春雷-9-

「誰に謗られたとしても構わない」
ざわめき返っている両軍の兵士達に背を向けて、戦場から離れようとしたレヴィンはそれだけをシグルドに呟いた。
「誰も君を謗るようなことはしない。君は正しかった」
シグルドはそう言うけれど、レヴィンの表情はいつもよりも硬い。
二人の様子を気にする者もいたけれど、今はみなシグルドの命令に従って、フリージ兵の投降を呼びかけ残処理を行っている途中だ。ヴェルトマー兵の介入はあるけれど、あくまでもレプトールを討ち取ったのはシグルド軍であるという姿勢を崩さない。
「・・・ティルテュはどう思うだろうか」
人々が行き交う中、目をそらしながらレヴィンはそうシグルドに言う。それに対する答えをシグルドはすぐには探せなかった。
このシレジアの王子がこのような表情を見せることは珍しい。
レプトールを背後から討った事。それは騎士の道理には確かに反することかもしれないけれど、彼らが知っているレヴィンは「それがどうした」くらいのことは言ってのける男だと思っていたからだ。
それにレプトールを討つとなったら、レヴィンかシグルドが引導を渡すことになるのは初めからわかっていたことだし。
シグルドがそんなことを考えていると、レヴィンは吐き捨てるように言った。
「アゼルがあんな無茶をしなければ、俺一人が恨まれれば済んだのに」
「レヴィン」
「ティルテュには、伝えないようにしてくれよ。アゼルを助けるためにレプトールを殺しちまった、なんて」
「・・・ああ」
そういうことか、とようやくシグルドはレヴィンの言葉を理解する。
シグルドはこの件に対する自分の愚鈍さに溜息をついた。
確かに、複雑なことにはなってしまった。
それでも、そうしてでもアゼルを救いたかったというレヴィンの気持ちが痛いほどにわかって、そしてそれがとてもありがたいことだとシグルドは思う。
トールハンマーによって作られ、呼ばれた暗雲達は、レヴィンのフォルセティの威力にまるで押されたように、強い風に煽られて流れ、そしてちぎれるように切れ、最後にはその姿を消してしまった。
本当は一撃で葬るつもりはレヴィンにもなかった、という。
けれど、あまりに強大な力をもつトールハンマーの威力にフォルセティが感応してか、いつものフォルセティに比べてあまりにその力は大きかった。
レヴィンをレプトールのもとに送りこむために、神からの祝福を踊りを通じてレヴィンに送ったシルヴィアですら、そのフォルセティの威力に押されて尻餅をついてしまったほどだ。また、レヴィンのサポートをするために切り込んでレプトールに近づこうとしていたシグルドの馬は、フォルセティの目に見えない力に恐れをなして立ち止まって怯えてしまったほど。
神器と神器は何か感応するのだろうか?
魔法という特殊なものであるから、それは尚更なのかもしれない。
レヴィンとしてはとにかくアゼルを救うことが出来ればよかっただけだったのだけれど、フォルセティがそれを許してはくれなかったようだ。
レプトールを背後から討った、という行為そのものは誰も糾弾をしなかった。
今までレプトールがシグルド達に対して張り巡らせた数々の陰謀を考えればシグルド軍の誰もレヴィンを責めることはしなかったし、もっと嫌なことを言えばレヴィンは騎士ではない。
ただレヴィンが懸念しているのはティルテュのことと、このことでシレジアの誇りを傷つけるようなことを吹聴する輩が出てくるのではないか、ということだった。
レプトールが討たれたことによって戦はあっさりと終わってしまい、残ったフリージ兵はヴェルトマー兵によって捕らえられていった。もしもこのフリージ兵達がレヴィンを糾弾するようなことをすれば、彼の懸念も公のものになる。それが少し心配ではあった。
が、ありがたいのかありがたくないのか、彼らは知ることはなかったけれど、ここで生き残ったフリージ兵達もかわいそうなことにあっさりと内々に殺害されてしまって誰一人レヴィンの汚名を広めるようなことは出来なくなったのだが・・・。

仲間をみなヴェルトマー城下町前に待たせて、シグルドとクロード、それからレックスとエーディンの4人がヴェルトマー城に向かった。アゼルはトールハンマーの直撃を一度食らってしまったために極端に体力を消耗している。体の傷を回復してもらったものの、その時の極度の緊張による疲労で今は休んでいる。ラケシスが回復の杖を振っている間、アゼルはシグルドに「気をつけて、いつでも離脱出来るような人員で」とか細い声で伝えてからことりと眠りに入った。
ヴェルトマー城にたどり着いたシグルド達を、アイーダ将軍は快く迎えてくれた。
城門から入ってきたシグルド達が仲間を置いてやってきた様子を見てアイーダはきっと彼女にしては希な、接待用だとしても相手を喜ばせるのに申し分ないほど美しいこやかな笑顔を見せた。きりりと引き締まった表情を作ることが多いため、男性的と思われることもあるその顔の造作は、こうやって笑みを浮かべると間違いなく女性的だ。
「さすがにまだ警戒なさっていらっしゃるのですね。それも当然のこと。今まであなた方が襲われた数々の策略を思えばそうせざるを得ないことも承知しておりますが」
それに対してシグルドは馬から降りずにアイーダに答えた。
