祈りの狭間-3-

レックスは難しい顔をして、アイラの部屋に訪れた。
どうした、と問えば、顔を見たかった、とだけ言う。
そうか、わたしも、お前の顔が見たかった。
さらりとそうアイラが言った瞬間、レックスはアイラを抱きしめた。
「どうしたんだ、レックス」
「いや、お前の方が落ち着かないんじゃないかと思って来たんだけど」
「そうか?」
「顔見たら、こうしたくなった。お前に触りたくなったんだよ」
「万年発情期か、お前は」
「どこで覚えたの、その言葉」
「内緒」
くくく、とアイラは笑った。まったく、品がない言葉を覚えたものだとレックスは思ったけれど、アイラがそういう言葉を軽く言うこと自体は下品には思わない。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て待て、こら、レックス・・・」
アイラを抱きしめたままで、ぐいぐいとレックスは彼女をベッドの縁まで押してゆく。アイラは抵抗しきれずによろよろとそのまま押されて、ベッドに倒れこんだ。
「・・・どうしたんだ?」
「んー・・・一緒に寝たい」
「二人で眠るにはちょっとだけ狭いぞ」
「じゃあ、やめる」
「・・・狭い、って言っただけだ。嫌だとは言ってない」
少しだけ照れくさそうにアイラはそう言った。
それは、本当は一緒に眠りたい、という言葉の裏返しだ。
もぞもぞと靴を脱ごうとしているアイラに気付いて、レックスは体を起こした。アイラの足から靴をもぎとってベッドの脇に置き、それから自分も靴を脱ぐ。
まだ寝間着にもなっていないんだが、というアイラの言葉を無視してレックスはアイラに上から覆い被さった。その背にアイラの両手がそっと回される。
しばしの間、レックスもアイラも無言でお互いの体温を感じていた。
アイラはレックスの背に手を回したときに、彼のごつごつした肩甲骨に触れるのが好きだった。
レックスは自分の胸元にアイラの顔を押し付けて、その息遣いを布越しに感じながら、彼女の髪を撫でるのが好きだった。
それは、言葉が必要ない幸せの時間だ。
けれども残念ながらそれが長くは続かないことを、彼らは知っている。
「どうも、結構まだ色々ひっかかるって思ってるやつらは多いようだな」
「そうなのか」
レックスはアイラから離れて、ごろり、と寝転がった。
「どこがどう、っていうわけでもないみたいなんだけどな・・・」
「だから、余計に気になるのだろうな・・・」
「ああ・・・」
「でも、もうどうにもならないだろう。わたし達には何もない。あるのは自分達の身のみだ・・・」
シレジアにいたときと違って、彼らは今何の味方も持たない。
無論、アイーダ達を味方だ、と見なさないならば。
今の自分達の立場をアイラはとてもよくわかっている、と思う。
レックス達グランベル出身者は、もう自国にいる、というだけで安堵感がある。正直な話、レックスもそれを否定はしない。
本当かどうかは完全に信じていないけれど、自国に裏切られたという気持ちを覆してくれる言葉をアイーダから与えられた。それは一種の魔法に近い。
もう、自分達は反逆者ではないのだ。
なんと魅惑的な言葉だろうか。
長い間求めつづけた言葉を貰い、それまでの日々が終わったような錯覚に陥ったとしても、誰も彼らを責めることは出来ないだろう。
それでもふと冷静になると、やはり心にひっかかるものがあるのは事実で、ありがたいことに、というべきか、残念なことに、そのひっかかりは思いのほか深く、魔法の言葉で惑わされはしない。シグルドが、アゼルが、レックスが、そしてベオウルフがそれを強く感じていた「なんとなく」感は、一日終わっても払拭することは出来なかった。
アイラは初めからレックスのような安堵感なぞ、これっぽっちも持っていない。
より色濃くグランベルと敵対関係になってしまったイザークの人間としては、警戒を解けないのは当然だ。
そして、彼女がそうであることでレックスは現実に置かれた自分達の立場を再認識できるのだ。
彼女がいてくれてよかった、とレックスは素直に思う。
「残念ながら」
「うん」
「アイーダ将軍の話では、イザークを陥れたのがグランベル側だということは、まだ明確ではないようだったが」
「・・・ああ、それはバーハラではっきりさせないとな」
