祈りの狭間-1-

雲が柔らかな風に吹かれて少しずつ少しずつ動いている。
こんな穏やかな日くらいはせめて、この世界の全ての場所、全ての人々のもとに諍いが起きずに平和な時をすごせるように約束をしてくれてもいいと思う。絶対的な神というものがこの世界にいるとすれば。
執務室の窓辺に立ちながら、アルヴィスはそんなことを考えていた。
冬の間に使用していた贅沢な織物を使った重いカーテンを彼はあまり好きではなかったけれど、春の訪れと共に変えてもらった、薄紫色の柔らかな布地をふんだんに使ったカーテンは好ましいと思っていた。
彼はそれが自分にはあまり似合わない色だと知っていたけれど、着用する衣類ではないのだから構わないと思っていた。
何より、時々この場に訪れてくれる、彼が今大切に思っている女性に似合っていることが喜ばしいと思えた。色も、素材も。
そういったことをそれまでの人生で自分から思いつくような人間ではなかったことを彼は自分で良く知っているし、らしくない、ということも重々承知だ。
らしくないことをするのは見苦しい。
それでも、目の前でカーテンをいくつも並べられて選べと言われてはどれかひとつを選ばなくてはいけなかった。
だからそれを選んだ。選んだ後から、何故それを選んだのかを理解して、心の中で呆れた。
そうか、自分は彼女のことを好きなのか。
どんな阿呆でもここまで間抜けではないだろうとアルヴィスには思えて、そんな自分へ失望すらおぼえた。もちろん彼はそれを他者にいうような人間ではない。
「まったく・・・どうかしている」
綺麗に折りたたまれて窓の両脇にぴっちりと止められているカーテンを見て、口端を軽く歪めた。自嘲ともとれる表情だ。
それから椅子に腰掛けて、途中まで読んで放ってしまっていた書類に目を通す。
やらなければいけないことは山ほどあった。
表の仕事でも裏の仕事でも、朝から晩までアルヴィスは忙しい。
残念ながらレプトールとてそれなりの仕事をしていたわけで、シグルド討伐のためにレプトールがバーハラを離れたことによってアルヴィスにその分の責務がすべて乗っかってきたことは事実だった。
もう少しやらねばな・・・そう呟いて、次の書類に手を伸ばす。
元来彼は才覚に溢れた人間だったが、努力や忍耐というものを知らないわけではない。
ひとつひとつの仕事を丁寧に仕上げなければ、後からまた同じ問題が蒸し返すという真理もわかっていた。だからこそ手を抜くことがなかなかできず、こんな晴れた日でも机に向かっていなければいけないというわけだ。
そのとき
(アルヴィス様)
頭の中で名前を呼ばれて、アルヴィスはぴくり、と眉根を寄せた。
もともと感情を簡単に外に表す性質ではないけれど、こと今回の件に関しては出来るだけ感情を抑えようと努めていた。それでも、このように思考を中断されることはどうしても嫌悪の対象となる。彼だけではなく多くの人間達にとって、自分の頭の中は自分だけの世界でなくてはならない。そこに五感をひとつも通さずに他者が介入してくる不快感はなかなか慣れないものだ。
自分が険しい表情を見せたことに気付いて彼は小さく息を吐いた。
まだまだ、自分は青い。
どうしても体が「気持ち悪い」と拒絶をしている。
ファラの血を引く彼は、自分の魔力にはそれなりの自信があったし、その生まれ育ちの境遇から自らを抑制する術を幼い頃から見につけていた。だからこそ尚更、いつまでたってもこの感触に慣れない自分に苛立つことを彼は理解していた。
「姿を現せ」
「はっ・・・」
執務室の隅に黒い塊が現れた。いかにも魔導士らしいローブを身に纏っている。あまりにそれらしい恰好は逆に笑いを誘う。滑稽だな、とアルヴィスは思った。
「どうした」
「アイーダ様より」
「ああ」
「フリージ兵の遺体回収を終えたとのご報告です。投降した兵士人数を合わせて、全員の所在確認が出来たそうです」
「そうか・・・」
苦々しくアルヴィスはそれだけ言葉に出した。
魔導士は続けていくつかの報告をして、アルヴィスの確認を受け取るとまた姿を消す。