「馬上からのご無礼をお許しいただきたい。まだ我らはすべてあなたを信用しているわけではない・・・」
「そうでしょう。とはいえ、何をすれば信用していただけるのかな・・・てっとり早く話せばそれですむのでしょうか?」
「わたし達にとって今の状況はまったくわけがわからない。それを説明していただけないかと」
「わかりました。信用していただけるまで、馬上にいていただいて結構です」
面倒な話は嫌だから、とアイーダはさばさばと言った。
ヴェルトマー城門の内側で、現在の城の主であるアイーダが、馬から降りないシグルド達(クロードとエーディンはそれぞれシグルド、レックスの後ろにくっついて馬に乗せてもらっている)とのんびり会話をしているのはなんだか不思議な光景だった。頭が固い貴族であれば、あくまでも馬から降りることを強要するのだろうが、アイーダは基本的に合理的ではないことを嫌う人間だ。
「レプトールとランゴバルトの策略を、既にアルヴィス様はご存知でいらっしゃいました。が、両氏のあまりにも強い力の前ではアルヴィス様は完全に孤立していらっしゃいました。なかなかに表立って動くことが出来ず、このようにあなた方に手を差し伸べる時期が遅くなってしまったことを悔やんでいらっしゃるご様子です。とはいえ、現在アズムール王は病に臥せっていらっしゃる。ランゴバルトやレプトール達の陰謀から逃れながらアズムール王を支えてグランベルを守り、かつあなた方に手を差し伸べることがどれだけ難しいことなのか、少し考えていただければわかること。レプトールが宰相としてバーハラに留まる限りはアルヴィス様も思うようには動けなかった。だから、あなた方がランゴバルトを倒したことによってレプトールがバーハラを出てくれたことがとてもありがたかったし、そのきっかけを作るのはあなた方にしか出来ないことだった。それゆえに、あなた方が苦しんでいることを知りながら、グランベルの正しい騎士としてあなた方が戦ってくれることを期待してアルヴィス様は一縷の望みをかけていらしたのです。レプトールがバーハラを出た後でアルヴィス様は、彼らの策略によってゆがめられたグランベルの政治を正すためにバーハラで走り回り、そして尚且つあなた方を救うためにわたしに密使をよこしたのです。それでも我々としてはにわかに信じ難いことだった。そこにアゼル公子から・・・いえ、あなたからの親書を受け取ったことで我々も心積もりが出来ました」
アイーダは一気にそこまで話をしてから、ふう、と息をついた。普段、こんなに長く人に話すことがないもので、と小さく付け加えるとシグルドは苦笑して頷き返す。
「とはいえ、これが作り話ではないという証拠もないのですが、わたし達にはこんな話をしてあなた方を陥れて何の得もない。信じてもらえますか、と聞くだけでもう精一杯です」
正直なことだな、とシグルドは眉根を寄せた。
簡単に信じてはいけないと思いつつも、それでもアイーダの話は説得力がある。けれどもそれがそのまま信用に結び付けられないのは当然のことで、決断をするにはなかなか難しい。
と、レックスが口を開く。
「シレジアのラーナ王妃が何度もアズムール王に親書を送ったはずだけど」
「それについてはアルヴィス様からご回答があるのではないかと思います。が、おそらく宰相であったレプトールがすべて握り潰したことではないかと。王への手紙などはすべて宰相経由で届くことになりますから」
「が、バイゲリッターがシレジアに侵略行為を働いたことくらいはご存知ではないのか」
アイーダはぴくり、と眉を動かした。それにはエーディンも悲しそうな表情を見せてそっとうつむく。それは実弟アンドレイの愚考を蒸し返す、嫌な言葉だ。とはいえレックスは別にデリカシーが欠けている、とかそういう話ではない。必要だから話す、ただそれだけだ。エーディンがいようといまいとそれは変わりがない話題なのだろう。
「侵略行為」
一度その言葉を繰り返してから、少し考えるような表情を見せてからアイーダは静かに答える。
「バイゲリッターがアズムール王に無断でシレジアの国境を侵したことはご存知で、それなりの処罰を課しておりました。ただ、我々に伝えられたことは、イザークに派遣されているダナン公子がイザーク制圧に手を焼いているらしいので尽力がほしい、という申し出に答えてバイゲリッターが派遣されたと。そして方角を間違えシレジアの国境を侵した、程度の話しか伝わっておりません。真実が違う、ということであればきっとアズムール王なりアルヴィス様なりがシレジアに対しての謝罪を行うことになるでしょう。侵略行為、ですか」
「シレジアの内乱に対して手を貸していたのだけれど」
シグルドは穏やかにそう言った。アイーダは更に眉根を寄せて、美しい顔を曇らせた。
「どちらにしても、グランベルはシレジアとイザークの両国に対して謝罪をする必要があるようですね」
「ああ、そうだな」
「アグストリアに対してはどういうお考えでいらっしゃるのでしょうか?」
クロードがシグルドの後ろから顔を覗かせて聞いた。
「残念ながらそちらの方はわたしは存知あげません。ここ数ヶ月ずっとレプトールやらランゴバルトやら、あなた方に対する討伐隊がヴェルトマーを中継地点として北東に移動をしていたもので、本当にこちらもばたばたしていましたから。わたしにわかることは、バーハラの検問から東側・・・ようするにこちら側のことばかり」
