろのことが出てくるからなあ。ブルーム公子には子供がいたよな?」
「うん。確か・・・イシュトーって言ったっけ。男の子が。ただ・・・神器を受け継ぐ資格を現す聖痕は・・・出てなかったはずだよ」
「ってことはトールハンマーを受け継がないってことか・・・」
それへ頷くアゼル。
「基本的に神器を受け継いだ人間の子供がまた神器を受け継ぐことになるんだけどね・・・もう少し大きくなってからその証が出ることもあるからなんとも言えないんだけれど」
「面倒だなあ・・・俺んとこは、もう兄貴が受け継ぐことになってるし、兄貴の子供なんか産まれたそんときから聖痕があったもんな。簡単でいいよ。ドズル家はどーも代々面倒なことはないようでさ。とにかく長男なんだとよ。しかも代々長男は血の気が多いときたもんだ」
ははは、とレックスとアゼルは笑い合った。
ひとしきり笑うと、ぱたりと彼等の表情は変化する。お互いに無理矢理な笑いだということは百も承知の上だ。
「いいよ、アゼル」
レックスが先に口を開いた。
「目の前のことを、考えた方がいい。俺達は明日出陣して、レプトール卿を討つ・・・・のか、どうにかして捕らえるのかは、シグルド公子の手腕次第だ。今は、そのことだけを考えようぜ」
「うん、そうだね」
穏やかにレックスの言葉にアゼルは賛同した。そのとき、ノックの音が響いた。
「誰?」
「アゼル公子、シグルド公子から伝言だ」
それはレヴィンの声だった。アゼルは立ち上がってゆっくりと扉を開けた。そこにはもう眠る準備が出来ているのか、すっかりと部屋着に着替えてくつろいだ恰好になっているレヴィンが壁に気だるそうにもたれかかっていた。
「なんでしょうか」
「今晩の見張りは、もともとここにいた兵士に任せるから、ゆっくり明日の出陣に備えて眠ってくれ、とさ」
「ああ、それはありがたい」
と、レヴィンは室内にいるレックスの姿をみつけて
「なんだ、レックスもいたのか・・・さっき、アイラがシグルド公子のところから出て行くのを見たぞ。お前のこと、部屋で待ってるんじゃないのか」
別におもしろくもなさそうにそう言った。彼の言葉を聞いてアゼルは、「そうだ、アイラが来てたんだもんね」とそこで初めてそのことを思い出したようにレックスを振り返る。
「こんなとこで油売ってる場合じゃないよ、レックス。アイラのところに行ってあげなよ」
「いーんだよ、大丈夫だよ」
「馬鹿だな、お前は」
レヴィンは呆れたように少しつっけんどんにそう言った。
「アゼルは一緒にいてやりたくたってティルテュがいないんだぞ。そういう人間がそう言ってるんだ、素直に従うもんだろうが」
それに対してはアゼルはくすりと笑ってレックスの代わりに言い返す。
「レヴィン王子も、同じなくせに」
「む・・・」
それにはレヴィンも減らず口を用意できなかったらしく、ちょっと不満そうに口篭もった。
まったくもってアゼルの言葉は正しい。
このシレジアの王子はあまり大っぴらにフュリーに対する気持ちを口にすることはないけれど、本当はとてもあの純朴な天馬騎士を愛していて、大事にしているのだ。それがわからない彼等ではない。きっと今日、デューを連れて飛んで来た天馬騎士がフュリーではなかったということに、安堵しながらもどこか彼は残念に思っていたに違いがない。すると、形勢不利と見たのかレヴィンは
「とにかく伝えたからな」
と、乱暴に言ってさっさとその場から立ち去ろうとした。別にそれ以上の話題もなかったアゼル達は彼を止めなかったけれど。
そのレヴィンの様子がなんだか微笑ましいとすら思えて、二人は顔を見合わせて軽く肩を震わせる程度に笑いを交わした。
形は違うけれど、誰かが誰かを思っているということ。
そのことはなんだか周囲の人間にも笑顔を作らせる威力がある。
たとえ彼等とそんなに仲がよい、というわけではないレヴィンだとしても。
「じゃあ、俺戻るな」
「あ、うん。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
レックスは軽くアゼルに手をあげて部屋から出ていった。
そして一人部屋に残ったアゼルは、ゆらめく灯りを見て、思いのほかこの夜は風が吹いているのだということに気付いた。
「砂嵐が起きないといいけれど・・・」
なんだかそんなことを思うと胸騒ぎに近いものが込み上げてくる。
砂嵐。
ああ、そうだ。ここは砂漠だったのだ。
アゼルは隙間風がはいってくる窓辺に近づき、それをふさぐようにカーテンをひっぱって紐でベッドの端にしばりつけて固定をしながら、外の音に耳をすました。木々に囲まれていない砂地では、一体今はどれほどの風が吹いているのだろう?
人々はみな緑があるところ、水があるところ、人間がいるところを求めてさ迷い歩く砂漠。
それはなんて今の自分達の状態に似ているのだろう。
そんなことを思ってアゼルはこんこん、と自分のこめかみを拳で軽く叩いた。
こんな想像はしたくないし意味はない。
「・・・今日は、もう、寝たほうがいいな」
そうつぶやくとそっと酒の瓶を手にして、水を飲むのに使っていた手近なグラスに半分ほどそれを注いだ。
今ごろティルテュも眠ろうとしている頃だろうか?
そんなことを思いながら寝酒に口をつけ、フィノーラ最後の夜を感じるのだった。



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