彼らはもっぱら暗躍するための能力に秀でている。アルヴィスはそれに対しては素直に感嘆の気持ちを抱いている。
残念ながら自分達の力だけでは、こういった優れた能力をもつ魔導士を養成出来ないのが現状だ。
最初はそれを残念に思ったり不甲斐なく思ったけれど、よくよく考えればそんな力を必要としないこと、そのことが正しいのだと思える。
彼らの報告を聞いて重苦しい気持ちになるのはいつものことだったけれど、今日は一段と苦々しい。
時が近づくことが、待ち遠しいと思う反面、恐ろしいと思える。
「何を惑うことがあろうか」
椅子の背もたれに体を委ねて、アルヴィスは呟いた。
と、まるでそれを見計らったようにノックの音が室内に響く。
「誰だ」
「アルヴィス様、ディアドラです。お仕事中とは存じますが、ほんの少しのお時間をいただけませんか」
穏やかで、少し儚げな女性の声。彼の名を少し控えめに発音する。
それは彼の耳にとても心地よく響く。
「・・・ああ」
そうだ、彼女は、自分に敬称をつけて呼んでいて、それを止めさせようと何度試みたことか・・・。
そんなことを思いながらアルヴィスは椅子から立ち上がった。

ヴェルトマー城でシグルド達が滞在したのはほんの二泊、滞在日数で言えば僅か一日半のことだった。
レプトール率いるフリージ軍との交戦を終え、その晩体を休めた彼らは、翌日にはもうバーハラへと向かう準備をする必要があった。
シグルドはアイーダとクロードと3名で二日目も話し合いの時間を割いていたため、仲間達にバーハラ行きの指示を出すことがなかなか容易ではない。代わりに、この地に詳しいレックスが行うことになっていた。アゼルは明日のバーハラ行きに備えて、未だ体を休めているところだったからだ。
グランベルのこのごたごたが収まるまでは、あまり城下町の人間に不安感を与えないように、出来るだけ城から出ないように、出るとしても身分を明かさないようにとアイーダからの申し出があったため、その多くの準備はレックスに頼んで、ヴェルトマー城の人々から物資を用意してもらう、という流れで行われた。
城下町にあまり出るな、ということに不信感を抱くものもいたが、この国の揺らぎ方を思えばアイーダの配慮もわかるだろう。それについ先日までは自分達の国の宰相だった人物を受け入れていたヴェルトマー城に、今は反逆者とされていた、宰相を倒した軍勢が駐屯しているなどといえば、余計な曲がった噂話がひっきりなしに飛ぶに違いない。
それらのことは、バーハラでの凱旋式が行われてから公に出来ることであり、今のアイーダの立場からすれば判断しかねるところだった。どちらにしても長くは駐屯しない地に迷惑をかけるよりは、とシグルドはアイーダの申し出を受け入れたのだが。
「ふうー」
シグルドは疲れたように深く息を吐いて、ヴェルトマー城の一室でソファに深く腰をおろした。
午前中にクロードと共に再度アイーダと話し合って、それから昼食をとって一休みをしたところだ。
探り合いは疲れると思う。
アイーダのことを信用していないわけではないけれど、完全に信用をしたわけでもない彼は、申し訳ないと思いつつも様様な角度から彼女に同じ意味を含む質問を繰り返し、彼女の答えを繰り返し聞いて分析をしていた。
(さすが、といおうか・・・)
彼女がとても聡明な女性だということはシグルドも風の便りでは聞いていた。正直なところ、シグルドは彼女のことを個人的にはあまりよくは知らない。あくまでも噂だけだ。けれど、その噂どおりの人間であることを見せ付けられている。
その噂というものは、好意的なものも悪意的なものも両方あったけれど、非常に聡明で実行力がある女性だということだけはどちらの噂からも伺えた。悪意が含まれた噂ですら長所を伝える、というのは稀なことだ。
(さすが、アルヴィス卿が見込んでいらっしゃるだけはある)
アイーダの受け答えは完璧だった。
それはシグルドも認める。
けれど、その完璧さが少々鼻につかないわけではない。