どの回答も優等生の答えと言っても過言ではない。
それが嘘か本当かはあまりよくわからないけれど、ひとまずシグルドは、彼女が何を自分達に望んでいるのかを聞こうと思った。
「我々を助けていただいたことは感謝している。が、ここでゆっくりとしているわけにもいかない。あなたがおっしゃるような状況ならば、我々は少しでも早くアズムール王に謁見の場を設けていただきたいと思うのだが」
「それについてはアルヴィス様から伺っております」
「え?」
「数日後にバーハラで凱旋式を開くと。あなた方は反逆者の汚名を着ながらもグランベルの抱えていた膿みを全て取り除いてくれた。アルヴィス様が行うべきはずだったことを、代わりに成し遂げてくださったことをバーハラにいる者達は既にわかっております。ここまでの戦でお疲れとは存じますが、一日も早くバーハラに来て欲しい、と。そこであなた方の苦しかった長旅は終わるのでしょう。出発の日を決めていただければ、すぐにでも使者をバーハラに向かわせます」
シグルド達は喜びととまどいが混じった表情になる。
アイーダはあくまでも穏やかにさらりと言うけれど、シグルド達からすれば突然話がひっくり返りすぎてとまどうばかりだ。確かに自分達が望んでいたのは、こういうシナリオだったけれど。
「イザーク王女やアグストリアのラケシス姫がいらっしゃるとのこと。ご両名との会談もバーハラで行われるのではないかと思います。もちろんシレジアのレヴィン王子、そしてヴェルダンのジャムカ王子も」
レックスは口の左端をわずかに歪めて、あまり思わしくない表情をついつい返してしまう。それは以前からアゼルに言われ続けて、そして最近では自分で気をつけてなくしたはずの癖だった。ついついそれがこんなところでひょっこり現れてしまったのは、もちろんアイラのことを言われたからなのだが。
「王とアルヴィス卿はいかほどまで此度のことをご存知なのでしょうか・・・。レプトール卿もランゴバルト卿も、首謀者だったものが既にこの世にいないのですから、グランベル側としてはとても曖昧な会談になってしまう気もしますが」
とクロードが言うとアイーダはそっと目をふせて
「そうですね。それでも、今我々が出来ることをひとつづつ実現可能なものから手をつけていかなければ。あまりにもレプトールやランゴバルトの謀は大きすぎました。ありとあらゆる国を巻き込んで、まるで大陸を飲み込んでいくような勢いだったと思います・・・。シグルド公子、わたしは思うのです」
「・・何をですか?」
「生れ落ちた赤子の、一体何を見て神は、神器をその子供に託すのかと。トールハンマーもスワンチカも、あのように使われるべきものではなかったはず。ああ、神父殿の前で不謹慎かとは思いますが」
クロードに遠慮しながらも、それでもアイーダは続けた。
「神は、一体、我々に何をさせようと思っているのでしょうね。そして我々はどこまで信じれば良いのでしょう」
その言葉に
「同感です」
神に近い男は、静かに頷き返した。
妙な沈黙が流れる。
彼がアイーダのその言葉に頷くことはあまりにも意外で、そしてそれだからこそ何かそら恐ろしいことが秘められているのではないかとすら感じられる。
レックスもシグルドも口を開こうとしたけれど、うまい言葉が出てこない。
ほんの短い嫌な時間を振り払うように、アイーダは小さく笑った。
「お互い、ここまで腹を割って話しているのです。まだ信じていただかなくてもいいですが・・・せめて、私達があなた方のために、いくつの部屋といくつの馬屋を提供すればいいかぐらいは教えていただけませんか?」

「部屋に水を持って行きたいんだけれど」
レックスはそういって女中部屋を覗いた。
シグルド軍の面々ははヴェルトマー城の客室を当てがわれてみな疲れを癒している。
シグルドを始め、クロードやレックスは、それでもアイーダ将軍と長々とした話し合いをする必要があったから、みなが与えられた部屋にひっこんだ後でもまだ体を休めるわけにはいかなかった。
「・・・」
ぐるりと女中が控えているはずの小部屋を覗くと、過去にレックスがヴェルトマー城に来たときにいた女中はどうやら誰一人いないらしいということがわかる。女中達は未だ、シグルド軍がどういういきさつでここにいるのかわかっていないようで、おびえた目でレックスを見ていた。
「水差しとグラス、借りるぜ」
「あ、はい・・・」
それでもアイーダから、彼等の面倒はみてくれ、と話がいっている様子で、一応それなりの動きはしてくれる。が、その怯えた目つきをみると、どうも未だにレックス達は反逆者としての汚名を晴らすことが出来ていないことがありありとわかって、気分がよろしくない。とはいえ、実際アズムール王が公式発表したわけでもないし、凱旋式とやらに行かない限りにはそれをぬぐうことは出来ないのだろうな、なんてグランベルは形式ばって面倒なのか・・・そんなことを思いながらレックスは女中から水差しを受け取った。
「そちらでよろしいでしょうか」
「ああ、ありがとう」
あんなにあっさりとレプトールを倒せ、なんていって、罪人の償いをすぐに死に結び付けるようなことをするくせに。
そう思わずにはいられない。
レックスが女中部屋から出て歩いていくと、部屋に入ろうとしているノイッシュとたまたま出会った。