アイラは下唇を軽く噛む。
シグルド達の無罪を認められる、とわかった今、アイラにとって重要なことはイザークの立場だ。
イザーク側としては極端な話、この戦の首謀者がシグルドだろうがランドバルドだろうがレプトールだろうが、そんなことは一向に構わないのだ。
ターラの虐殺を仕組んだのがグランベル側の人間であり、始まりがイザークではないということだけがわかれば、イザークは自由になる。償いだとかそういったものはその後についてくるものだ。
「クルト王子を暗殺するため・・・ひっぱり出すのに利用されただけなのかな、イザークは」
多分そうだな、と思いながらもレックスはアイラに問い掛ける。
誰も答えはまだわかっていないが、それでもなんとなく見えてきた部分だ。
「・・・そこはいささか腑に落ちないのだが・・・だが、多分」
アイラはふう、と息をついて
「その程度だろう。グランベル側の手の上で踊らされるのにうってつけな・・・イザークの民は純朴だ」
「・・・そうか」
「何にせよ、やることは派手ではない・・・。そして、自分達の責任は自分達でとろうと、イザークの全ての民は誰に対しても誠実であろうとする。今思えば、大国相手に、父上がリボー族長の首を持っていくときに・・・せめて、隣国のシレジアに対してぐらいは、ことの全てを知らせるべきだったのだろう。たとえイザークに非がなくとも、あれは戦に発展する話だった。そうなってからでは遅い。グランベルに来てから知ったやり方だが・・・戦の種火が見えたときに、隣国へそれを伝えるのは一国の義務なのだな。他国への礼儀でもあり、自国の保守のためでもあり。誤解から始まったことであれば尚のこと。それを我らは知らなかった。グランベルに対して、国としての誠意が伝わると信じていたし・・・いや、もうよそう、過ぎた繰言は」
「お前が言っていることはわかる。少なくとも、グランベルに対してイザークがどういった謝罪を行おうとしていたのか、証明してくれる国があればまた違ったんだろうな」
「ああ・・・父上は戻ってこなかった。けれど我らは、父上がどうなったのかを知ることはなかった。どの時点で暗殺されたのか、それともグランベル中枢に上がってから殺されたのか、あるいは未だどこかで監禁されているのか。何もわからない。グランベル側からすれば、謝罪なぞ受けていない、と突っぱねれば済むだけの話だ」
レックスはアイラの髪をぐしゃ、と大きな手でなでた。
「すまない、レックス」
「なんで謝るんだ。アイラは、悪くない」
アイラは自分の頭にのせられたレックスの手をそっと両手でつかみ、今までに何度かレックスに投げかけていた、彼女の気持ちをもっとも強く表す言葉を久しぶりに口にした。
「悔しい」
「・・・ああ」
レックスはアイラを引き寄せた。アイラの長い髪がレックスの頬にぱさりとかかる。それを片手で軽くよけながら、そっとアイラの額に口付ける。
「すまない、今に始まったことではないのに」
「いいって・・・」
「二度と、こんな蹂躙をさせやしない。レックス、わたしに、力を貸してくれ」
「・・・ああ」
アイラは泣くまい、と体に力をいれた。瞬きをしては、涙が落ちてしまいそうだ。まるでその涙が蒸発してくれれば、と思うように、彼女は瞳を開いたままレックスの胸元に頭をこつりとつけた。
「俺が、お前の役にたてるように、いつでも祈ってる。お前がイザークの皇女としての役目を正しくバーハラで終えて、そして子供達を迎えにいって、シャナンのもとに一日も早く戻れるように、俺も、いつでも、祈ってるよ」
「ありがとう、レックス」
「俺だって、子供の顔、早くみたいしな」
「そうだな」
「早く、リューベック城に戻ろう」
アイラは自分からレックスに体を擦り付けた。
まだ、出産前の状態には完全に戻っていない、丸みが残っているその体を抱くと、よりいっそう腕の中の女を守ってやりたいと思える。
子供のことを口に出せばアイラが寂しがると思ってレックスはあまり言葉にはしないけれど、彼だって子供達に会いたいのだ。
「ティルテュとフュリーは、シレジアに戻ったのかな・・・」
「戻る、っていってたのか?」