用意してある答えだけを繰り返している印象を受けているわけではない。アイーダは都度、彼女自身の頭でシグルド達の質問を理解し、考えて、答えを出している。
それでは、何が気になるのだろうか。
「疑心暗鬼になるものだな。昔はそうでもなかったのだけれど」
人間な変わってしまうものなのだろうかな。
シグルドは自嘲気味に笑った。
どうやら本当にバーハラでは凱旋式が行われることになり、シグルド達を待っているらしい。
今までの汚名は晴れるときが来たのだ。
その反面シグルドの気分は晴れない。
体の疲れから来るものだと最初は思っていた。
けれども彼は、息子セリスのことや、イザークに逃げ延びたセリスやオイフェのことをまだ口にしないでおこう、とそればかりは頑なに守ろうとしていた。それは、疲れているから必要最小限の話だけしかしたくない、ということとは違う。間違いなく彼の意識の中では「それはまだ言うべきことではない」という決断を下しているのだ。
が、一体彼に何が「待った」をかけているのか。
それを知ることが出来ないもどかしさで、少々シグルドは苛立ちを覚えていた。
瞳を閉じると体のだるさが一気に吹き出てくる。
オイフェがイザークにいってからというもの、フィノーラ城でもそうだったけれどシグルドは与えられた部屋でこうやってぐったりとすることが少し増えた気がする。もちろんそれは、単純に今までオイフェがしてくれていたことを担う人間がいないから、ということもそうだったけれど、父を、妹を、親友をも失ったショックから未だに立ち直っていないことも要因の一つだろう。
シグルドは自分の左瞼が痙攣を始めたことに気付いた。
以前ならばそうそうこんな形で体が疲れを教えてくれるようなことはなかったのに。
指で抑えても抑えても、それはびくびくと、まるで心臓が血液を送り出そうと絶え間なく動いているように、彼の意志とは裏腹に動いている。そうだな、疲れていると「体が言うことを聞かない」というものの、初めから自分の意志で動かせる場所など限られているのだ・・・シグルドはそんなことをふと思う。
自分の意志とは別の場所で、自分の体の細胞は勝手に自分を生かすため、働いている。
健気だ、とシグルドは思った。
生きるということは、なんと健気なのだろう。
意識もされない場所が、そのために休むことなく動きつづけているということを考えると愛しさすら覚える。
死んでいったたくさんの人々の全ての体が、みな生きるためにこんな健気に働いていたということを、生き残った人間は気付いてあげなければいけない。例え、それが謀略を謀った人間だとしても。
「・・・誰ですか」
ノックの音に反応して、シグルドは答えた。
ヴェルトマー城の人間かもしれない、と思うことが、彼の語調を柔らかくした。
「大将、ベオウルフだ。お疲れのとこ、悪いんだけど、ちっと話を聞いてくんねえか」
「ベオウルフ!?」
シグルドはソファから飛び起きて、慌ててドアに近づいた。これは予想外の人間がやってきた、といったところだろう。
ドアを開けると、いつもと変わらず、少しにやついたベオウルフが立っていた。
「よ、ひでえ顔してるぜ」
「そうかい?顔色、悪いかな」
「そうじゃない。顔色じゃなくて・・・冴えねえな、と思って。いい男が台無しなくらい疲れている。目がきちんと開いてないみたいだ」
「ああ、安心したのか一気に疲れが出た感じがする」
「それもそうか」
ベオウルフは勝手に中に入ると、どっかりとソファに座った。
「いい部屋もらったんだな」
「そうなのかい?」
「俺の部屋はせまっ苦しいぜ?ま、別にその方が俺には都合いいんだけどよ。ご身分とやらに合わせてくれたんじゃねえかな。ま、それは多分あの赤い髪の女が知らないことだと思うんだけど」
「どうしてそう思うんだい?」
「さあ、どうしてだろう?勘ってやつかな」
多分それは当たっているのだろう、とシグルドは思った。もちろんそれも彼の想像の域を越えないけれど。
アイーダであれば、現在のシグルド軍は誰彼かまわず、バーハラでアズムール王が待っている客人として扱ってくれる、そんな気がした。けれど残念ながら身分によって客室ですら振り分けをするのは非常にグランベル式だと思える。