「ノイッシュ、おつかれさん」
「あ、レックス公子・・・いえ、公子こそ御疲れでしょう。自分は騎士で、難しいことはわかりませんので、こみいったことはすべてみなさまに御任せしてしまい・・・大変ではないかと勝手に予想していますが」
生真面目な騎士はそういって小さく笑った。やはりここまでの長旅と、長年の肩の荷が下りたのか、純朴なこの男が見せる笑顔は少し疲れていたけれど心からのものに見える。
「ああ、そりゃまあね・・・。でも、シグルド公子とクロード神父がおおよその話し合いをしてくれているから、俺もそこまで込み入ったところは介入していないんだ。ああいう話し合いは人数が多ければいいってもんじゃあないから」
「お察しします」
「よく休むといい、あさって出発だっていってたな」
「わかりました。公子もどうぞゆっくりお休みください。きっと胸のつかえがようやくとれて、よく眠れることでしょう・・・グランベルに戻ってくるのに、本当に長い年月を費やしましたね」
「そうだな・・・」
それ以上あまりコメントを返さないレックスを、ノイッシュはどう思ったことだろうか?

「気がついたのか」
アゼルは目を開けると、なんだか懐かしい空気を感じた。
そこはヴェルトマー城の一室だ。
一時期自分が住まっていた部屋とは異なるけれど、基本的なつくりは一緒で、けれど、みんなに内緒で潜り込んだ以外に彼が踏み込むことがなかったゲスト用の部屋であるとにすぐに気がついた。
今も昔もまるで変わらないように、部屋に置かれたポプリがとても静かに強い主張もなく、それでもその香りを強く覚えているアゼルの鼻腔をくすぐる。
「わあ」
「どうした?」
アゼルはむくりと起き上がると、自分が既に室内着でベッドに入っていたことに気付いた。そして、ベッドの側に椅子を持ってきて座っていた、彼が目覚めたときに声をかけた人物を見て尚更驚きの声をあげる。
「なんでアイラが」
「・・・うん?わたしがアゼルの看病をするのはおかしいか?」
「・・・ご、ごめん、おかしい・・・」
「うん、そうか」
別段気にした風でもなくアイラはそう言った。アゼルはおそるおそる
「まさか、これ、アイラが着替えさせたんじゃ」
「別にやれといわれればやるけれど」
そう言うとアイラは小さくおかしそうに笑う。
「安心しろ、というのも変な話だが。着替えさせたのはホリンだ」
「そっか、じゃあ、いいんだ」
明らかにほっとした表情を浮かべるアゼル・・・と、その表情がすうっと暗く翳ったものに一瞬にして変貌する。
彼はぎゅ、と生成色の落ち着いた色調をベースとした上質な肌掛けを握り締めた。
思い出すのは、自分を殺そうとしたレプトール。
味方の兵を巻き込んででも、とトールハンマーをアゼルに向かって詠唱したときのあの狂った表情。
全身にトールハンマーによるダメージを食らって生きていられたのは本当に幸運だった。
が、自分を押さえつけていた兵士達は、たまったものではなかっただろう。
元来広範囲に威力を発揮する魔法ではないはずだけれど、あれだけの至近距離で、そしてあれだけ近くでアゼルを兵士が踏みつけていたのだ。巻き込まれないで済むと思うほうがどうかしている。
トールハンマーを食らった時の痛みよりも兵士達の叫び声が耳に残る。
人間の体はけろっとしているもので、喉元過ぎればなんとやらだ。
あれだけのひどい痛み、気が遠くなるような苦しみも、こうやってふかふかのベッドで目覚めればとても遠いことのようにすら思える。けれど。
鼓膜を破ってアゼルの脳に突き刺さった兵士達の声。本来彼らを傷つけるものではなかったはずの、あの雷に打たれた兵士達の叫び。あれが断末魔のものだったのか、それともその声の主が助かったのかは、アゼルは定かではない。
自分がレプトールのもとにいったのは愚行だった、と思う反面、愚行ではなかった、とも思える。
逆にもう少し早ければ、もしかするとレプトールもフリージ兵も救えたかもしれない。けれど彼はシグルド軍の一員だったから、あのタイミングでしか動くことは出来なかったのだし、悔やんでも何にもなりやしないのだ。
気を取り直してアゼルはアイラに聞いた。
「・・・みんな、ヴェルトマー城で休んでいるのかな?」
「ああ。それぞれ部屋をいただいた。ここは広い城だな。アゼルが暮らしていたのだろう?」
「うん、ずっと、じゃなかったけど・・・アイーダとの話し合いは?」
「つつがなく。明日かあさってにはここを出て、バーハラで行われる凱旋式に出るそうだ。戦は終わったのだと・・・アイーダ将軍との会見の内容も聞かせてもらった。あとでシグルド公子のもとにいくと、きっと教えてくれるだろう。わたしの言葉では正確に伝えられないから、あまり聞かないでくれ」
そういいながらもアイラの眉はひそめられていることにアゼルは気付いた。アゼルに笑顔を見せたりしてはいたけれど、彼が目を覚ましたときにすでにアイラはあまり芳しくない様子だったのではないか、とそのときようやくアゼルにもわかる。
「・・・嬉しくなさそうだね、アイラは」
「・・・そういうわけでもない。ただ」
「ただ?」
「いや・・・多分、バーハラにいけば何もかも、答えが得られるのだろうが・・・。わたしはどうも、納得がいかない」
「何に対して?」
「さあ・・・ただ」