「ああ・・・でも、ティルテュは、シレジア騎士団がいてもスカサハとラクチェを置いていけない、自分が守る、と言っていた。が、ティルテュとて妊娠しているわけだから、動けるときに移動しなければつらい時期にもなってしまうだろうと思う。だから、彼女にはシレジアに行ってくれと・・・そう頼んでいたのだが」
「そうか・・・でも、多分ティルテュは」
リューベック城にいるだろうな、とレックスが言うより先に、アイラが「ああ」と小さく頷く。
シグルドと話し合った結果、リューベック城にティルテュがいることや子供達がいること、イザークにセリスをはじめとした子供達が逃げたことをあまり今は公にしないほうが良いと決まった。あくまでも今、リューベック城は、シレジア騎士団に管理を任せてきたという話になっている。
レプトールの娘であるティルテュの所在を追及されたけれど、ラーナ王妃の保護下にいる、という曖昧な回答に留めておいたのも、アゼルと話し合ってのことだった。
本当は、それすらどうすべきなのかを悩んだ。
どこまでのことをシレジアが知っているのか。それをグランベル側に提示をすることは勇気が必要だった。
けれどもレヴィンがシグルド達と行動を共にしていることは既に周知の事実だったし、シレジア内乱に介入してきたバイゲリッターの件を考えても、反逆者であるシグルド達を庇い立てていたことを考えても、既にシレジアもが渦中の国と言える。今更立場を伏せたところで、何もいいことなぞない、というのがレヴィンの意向だ。
あの運命の場所で生まれた子供達にレックスは思いを馳せた。
自分が父親を屠った城。
今はシレジアのものでもグランベルのものでも、そしてイザークのものでもない不安定な立場にある不安定な場所にあるあの城。三国が交わるあの地点は、もっともっと平和のために有効的に使われるはずだったのではないか。
それゆえに、砂漠を越えたあのような場所に城を建設したのだと、そう思いたかった。
実際はクルト王子暗殺の布石ともなったイザークへの侵略、そしてシレジア内乱への介入、様様な謀略の中継地点になってしまったのであろうあの城。そこで生まれて、今まだ顔を見ることがない双子が、待っている。
と、レックスははた、と気付いてアイラに聞いた。
「・・・お前、もしかして」
「うん?」
「子供達をみんなにみせたくて、リューベック城に置いてきたのか。あそこなら、シレジアに戻るレヴィンも、イザークにセリス達を迎えにいくシグルド公子達も・・・」
それへアイラはもぞもぞと動いて顔をあげ、レックスを見ながら
「ばれたか」
とけろっと答える。
「・・・お前、親馬鹿だったのか!」
「いや」
「じゃあ」
「双子、って珍しいから。みんな見たいかと思って」
「・・・は・・・」
「まあ、いいじゃないか。シレジアにいるよりも早く会えるのだし。シレジア騎士団が守っているのに、イザークからお前の兄上とやらがリューベック奪回をしにくるわけはない、と見込んでいたわけだし。本当はフィノーラにまで連れていきたいくらいだったのだが」
そういうとアイラはするりとレックスの腕から抜け出して、ベッドを降りた。
無造作に上着を脱ぎ捨てて、美しい背中をレックスに見せる。
「アイラ」
「一緒に眠るんだろう?お前の腕の中にいては、安心してすぐに眠ってしまう。寝間着に着替えてもいいだろう?」
「・・・また、そーゆー殺し文句を」
「レックスを殺そうなんて思ってないぞ」
「そーゆーことじゃ、ないでしょ」
「レックスも脱げばいいのに。それとも着替えてくるか?」
「ごめん、ちっと仕事残ってんだ。すぐ戻ってくるから」
慌ててレックスは起き上がってベッドから降りた。
「なんだ、サボリだったのか」
「サボリっていうな!息抜きだ、息抜き・・・」
寝間着に着替える途中の下着姿になったアイラを後ろから軽く抱きしめて、レックスは目を閉じた。
「レックス?」
「いや・・・じゃ、ちといってくる」
「ああ」
恥ずかしくていたたまれなくなった。レックスはそれ以上何も言わずにアイラから体を離し、ちらりと目線を送っただけで部屋を出る。
ごめん、すぐ戻ってくる、だってよ・・・。
自分のそのセリフを思い出して、廊下で頬が紅潮するのがわかる。
「まあ、そりゃ確かにそうなんだが」
アイラはきっと、俺の腕の中で眠りたいのだろうし、そうさせてやりたい。
そんな風に思うのは、自惚れなのだろうか?