シグルドはベオウルフの向かいに座った。
「で、どうしたんだい」
「うん?いやあ・・・行きたくないんだけどよ、バーハラまで、ご一緒していいかな、と思って」
「もちろん構わないよ。何を言い出すんだ」
「いや、俺は傭兵だからよ、これ以上ここにいる意味はねえんだ」
それは確かに間違ってはいないことだったけれど、だったらラケシスやデルムッドはどうするんだ、とも思う。まあきっとそれを話そうと思って彼は来たのだろうな、とシグルドは黙る。が、次のベオウルフの言葉にシグルドは瞼の痙攣すら忘れて驚きの声をあげることになった。
「でもまあ、仕方ねえ。一応、あのお姫様が雇うってんだから」
「・・・はあ?」
「ラケシスが、俺を雇うっての」
「何の話だい?」
「大将、ちゃんと聞いてるのか?ラケシスが俺を雇うから、バーハラまで一緒に行くことになったんだよ」
「・・・雇うって」
「闘技場で稼いだ金を、ばらまかれたよ」
ベオウルフはくっく、と喉を鳴らして笑う。けれど、その表情は明るくはない。
まったく話が見えない、とばかりにシグルドは呆然と目の前の傭兵の顔を見る。
「仕方ねえ。俺は、ラケシスの子供の、父親なんだからな。バーハラに行って、そんであの女がデルムッドを迎えに行くまで雇われる義務とやらがあるらしい」
「君はそもそもどうする気だったんだい」
「さあな」
シグルドはじっとベオウルフを見た。その視線の厳しさにやれやれ、と彼は肩をすくめる。
「とりあえずな、女ってのは、ちっとは馬鹿な方が、いい」
「・・・ラケシスは?」
「だから、よ。自分のガキの父親に、金投げつける女なんざ、馬鹿に決まってる」
「・・・」
「でも、そこまでさせたのは、俺の責任だ。それは間違いないだろ」
「なんだ、つまるところ、それは夫婦喧嘩か」
「夫婦?あんたもふざけたことを言うんだな」
「ふざけていないよ・・・うらやましいくらいだな」
そのシグルドの言葉にベオウルフは一瞬息を呑んで、それから
「謝らないぜ?別に俺とラケシスは夫婦じゃないしな」
「じゃあ、一体何なんだい?」
「さあな」
そう答えてから、この傭兵はふうー、と息を深く吐いた。彼にしてはめずらしいことだ、とシグルドは思う。
「大将」
「うん」
「エルトシャンは、いい男だった。いい男だが、馬鹿だった」
「君から見ればそうなんだろうね」
「妹は、良く似ているな」
それは。
ラケシスがいい女だ、という意味なのだろうか、とシグルドが眉根を潜めたとき、ベオウルフは立ち上がった。
「ってなわけで、バーハラについていくぜ。よろしく」
「ああ、こちらこそ」
「俺は気乗りしねえんだけどな。やっぱりグランベルはどうにもこうにも、俺の肌に合わない」
そう言うと、それ以上は礼もせずに不躾にベオウルフは一度も振り向かずにさっさと出て行く。
シグルドは、ばたり、と閉まったドアを見つめながら、下世話とは思いつつもベオウルフとラケシスの間にどういったやりとりがあったのかを想像してしまう。
きっと、ベオウルフは、ラケシスを愛している。
それを言葉に出来ない恋愛というものは、苦しくないのだろうか。そんなことを思いながら。

「・・・どうした、ブリギッド」
慣れないヴェルトマー城の外にある水汲み場でブリギッドがうずくまっている。たまたまとおりがかったアイラは驚いて駆け寄った。
「ブリギッド」
「・・・なんでもない・・・」
「眩暈でもおこしたのか?」
そう問いかけながら、アイラはちょっと鼻につく異臭に気付いた。
「吐いたのか」
「少し。すまないね・・・大丈夫だから」
顔色はそう悪くはない、と思う。ブリギッドは口を何度かゆすいでゆっくりと立ち上がった。
「・・・子供か」
「そのようだね」
あっさりと聞くアイラに対してあっさりとブリギッドは答える。
この女性も話が早くて助かるな、とアイラはちょっとだけ声を出して笑いそうになるのをこらえ、それでも笑顔を見せた。
「おめでとう」