また「ただ」だ。けれど、きっとそれは口癖、とかそういった曖昧なものではなく、アイラとしてはそれしか言いようがないことなのだろう。それがアゼルに対してだからなのか、それとも誰に対してもそうなのかは彼が知ることは出来ないけれど。
「物事には始まりと終わりがある。それはどれも劇的、というわけではなく、始まりにふさわしい終わりがあると決まっているわけでもない。それでもなんだか」
こんなにたくさん自分に話すアイラを初めて見るな、とアゼルは思う。
アイラは美しい口元をきゅっと引き結んで、無理矢理言葉を終わろうとしたけれど、それからまたためらいがちにアゼルに最後まで言う。
「こんな終わりでは、ないような気がした。みな、ほっとしている様子だ。わたしもほっとした。なのに、ここがなんだかもやもやしていて・・・」
そういいながらアイラは胸元にそっと手をあてた。
「馬鹿だな。嬉しいことなのに。戦いは終わったし、グランベルは非を認めて、わたしやラケシス、そしてレヴィンともそれぞれ会見の場を設けたいといってくれているのに。それは素直に喜ぶべきことだろう」
「そうなんだ?」
「ああ。蛮族と言われていたイザークの人間を正しく一国の者として扱ってくれるのは、とても喜ばしい」
なのに。
アイラの表情はそう告げていた。やがて、アゼルが自分をじっと見つめていることにアイラは気付いて、僅かに表情を緩和させ、小さな笑顔を見せた。
「喉が渇かないか?何か飲み物をもってこよう」
ああ。
アゼルはそのアイラの表情を見て、なるほど、レックスがアイラのことを好きなのもわかるな、なんてことを突然思う。
思えば今まで、こんな風にアイラが自分に対して女性らしい振る舞いをするところを見たことがなかった気がする。
もちろん、レックスの恋の始まりはそういうところからではなかったが、今のアゼルが感じたように「そういう気遣いも出来るのだな」とアイラのことを見直す感覚はあまりに新鮮だ。アゼルはついつい、女の人というものはどうしてそういう駒をみんな持っているのだろう、と不思議に思う。あの、みんなから「能天気」なんてことを言われるティルテュがもっている、女性らしいか弱さを自分は知っていて、そしてそれが限りなく愛しいと思える。多分、女の人はみんなそういう面を持ち合わせていて、男はそれを垣間見たときに更に深い恋に落ちるのに違いない・・・。実際、今アゼルが考えているそういったことは本来男女関係なく、女性側だって男性がふと見せる普段と違う弱さや強さ、優しさなりに心を揺さぶられるものだが。が、とかく男というものは女性よりもいっそう異性の意外性を好むきらいがあるのも事実だ。
「飲み物は何がいい?」
「うん・・・あまり甘いものは欲しくない気分だから、水でいいや」
「わかった。今もって・・・」
とアイラが言った瞬間、コンコン、と小さなノックの音がした。
「レックスか」
それに対して即座にドアの向こうの人物がわかるアイラはそう声に出した。そして出してから、しまった、なんて自分は恥ずかしいことを言ったのか、と気にしたらしく
「いや、レックスが、あとで来ると言っていたから」
なんて言い訳をする。
そう言われればなおのこと「ノックの音だけで本当はわかったのだろうな」なんて気になってアゼルはにやにやと複雑な笑みを浮かべた。そんな言い訳をするアイラを見るのも初めてだ。
「入るぞ・・・お、アゼル、気がついたか」
かくして、アイラが言う通り、入ってきた人物はレックスだった。手には涼しげなクリスタルガラスの水差しを持っている。
彼は未だに室内着に着替えていなかったから、どうやらヴェルトマー城に入ってもまだアイーダと話し合いが続いていてばたばたしていたのだろうということがアゼルにもわかる。
「これ、エーディンがもっていけって」
「ああ、ありがたい。さすが気が利くな」
そう言ってアイラは水差しとグラスを受け取って早速アゼルのために水を注ぐ。
「レックスが気をきかせてもってきたなら、かなり上出来だと思っていたが」
その物言いにアゼルは噴出した。
「おまえ、失礼な女だな!」
「そうか?」
「そーだよ!」
「まあ、例えそうでも今に始まったわけではないのだろう。アゼル、はい」
「あははは、ありがとう」
まったく、という顔をしてみせてからレックスはドアにもたれかかってアゼルに話を始める。
「明後日の朝ここを発つことになった。バーハラで凱旋式をやるんだと。お前の兄上殿がそれを取り仕切ってくれるらしい。凱旋式後にシグルド公子、クロード神父、ラケシス姫、ジャムカ王子、レヴィン王子、それからアイラ王女。それぞれと会見をするとさ。それはあちらにいってからの話らしい」
「そう」
「とりあえず今決まってるのはそんなくらいのことだ・・・もう少し休んだほうがいいぜ。トールハンマーの威力は骨身にしみただろ」
「うん、かなりのものだった」
けれど本当に骨身に染みているのは体の痛みではない。
アゼルは一気に現実に引き戻され、再びレプトールのこと、フリージ兵のこと、ティルテュのこと、自分のこと・・・それらを考えずにはいられなくなってしまい、眉根を寄せた。
「起きたら何がどーなってるのかもっと詳しくシグルド公子に聞くといいぜ」
それはアイラが言っていたことと同じだ。アゼルは頷く。