体まで交わることが出来て、子供まで生まれたのに、いつまでたっても自分はこんな風にアイラのことを思っている。
今まで、こんな女に会ったことはないと思う。だから、自分はここでこうしているのだろう。
知らなかった幸せが目の前にあることを今更ながらに感じて、レックスは口元を大きな手で覆った。こんな時なのに、口元がにやけてくる自分をちょっとばかり不謹慎だ、と思いながら。

翌朝早くシグルド達はヴェルトマー城を後にすることになっており、まだ夜が明けきらぬ暗いうちにヴェルトマー城門の内側にシグルド軍は集まっていた。予定ではその日の夕方に差しかかる前にはバーハラに到着するはずだ。
戦をするために行くのではないから、馬の消耗について細かく考える必要がない。そんなことは久しぶりだと気付いてシグルドは自嘲気味に密やかに笑いをもらす。それでも馬の体力限界で走らせる気にはなれなかったが。
バーハラに到着すればすぐに凱旋式が行われアズムール王との謁見が実現する。
アズムール王は病床についているため、あまり長い時間は謁見が出来ず、更には過ごしやすい夕方が良いとのことで、その日程になったことをアイーダから聞いたのは前日であった。
ヴェルトマー兵で馬を操れる人間を数人出すから、早くバーハラに着けるように歩兵を乗せて移動してはどうかとアイーダから提案がされていたけれど、ブリギッドとデューがヴェルトマー城に残ることで、騎馬兵と歩兵の数がシグルド軍は丁度良い様子になったという理由で辞退をした。
一騎に二人乗り、というかなり強引な状態ではあったけれど、それが最もバーハラに行くのに良い方法と思えた。
当然、地理に詳しいヴェルトマー兵が馬を出してくれる方がより効率は下がるが、どうも監視されている気がしてそれはありがたくないとシグルドは思う。レヴィンもそれは同感だったらしく、アイーダの申し出を丁重に断わることになったのだ。
出発前に誰がアーダンを乗せるかで一悶着したものの、最も軽装なアゼルが載せることに決まって落ち着いた。
ラケシスは僅かに頬を紅潮させて「出産後で体が重くて申し訳ないわね」とちょっとだけ唇を尖らせて拗ねてみせたけれど、そもそも装備品自体がラケシスの方が重いのだから当然のことだ。
ベオウルフとレックスの馬は他の人間の馬よりも一回り立派で体力もある。
彼らの馬はシレジアでラーナ王妃じきじきに授かった馬で、あの国の馬なのに砂漠の気温変化をものともしない強靭な優れた馬だった。体が大きいから足が遅いかと思われたが、そんな懸念を一発で消し飛ばしてくれる強靭な脚力には、乗りこなしている彼ら自身もほれぼれとするほどだ。
そういったわけで歩兵男性陣でアーダンについでホリンとジャムカがベオウルフ達の馬に乗ることに決定し、あとはみな適当に、と組み分けをした。アレクは「野郎と乗る趣味はない」と言ったことが逆に仇となり、レヴィンが意地悪そうに「そりゃ申し訳ないな」とあっさり言いながら乗り込んでいくという一幕も見られた。
「アイラでなくて悪かったな」