もちろん、相手が誰なのか、なんて馬鹿げたことは聞かない。デューに決まっている。
出会った頃は少年だった彼も、今ではすっかり大人びている。別段それは驚くべきことではなかった。
ブリギッドは気分が悪そうに、それでも精一杯アイラからの祝辞に答えようと、ちょっとだけ歪んだ笑顔をむけた。
「ああ・・・ありがとう。おかしなもんだ、昨日の戦闘中まではなんともなかったのに、この城に入って・・・ああ、厨房あたりで料理の匂いを嗅いだ瞬間、吐き気がして。昨日から何度か吐いてるんだけどさ」
「そうか。重くないといいんだけれど」
「頭痛もするんだよ」
「デューは知っているのか」
「いや・・・でも、具合が悪いことは知っている。きっと、もう予測はしてるんじゃないかな」
「ふむ。一応医者に」
「間違いないと思う。干し魚の匂いで吐いた」
この地は海からあまり近くはない。魚などという食べ物は、干したものが時折手に入るくらいで逆に貴重な珍味ともいえる。
けれども海賊として育ったブリギッドは魚は生のものだろうが焼いたものだろうが、港町で売っている干したものだろうがなんでも来いだ。だというのに、ということだろう。
「アイラはつわりはどうだったんだい」
「わたしは軽かった。ラケシスは重かったようだけれど。エーディンはどうだって?」
「あの子は比較的軽かったようだね・・・」
「ラケシスの話を聞きに行くといいかもしれない」
「そうだね。でもあたしはあんまりあの人とは仲良くはないんだけど」
苦々しそうにブリギッドはアイラを見る。
それはアイラも知っていた。別に好きとか嫌いとかではなく、個人的に話すことがない、ということだ。
残念なことにブリギッドがシグルド軍に加入した頃は、ラケシスはもっとも精神的にダメージを受けている時期だったから、ブリギッドにしてみればラケシスの印象は悪い。ラケシスはラケシスで誰に対しても自分から歩み寄る、ということが出来ない、同性の交友関係については多少臆病な人間だったから尚のことだ。
「わたしも別に仲良くないが」
「アイラがあの方と仲がよくないんだったら、誰があの方と仲がいいんだい?」
「・・・ベオウルフ?」
その答えにブリギッドは笑い出した。確かに間違ってはいないが、ある意味では限りなく間違った回答だと思われる。
アイラとブリギッドは肩を並べて、馴染むことの出来ないヴェルトマー城の中に戻っていった。

ブリギッドの懐妊は明らかで、そしてまた、彼女のつわりはどうも重いらしいということが判明をした。
ラケシスに話を聞いている最中、頭痛がするといって彼女は途中で退出をする羽目になってしまったのだ。アイラは自分のときは、軽い嘔吐感に悩まされるだけだったので、ブリギッドの辛さはわからない。
とりあえず彼女がしなければいけないことは、デューと共にこれからの身の振りを考えることだ。
本来ならばブリギッドとデューはバーハラに行ったのち、ミデェールと共にユングヴィに行く予定を立てていた。
それは前々から思い描いていたことだ。
ミデェールの力を借りて、ユングヴィ新当主としてブリギッドは出来るだけのことをやっていきたいと思っていた。正直、自分は城生活などに向いていないことは百も承知だったけれど、エーディンはジャムカと共にレスターを迎えに戻り、そして今度はヴェルダンに行かなければいけない。その彼女の希望を叶えてあげたいとブリギッドは彼女なりに思っていた。デューが共にいてくれることが彼女の勇気にもなっているのだろうし。
それに、アンドレイを裁いたのは、ブリギッドだ。既にその事柄が、彼女が正しくユングヴィの当主となるべき人物であることを人々に認めさせることになるだろう。
とはいえ、つわりの重い時期に動くのは正直いただけない、とラケシスは言った。
ラケシスはシレジアにいる間にほとんどその時期を越していたから、つわりそのものが重くてもなんとかなった。彼女は吐き気のみならず、今日のブリギッドのように頭痛にしばしば襲われて相当の苦労をしていたのだが。
現実的に考えると、ブリギッドが明日みなと共にバーハラに向かい、凱旋式に出ることは難しいと思える。