「もう少し休ませてもらうことにするよ・・・僕が休むにはうってつけの場所だしね・・・勝手知ったる、ね」
「お前の城だしな、ほんとは」
「レックス」
アゼルは違うよ、という顔を見せるけれど、レックスだってそんなことはわかっている。アイラは二人のやり取りについては特に口を挟まないで静かに待っている様子だった。
「俺、この部屋のふたつこっち隣に部屋をもらったから。この隣はクロード神父がいる。あっち隣はえーっと、確かレヴィンかな。起きたら誰かしらいると思うぜ」
「わかった、ありがとう」
「何かあったら呼んでくれ。サンキュ、アイラ」
「いや」
レックスのその言葉で、やはりアイラにアゼルの看病を頼んだのはレックスだったのだ、とアゼルにはわかった。
多分、彼の心優しい親友は、アゼルにはこのヴェルトマー城に対していい思い出があまりないこと、けれどヴェルトマーの血をひくアゼルが戻ったとなればもしかしてわずらわしいアプローチが城の人間からされるのではないかという懸念があって、アイラをつけてくれたのだろう。アゼルがシグルドのもとにいくことはアルヴィスは承知していたことだ。それでも結果、反逆者の一員としての汚名を着ていたアゼルに対してヴェルトマーの人間は色々思うところもあるに違いない。今、この城にアイーダ以外に誰がいるのかはよくわからないけれど、出来れば誰とも会いたくない、とアゼルは思う。
まあ、これはまた別の話になってしまうのだが。
とにもかくにも、レックスはアイラを連れて部屋から出て行った。ということは、あまりアゼルに害をなす人間がここにはいない、とレックスがふんだに違いない。
もう自分は子供ではないから、どんな憎まれ口を誰に利かれてもいいとは思っているけれど、なんだかほっとしている自分に気付いてアゼルは自嘲気味に笑った。
が、今はそんなことを考えている場合ではない。
ベッドで体を横たえて、アゼルはぼんやりと考えていた。今までのことこれからのこと。そして。

物事には始まりと終わりがある。それはどれも劇的、というわけではなく、始まりにふさわしい終わりがあると決まっているわけでもない。それでもなんだかこんな終わりでは、ないような気がした。

アイラの言葉を。
何故か、自分もそれに同感だ、とアゼルは思わずにはいられないのだ。
窓に目を移すと、そこにはどんよりとした空が広がっていた。が、もう明らかに砂漠のフィノーラ城で見ていた空とは違う、これは自分が知っているグランベルの、ヴェルトマーの空だ。
「一雨きそうだな・・・」
そういう予想も、自分が生まれ育った場所ならではのことだ。
物事には始まりと終わりがある。アイラのその言葉はとても良い言葉だと思える。
少なくともアゼルには「終わった」と感じられない。・・・それは、後味の悪い形でレプトールを倒したからだろうか?
まだ疲れのために頭の中がクリアにならない。アゼルは肌掛けをかぶって、瞳を閉じた。

「雨が降ってきた」
アイラは窓辺で暗くなった空を見ながら呟いた。
「ここいらではめずらしいな」
「そうなのか?」
「多分」
ようやく落ち着けた、とレックスは服を着替える。
彼らはもちろん日常の品を持ち歩いているわけではないから、服などもヴェルトマー城にある賓客用のものを勝手に使わせてもらうだけだ。レックスも実はヴェルトマー城のことは案外とわかっていたものだから、それに躊躇はない。
「なんだ、アイラ、うかない顔だ」
ふと、窓の外をじっとみている自分の愛しい恋人・・・少しばかりレックスも古い考えがある男なのか、正式に式もあげずに妻と呼ぶのは躊躇がある。ならば先に子供が出来るのもどうかと思うのだが・・・が、どうも物思いに沈んでいる様子なのに気付いて声をかける。シャツのボタンを締めているレックスをアイラは振り返ってぼそりと呟いた。
「・・・なんだか、違う気がして」
「何が」
「こんな終わり方ではないような、気がする」
「なんでまた、急にそんなことを言うんだ」
レックスはそれでも、なんとなくアイラが言いたいことがわかる気もした。いや、誰もが納得出来ない気持ちを心に抱えているのだということぐらい、彼らにだってわかってはいた。
おかしい。
自分達が「こうだったらいいな」というハッピーエンドにとても近い状態で話が進んでいるのに。
なのに、この後味が悪い気持ちはなんだろう。
「でも、こんなもんだろ・・・俺たちだって、突然反逆者扱いされて・・・それと同じ。なんだって突然始まって、なんだって突然終わるんだと俺は思うけど」
「そうじゃなくて・・・」
恋愛とかそういうものではないから、理由がなく始まるものなんてない。ただ、理由はあるけれど、理由を知らずに巻き込まれる人間がいるということも間違いではない。理由があって始まったけれど、知らずに巻き込まれてしまったのは彼らだ。そして、突然ではあっても前振りがあってこの件については収まりがつくように思える。
「なんでも思ったとおりの終わりになるわけじゃない」
「そうじゃない」
それでも、何が、とアイラはうまく言えずに口篭もった。
ただ思うのは、何かが空回りをしているような気がする。
それは、フィノーラへ駆けつけて、そしてバーハラまで一緒に攻め上がってきたけれど、結局何も自分が役にたっていないから、とかそういった単純なことなのだろうか?