そんなことをジャムカに言われてレックスは苦笑をする。
「そんな了見が狭い男だと思ってたのか」
「普通だろ?」
「・・・そーとも言うな」
ようやく落ち着いた頃、城門まで見送りに来たアイーダにシグルドは声をかけた。
「馬上より失礼を」
「いいえ、そのお気遣いだけで十分です」
シグルドの後ろにはアイラが乗っている。
「それでは、我々はバーハラに行きます。ご面倒だとは思いますが、ブリギッドの体調が整うまで、彼女とデューをよろしくお願いいたします」
「ええ。道中、お気をつけて」
ミデェールの馬に乗っているエーディンが心配そうに、アイーダの後ろに控えているブリギッドに軽く手をあげた。
それへブリギッドも手をあげる。彼女の傍らにはデューがぴったりとくっついていて、彼もまたエーディンに、それからジャムカに、そしてシグルドにと目線を送った。その人々とはこれが永遠の別れではない。彼らがまたヴェルトマー城に戻ってくる−アイーダにはそれを知らせてはおらず、ブリギッドの体調が整ったらバーハラに向かう、という口裏を合わせていたのだが−のを待つだけだ。
自分がヴェルトマーに最初に来たときはみんなを待たせていたけれど、今度はヴェルトマーで自分達が待つ立場なのだなあ、なんてことをデューは思っていた。
「デュー」
その時、思いもよらない人物がデューに声をかけた。クロードだ。
「なんだい、神父さん」
クロードはノイッシュの馬に乗ることになっていたけれど、軽い荷物を馬にくくりつけただけで乗り込んではいなかった。彼は穏やかな声でデューを呼び寄せた。素早い動きでデューはクロードのもとに走って行く。
「めずらしいじゃん、神父さんがおいらを呼ぶなんて」
「ふふ、そうかもしれないですね」
「で、なんだい?もしかしたら、のお別れの挨拶は、さっきしたのにさ」
「ちょっとね、急にもう一言あなたに言いたくなったのですよ」
クロードは少しだけ困った表情を見せてそう言いながら、デューの前でブラギ神への印を指できった。
「あなたとブリギッドの間に、良い子供が産まれますように」
「わあ、なんだよ、神父さん、それじゃあおいらじゃなくてブリギッドさんに言わないと」
照れくさそうにデューは笑った。クロードはそれへは何も答えず、ただ笑みを見せるだけだ。
そんなやりとりをしている間にシグルドとアイーダは二言三言挨拶を交わし、バーハラまでのルートの再確認をしている。クロードはあまりみなが自分達に注目していないことを目でそっと確認をしてから、デューをまっすぐ見据えて一言一言ゆっくりと伝えた。
「そして」
「ん?」
「あなたに、神のご加護がありますように」

シグルド達を見送ってからアイーダは寝室に戻った。
むやみに早い時間だったけれど、二度寝をするつもりはない。とはいえ、このまま執務を始めるほどに仕事を愛しているというわけでもなかった。
最後までアゼルは、自分に何も問いただしには来なかった。
それは全面的にアイーダのことを信用しているということだろうか?