「ま、とはいえ数日待てば治るっていうものではないものね」
ラケシスは部屋に残ったアイラにそう言った。アイラは窓辺に背をもたれて立っている。
腰が沈みすぎてここのソファは気にいらない、といったっきり彼女は立ったままだ。ラケシスはそれに対してはくすくす笑って、リューベック城のカウチを持ってくれば良かったのにね、と軽い皮肉を言うだけで無理矢理椅子を勧めたりはしない。
「そうだな。どうすることが一番良いのだろうか」
「そのうち、安定した時期が来るから、それまでは動かないほうがいいかもしれないわ。一緒にいる人間に迷惑をかけるばかりになってしまうでしょう?いっそのこと、バーハラでの凱旋式が済んだら戻ってくるエーディン達を待って、ここにいるっていうのが懸命だと思うけれど」
そのラケシスの提案はなかなか悪くはなかった。
アイラとレックスだって、シグルドと共にイザークに行くことを考えているから、そのためには嫌でもまたヴェルトマー方面は通過するに決まっている。一体何回砂漠を行き来すれば自分は楽になれるのだろう、とアイラはそんなことをちらりと思った。そうだ、しみじみ聞いていなかったけれど、ラケシスとベオウルフはデルムッドを迎えに行くのだろう。それに、レヴィンとアゼルはシレジアに行くに違いない。そう考えたらブリギッドとデューがここに留まることはかなり妙案に思えてくる。
「ここに滞在を許してもらえるかも疑問だな」
「きっと、二人で話し合って公子にお願いにいくことになるでしょうね」
「ああ」
「アイラはレックスと一緒にイザークに戻るのでしょう?」
「そうだ・・・ラケシスは?ベオウルフと共にデルムッドを迎えに行くのだろう?」
そうアイラが話の流れで聞くと、ラケシスは変な表情を浮かべた。困惑、とも自嘲ともつかない、難しい表情だ。
「違うのか・・・?」
ラケシスがそんな表情を見せるのは見たことがない、とばかりにアイラは不安そうな声をあげた。
「違わないわ」
まるでさじを投げたように少し荒っぽい語調でラケシスは答える。
「何かあったのか」
そういう言い方をされれば、聞かない方がおかしい。
あまりアイラは他人の領域に入り込む人間ではなかったが、みなが「一体どうなっているのかよくわからない」と噂しているベオウルフとラケシスは、案外とそれぞれの思惑をアイラには口にするような気がする。こうやって何か用事でもなければ二人で室内にいることもなかったが、そういったときには必ずといっていいほど、あの二人の関係を深く知るような話題が出てしまうこともこれまでの経験から知っていた。
「ベオウルフは、自分が一人でデルムッドを迎えに行くっていうのだもの」
「は?何故だ?」
「だから、ノディオンで待てって、そんなことを言うの」
「・・・ラケシスに、危険な目を冒させたくないからだろう」
「そんなことを、あの男が言うと思うの?」
「違うのか」
「・・・違わないと思う・・・言わないけどね」
そう呟いたきり、ラケシスはうつむいてしまう。
ソファに浅く腰かけて、茶色い塗りが入った珍しい低いテーブルに視線を落としている。
何を見ているわけでもなく、ただ顔を上げるのが嫌なのだろう、とアイラは勝手に思った。
「ラ・・・」
声をかけようとしたときに、それをタイミングよく遮るようにラケシスは続けた。淡々とした、あまり抑揚がない声。
それはむりやり取り繕っているようにも聞こえる。
「そして、デルムッドを連れてきた後、レンスターにあの人は行くんだわ。わたし達、3人で生活なんて出来やしない」
「・・・」
3人で生活をしたかったのか。
そんな言葉が一瞬口から飛び出しそうになって、アイラは無理矢理飲み込んだ。
デルムッドを身ごもったとき、ラケシスは腹の中の子供を「愛しいと思わない」と言っていた。しいて言うならばエルトシャンの血を引いていることくらいだ、と。
けれど、今のラケシスはもう一人の母親なのだ。
自分も、双子の母親であるように。