「レックス」
「うん?」
「・・・どうも、今はわたしは冷静になれない・・・これで、本当にわたしはイザークの王女としてグランベルの王と会見をすることになるのか・・・?」
「そうだろうな。その覚悟はあったんだろう?」
「もちろんだ。でも、何か・・・」
何かおかしい。だから、どうしても気分がのらない。
レックスは窓辺で立ち尽くしているアイラを見つめた。
アイラの後ろには窓から暗い空が見え、ぽつりぽつりと窓に雨が当たっている。一気に空は暗くなり、室内も薄暗さを増した。まるで夜がやってきたような感覚すら覚える。灯りをつけようか、とレックスが動こうとしたときにアイラの次の言葉が出て来て足を止める。
「例え、これが正しい終わりだとしても、誰も戻っては来ない。それは知っている。残された人間がしなければいけないことは、過去の過ちを繰り返すことを防ぎながらこれからのことを考えることだ。レックス、すまない、わたしはどうも、グランベルのやり方が気に入らなくて苛立っているようだ」
「グランベルのやり方?」
「グランベルにはグランベルの事情があるのだろう。だから例えレプトール卿の策略を知っていても、アゼルの兄君は動けなかった、だから仕方がない・・・ああ、そうなのだろうな」
「アイラ」
「そして次はバーハラに来いと。ああ、確かにわたしは行くつもりだった。けれど、わたしには」
「・・・」
「どうしても、まだグランベルが。自分達が何をしてしまったのかをよくわかっていないように思える。王が病床にあるという話も聞いた。それでも、わたしは」
アイラは深い溜息をついた。
「ああ・・・レックスがいると、わたしは言葉に出来る・・・それは嬉しいけれど、こんなに申し訳ないことだったのだな」
話の途中でも、それは忘れないうちに伝えたいことだったのだろう。レックスは、今アイラが話をしていることが、恋人だからといって茶化したり流したりはいけない、とても大切なことだとわかっている。着替えを終えてもレックスは椅子に座ることなくベッドに腰掛けることなく横たわることなく、アイラをじっと見つめていた。
「・・・わたしの父は、リボーの人間がターラを襲ったという連絡をうけ、族長の首をもってグランベルに向かった。イザークはグランベルに比べて小さく、そして辺境の国だ。けれど、一国の国王が、国の命運をかけての謝罪のために自ら他国へ足を運ぶ、その意味がわかるか。グランベルに同じことをしろとはいわない。クルト王子も遠征にいったぞ、なんていう話は意味合いが違うから、引き合いに出さないでくれ」
語調が荒いな、とレックスは思いながらアイラの言葉を聞いていた。
「身内びいきといわれても構わない。国によってやり方が違うことも重々承知の上だ。それでも、わたしは、どうもグランベルの言い分はグランベル流すぎて・・・。文化が違う他国に対するわきまえに欠けるように思える。これが、グランベルにとっての最大の誠意なのか?わたしには」
アイラは泣きそうな顔をレックスに向けた。
「謝ってやるから、バーハラまで来い、といわれているような気がする。人の謝罪の気持ちを疑うことはとても嫌なことだ。それでも、わたしには、そう聞こえるんだ。もっともらしい言い訳をたくさん並べられて、わたしの理性は納得しようとしている。なのに、どこかで・・・すまない、レックス」
レックスは手を伸ばしてアイラを引き寄せた。それは別に、そうすることでアイラが落ち着いて、そんな思い込みをなくすことが出来るのではないか・・・そういった安直な行為ではない。
「謝らなくていい。最後まで言えよ・・・」
「感情では、納得出来ない。じゃあどうすればよかったのか、と自分で考えたって答えはない。それでもやっぱり」
アイラはレックスの肩にそっと額をつけて、彼の大きな背中に腕を回した。
「大国のおごりを感じずにはいられない。けれど、わたしは頭があまりよくないから、どうしていいのかわからないし、イザークにとっては何をすればいいのか、今、どうにも答えが出ないんだ」
「そうか」
レックスは自分の肩に顔をうずめるようにしているアイラの頭にそっと頬を寄せた。時折こんな形でアイラがレックスに抱きつくとき、ときどきレックスの鎖骨が鼻に当たって痛い、と彼女は言う。
それにレックスが気付かずに無理に力をこめて抱きしめて、「いてて」と声をあげ、顔の位置をずらすアイラがいとおしい。
が、今のレックスにとって、腕の中の女への愛しさは、何の解決も与えてくれないのだ。
「そうか」
もう一度繰り返す。
そう呟くことで、アイラが言っていることを非難しない、という意味合いを彼女に伝えられることをレックスは学習していた。