いいや、そうとは思えない。
ほんの数回目があったアゼルは、完全には警戒をといていない表情を見せていたし、何よりフリージの公女であるティルテュの居場所を曖昧にしているところがその証拠だと考えられる。
さすがに反逆者として追い立てられていた期間が長かっただけはある、どんなに騙そうとしても彼らは慎重だった、とアイーダは思う。
多少の不審はバーハラで晴らそう、と彼らが考えているだろうことはアイーダも承知の上だ。
彼女がやらなければいけなかったのは、予定通りに彼らをバーハラ入りをさせることだったのだし。
本来ならばヴェルトマーからバーハラは一泊はさむ行程で移動しても構わない距離だ。あの人数なら尚のこと。
ヴェルトマー城下町より手前に街道沿いの宿屋だってある。本来ならそこを中継点として移動を行うのがもっとも普通の方法だ。
けれども出来るだけ、一般市民と彼らが接点を持たないように。
それを仕向けるにはぎりぎりの日程で無理強いをさせることが精一杯だった。
愚策ではあったが、彼らが警戒をして逆にヴェルトマー兵を拒んでくれて良かったかもしれない。アイーダはそう思いながらベッドの縁に腰をかけてブーツを脱いだ。
「アルヴィス様、本当にこれでよろしいの?」
その言葉は、自分が遂行した事柄に対してのアルヴィスの反応を問うものではない。
アイーダは瞳を閉じて、はらりと落ちてきた前髪をかきあげた。
まだだ。
ここに残ったあの二人を。
「アルヴィス様」
口に出るのはその名前だったけれど、頭で考えるのは現実的な問題ばかりだ。
たとえばシグルド軍の誰かが何かを忘れた、とかいって戻ってこないとも限らない。
決してそれがもうないとわかる程度に時間がたってから。
そして凱旋式が始まる前には。
まだ、人を欺く時間は続いているのだ。
とんだ見込まれ方だな、とアイーダは寂しげに笑った。
それでも、これがわたしでなければ務まらないことを、わたし自身が一番良く知っている・・・。
ふとサイドテーブルに置いてある手鏡に気付いてアイーダは手を伸ばす。
「・・・嫌ね」
鏡に映った自分の顔は、なんだかここ数日で少し年を取ったように見える。睡眠不足かもしれない。
(自分の心に背くことをするつもりはない。選んだ道を振り返るには、まだ早すぎる)
後悔なぞ、していない。
ただ、思う道を貫くということの難しさ、そのための障害になるものが自分自身の中にあることにアイーダは気付いてしまった。
それでも、これが自分の道なのだ。
ことりと小さな音をたてて手鏡を置き、アイーダはそのままベッドに仰向けになって倒れこんだ。

先を急ぐ行軍では、馬に乗っているからといって二人で話が出来るなんていう余裕なぞない。
定期的に様子を見て休憩をとる。ずっと走りつづけていたせいで、馬の疲労具合も大分違いが見えてきた。
とうに春を迎えたグランベルは緑生い茂り、そこここに人の手が入っていない野原が広がっている。
バーハラまでの行商人がよく利用する街道を通る彼らの周りには、どこで休憩をしてもよさそうな土地が広がっていた。
街道沿いにはおおよそ決まった距離ごとに休憩所が設けられていて、とりたてて大層なものはないが水ぐらいは補給が出来るようになっている。
ヴェルトマーを出てから既に3回休憩をとっていたが、日が高くなった昼飯時にもう一度シグルドは皆を止めた。
さすがに普段馬に乗りなれていない人間も疲れが見えている。ここいらでたっぷりと休憩をとらなければバーハラに到着するまでにばててしまうことは誰もがわかっていることだ。
「ふあー!」
レヴィンは彼らしくもなく声を大きくあげて馬から降りた。その向かいでシルヴィアがくたくたになって馬から降りる姿が見える。街道沿いの休憩所として小さな掘っ立て小屋が立っていた。馬屋などあるわけもなく、馬を繋ぐための杭が小屋の外にたくさん立ち並んでいる。小屋の裏には一応井戸と思しきものがあったけれど、肝心の汲んだ水を飲むための器は何もない。
「お尻痛いよおー!」
「まったくだ。騎士の尻の皮は厚いらしい」
「失礼なことを言う王子様だな!」
アレクは笑いながら馬から降りて、打ち付けてある杭に馬を繋ぎに行った。
「ここで多めに休もう」
シグルドは半々にメンバーをわけて、半刻ずつ小屋で休憩をとるようにと指示を出した。