「アイラは、レックスとイザークに行って、4人で暮らすつもりなんでしょう?」
「・・・ああ・・・。ラケシス・・・」
「ええ」
「それを、羨ましいと、思うのか」
「・・・わからないわ」
「ラケシス」
「わたし、危険な目にあっても、自分でデルムッドを迎えに行きたいの。だから、ベオウルフの申し出なんて、聞き入れられるわけないじゃない。そんなところだけ、父親ぶられるのだって嫌よ」
ラケシスは未だにうつむいている。アイラはその場から離れずにそんな彼女をじっと見つめていた。
ほんのわずかに紅潮した頬。それは、泣くのをこらえている証拠に思える。
「嘘をつかなくていいぞ」
「何?何も嘘なんて、ついていないわ」
「わたしは人の気持ちを汲み取ることがとても苦手で、いつもレックスに怒られるから、またちんぷんかんぷんなことを言うのかもしれないけれど」
それでも、なんとなくわかる、とアイラは思う。
アイラは言葉があまり上手くないから、そのせいで人々に誤解をされる。
ラケシスは言葉が上手くないのではない。どの感情を言葉にすべきなのかの優先順位をいつも間違えているのだ。
だから誤解されるし、上手くいかない。
自分達は全然似ていないけれど、ふとした時にアイラはラケシスのことをわかる気がする。
「自分一人で迎えに行きたかったわけでも、ベオウルフにデルムッドを任せるのがしゃくだったわけでもないだろう。ラケシスはきっと、ベオウルフと一緒に行きたかっただけだ」
そうアイラが言った途端、ラケシスの両眼から堪えきれない涙がとめどなく溢れ出てきた。
それが何の涙なのかアイラは問わなかったし、ラケシスも言おうとはしなかった。
「・・・一人で泣くか?」
そんな不躾な言葉をアイラが放つと、ラケシスは首を横にふった。
最近、自分の周囲にいる女性が泣いている姿をよく見かけるな、とアイラは思った。ティルテュにせよ、ラケシスにせよ、愛する男の子供を身ごもって、あるいは出産して、本当ならば幸せの絶頂にいるはずなのに。
世の中はうまくいかないものだ。自分達が憎んでいるこの戦乱の場だったからこそ、自分達の伴侶をみつけることが出来た。その幸せを手にいれながらも、今尚負った傷は深く、完全に癒えることなぞないように思える。
それは、ティルテュも、ラケシスも、残酷にも何かを奪われていった、このシグルド軍の誰も彼も。
自分はどうなのだろう?今でもイザークを襲ったあの悲劇を思い出すとうなされることがある。
レックスが傍らにいないときに自分の呻き声で目を覚ます夜もあった。
ティルテュと同室で眠っていた頃は、それを腹部の重さのせいに出来ていたけれど、きっと身ごもっている間も出産を終えた後も、時折それは突然やってきて記憶の底から掘り起こされる。夢の中のイメージはよく覚えていないし、何の夢だったか、という漠然としたものすら目を覚ませば思い出せない。
それでも、わかる。ああ、イザークの夢か、と。
自分がそんな風に煩わされることはなんと弱いことだろう、と失望をしながら、同時にレックスの傍らで眠るときの安堵感を思い出してアイラは溜息をつくのだ。
現実に戻ったときは、心からの幸せと、心からの失望をいつも味わう。
アイラは、彼女の問いに答えることが出来ないラケシスから視線をそらして窓の外を見た。
外は天気がよく、昨日までこの城近くで戦が起こっていたとは思えないのどかさすら感じる。
アイラの後ろで、ラケシスは小さくうめいた。
「もう、一人で泣くのは、嫌」
その言葉は、誰に向かってのものなのか、アイラには測りきれなかった。
ああ、そうか。ラケシスは、ベオウルフを愛しているのだ。
一体それがどんな形の愛情なのかはわからないけれど、アイラはそう思った。もしも、人を愛する気持ちに形があるのならば、多分ラケシスがベオウルフを思う形は他の誰も形にも似ていない、臆病な何かで表現されるに違いない。
もちろん、誰の愛情だって、同じ形のものがないとわかってはいるけれど。


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