ぽつぽつと窓を打つ雨。
遠くで稲光が走る姿が見えて、レックスはアイラの背に回した腕に少し力をこめた。
いつもならば「痛いだろ」とアイラが答えるほどの力だったけれど、彼女は少しばかり体をよじってずらしながらも、レックスの体に強くしがみつく。そんな怯えたような仕草は、レックスにとっても初めて見る動きだ。
「お前は苛々してるんじゃない・・・なんだか、怖いんだろ」
「え」
「お前は、怖いんだ」
「何が」
「・・・なんだろうな。それはまた、俺にはわからない」
「レックスは相変わらずわたしのことを知っているくせに、知らないのだな」
それはまるで、心が通じ合う前に何度も何度も繰り返した問答のようだ。
アイラはレックスに好意を寄せていた自分に気付かず、レックスはそれに気付いていた。アイラが自分でわからないことは、レックスの方が知っているのだろう、とアイラ自身信じていた、なんだか妙な信頼関係がこの二人にはある。けれど、いつだってすべてをレックスが知るわけではない。
今だって。
アイラが何かに怯えていることを知りながら、それが何なのかレックスにはわからない。いくつも想像は出来たけれど、そのどれもが当たっていてそのどれもが間違っているような気がして、レックスはアイラに答えを与えることが出来ないのだ。
あっけない幕切れに、やりきれない気持ちがあるのだろう、とか。
アズムール王との会見をすることで、「見届ける」ためにきたアイラが「事を成す」人間になることを恐れているのだろうか、とか。
考えればいくらでも候補はあがってくる。
けれど、どれも漠然としていて。
「俺は、阿呆だな」
「何故」
「お前が、グランベルのことを非難してるのにさ。国民のくせに、すまない、と謝罪する気持ちもなければ、そんなことを言うな、と憤慨する気も起きない」
「・・・」
「ただ、お前が」
ん?とアイラはレックスの腕の中で顔をあげた。
「イザークの王女として果たさなければいけない役割に、押しつぶされないといいな、なんてことしか考えていない。汚名が晴れてよかった、とかレプトールが死んで、ティルテュは可哀相だ、とか、これで子供の顔を見にいけるな、とか、そういったこと全部ひっくりかえるくらい、お前のことばっかり考えてる。まったく、俺は阿呆だ」
「レックス・・・」
「親失格かな」
そこでアイラは笑おうとした。けれど、彼女の口元はうまくあがらずに、彼女なりにレックスを安心させようと思う表情をつくることを許してはくれなかった。
「レックス、教えてくれ」
「うん?」
遠くで、また稲光。それは薄暗い室内にわずかな光を与える。
「冬の終わりを告げられたら、次は春というものくるのか」
「そういうことになっているな」
「本当に?」
「ああ」
外で鳴る雷。それはまるでトールハンマーの光に誘われて、この地に遅い春を告げに来たかのように思える。
春雷なんてものを、アイラも知っていたのか、とレックスは少し意外に思った。自分がそんな話をしたことがあっただろうか、それともイザークにもあるのだろうか、と思い出そうとしているけれども頭がどうにもこうにもうまく動かない。
(俺も、同じか・・・)
今のレックスにはアイラがなぜ怯えているのか、そして自分がどうしてこうもすっきりした気持ちになれないのかも答えを出すことが出来なかった。だって、自分はノイッシュにだってアゼルにだって、これでグランベルに戻れる、今までの苦労が報われた、よかった、という意味の言葉を口から発することが出来なかったではないか。
苛々しているのは、俺の方だ・・そう思ったとき。腕の中の愛しい女は、ぽつりと呟いた。
「冬の次に春がくると、誰が決めたのだ」
それくらいの答えは、簡単に出る。子供にも通用しそうな答えをレックスは返した。
「神様だろ」
「そうか。神様は信じられると、誰が決めたのだろうな?」
「・・・神様に会ったことがある人間だろ」
ならば、自分達が信じられず、そしてなんだか未だに冬の最中にいるような気がするのもあながち間違いではないのだろうか?
突然降ろされた幕の向こうが、本当に不明瞭なものだということが彼等の心にどんよりとした薄いもやを広げている。
確かに冬は終わったのだろう。
春雷をみながら、アイラを抱きしめながらレックスはそんなことを考えていた。
けれど、春がくるのだろうか?
アイラの問いかけはとても馬鹿馬鹿しくて。
そして、レックスの脳裏に何故だか深く刻み込まれるのだった。


Fin

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