案の定シルヴィアとクロードは疲れ気味で素直に小屋に入っていく。小屋の中にはごろりと横になれるスペースと、ぎしぎしいう横長椅子が並ぶスペースとが区切られている。
ヴェルトマー側でここ数日検問を閉じたせいか、街道を行く商人達の姿はここまでほとんど見なかった。
「レヴィン、君も休むと良い」
シグルドがそう声をかけると
「ああ、そのつもりだ。でも、公子の方が疲れた顔をしている」
「・・・そうかい?」
「うん、疲れているように見える・・・緊張しっぱなしだろうしな」
「そう見えるならわたしは大将失格だな」
「別にいいだろう。もう戦は終わったんだし」
「・・・そうだといいが」
レヴィンはシグルドのその言葉に特に反応はしなかった。何故ならばレヴィンもそれには同感だったからだ。
「わたし達の身の振り方や汚名のことだけではなくてね・・・ここには君を含めて他国の代表とも言える人々がいる。その誰にとっても良い方向に事が進めばよいなと思って」
「なんだなんだ、自分の心配じゃなくて俺たちの心配か・・・まあ、それは公子らしい」
「だって、それに対することも、ただ会見を行う、っていう情報しかないだろう?そりゃあ気にもなる。もっと明確な姿勢をアイーダ将軍が知っていてくれれば多少は気分も晴れただろうが」
「けれど、多分それは難しい」
レヴィンは曇り空を見上げた。
「だから、戦争ってもんが起きる。グランベルがどこまで頭を下げるか、と思うとそうでもない気が俺にはするんだけど」
「残念ながらわたしもだよ」
あまり多くは語らないけれど、特にアグストリアやヴェルダンに対する処遇をシグルドは気にしている。
グランベル内部の動きを引き金にヴェルダンがユングヴィを襲ったとしても、グランベル側の対応が遅いがゆえにシャガール王が叛旗を翻してしまったとしても、実力行使を始めたのはグランベル側ではない。
それを思うと、シグルドの気は重かった。
ここまで力になってくれたラケシス−とはいえラケシスがアグストリアの代表というわけではないが−やジャムカには酷な会見になるのかもしれない・・・そう思うことは辛かった。
レヴィンはシレジア側に非がなかったという主張が出来る立場であるからまだいいし(反逆者を匿っていたと言われても、それに対しての親書はアズムール王宛に出していたわけだし)アイラも完全にイザークの無罪を主張できるに違いない。その反面、波紋を受けてしまった他国についてはグランベルがどこまで譲歩してくれるのだろうか。
反逆者になってから、しみじみとグランベルのやり方を知ったと思う。
認めるのは正直心が辛かったけれど、グランベルは大国である優越感を常にもって他国と接しているのではないかと思われた。それはグランベル内部にいたときはそこまで如実に見えなかったことだ。
たくさんの国のたくさんの人々と出会って、そして国を渡りあるいてわかったことがある。むしろ大国であるならば、他国のことをもっともっとよく知らなければいけないのだとシグルドは痛感した。
それを伝えなければ。
そうでなければ、このままではグランベルは大国の奢りをもってして他国をねじ伏せ、食いつぶすのでは・・・。
強くシグルドが感じ、オイフェに幾度となく語っていたのはそのことだった。
それまで感じたことがない自国への不信感と自国の未来への危惧。
自分達の立場がたとえなんであれ、シグルドにとってグランベルは愛すべき母国だったし、そして彼は悲しいまでに気持ちがまっすぐな騎士なのだ。
レヴィンは苦笑を見せて
「公子、眉間に、皺寄ってるぜ」
「・・・ああ、そうみたいだ。最近癖になったなあ」
「わからなくもないけどな。オイフェに怒られるぞ」
「ははは。難しい顔をしていると、皺が深くなるってね。まったく、どこでそんなことを覚えて来たのかあの子は」
そう言いながらふとオイフェのこと、セリスのことを思い出す。
願わくば、他国の人の情に触れながら育って来た自分の息子が、国なんていう枠を超えて、人の痛みがわかる優しくて強い子になりますように・・・。
バーハラまで、あと数刻の距離で、何故だかシグルドはそんなことを思った。


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