祈りの狭間-4-

時はわずかに遡るが・・・
シグルド達を見送ってブリギッドを部屋まで送った後に自室に戻ってきたデューは、ドアを開けようとした瞬間に体をこわばらせた。
誰かが、この部屋に入った。
別に盗まれるものなぞない部屋だったし、デューにはそもそも鍵をかける習慣はない。部屋に鍵がある家に住んだことなぞ幼い頃からとんとなかったし、鍵をかけてまで守らなければいけないのは自分の命だけだったわけだし。
大きい城でも、内側からの鍵がかかっても外からかからないものがほとんどだ。だからそれで別段不自由をしたこともなかったし、この先もそうであると思えていた。
その代わり、不在の間に侵入者がいないかどうかだけを知る。それだけは盗賊である彼が唯一自衛としてかかさなかったことだった。
一番簡単な方法は、ドアの隙間に自分の髪をはさむことだった。とはいえ、こういった豪華な建物でなければ大抵ドアの隙間は大きすぎて何の役にも立ちはしない。
ありがたいことにバーハラ城の建付けはとてもしっかりしており、軽く髪を挟み込むだけで十分すぎる役目を果たしてくれていたのだが・・・。
(誰がおいらの部屋に?)
部屋に入った瞬間にその違和感を感じ取った。住み慣れてもいない、ほんの一泊二泊だけの部屋に感じる違和感。
それが一体何によるものなのかは、すぐに理解出来た。
窓側の隅に見慣れない長細いものがひとつ。
「ちょっと、これって・・・」
おそるおそる近寄ってデューはそれに手を伸ばした。
一体、何故、これがここにあるのかがわからない。
これが日常であれば「一体どうしたんだろ、これ」と声をあげて走り出るところだったけれど、デューにはそれが出来なかった。
体が震えた。
どくん、どくん。
鼓動が高鳴るのがわかる。ものすごい勢いで自分の心臓は血液を送り出していく。破裂しそうだ。
陳腐な表現だけれど多分それが一番しっくりと来るのだ、と不思議とそんなどうでもいいことをデューは思い浮かべていた。
それから、これはもう体験した緊張だ、と理解した瞬間、デューはぞくりと鳥肌を立てた。
ヴェルトマー城前でアイーダに接触をしたとき。
ヴェルトマー城に呼ばれてアイーダとの話し合いの場にいたとき。
嫌な汗が出てくる。もともと快活な彼のいつもの明るい顔には似合わない、苦しげな表情が浮かんでくる。
手にしたそれは思いのほか軽くて拍子抜けをした。けれども、これがここにある意味は、決して軽くない。
「ブリギッド、さん」
デューは呻き声をあげた。それは、これが自分の声かと思うほどに掠れた情けない音だ。
彼は手にしたそれを、ひとまずベッドの下に放り投げてあった自分の荷物の横に置いた。
それから、ひとつ、深呼吸。
不審がられるな、とデューは自分に言い聞かせた。今すぐベッドの下の荷物を持ち出したいが、それは駄目だと彼の勘が告げている。とにかく、ブリギッドがまた寝入る前に話をしなければいけない。
「やだよ。なんで、おいらに。おいらには、何も出来ないのに、何をしろってんだい・・・神父さま」
彼はベッドの下に置いたそれをもう一度ちらりと見て、それから部屋を出た。
彼がいつも背負っていた、薄汚れた厚手の布袋の横には、バルキリーの杖がそっと横たわっていた。

あまりにも彼らにとって、この状況は量りかねるものだった。
ブリギッドは険しい表情で、しばし窓の外を見ていた。
外は緩やかに朝を知らせる陽射しが建物を照らし出している。もう一眠りしようと思っていたが、それどころではないな、と苦笑を見せた。
「デューはどう思う?」
「おいらは・・・神父様が、ここに戻る、っていう意味・・・じゃない気がするんだ・・・」
「・・・そうだね。あたしもそう思う」
「それなら、もっと、他に伝えてくれると思うから・・・」
「そうだね」
ブリギッドはそう言いながら自分の衣類に手をのばした。部屋に帰ってから一度寝間着に着替えなおしてしまったけれど、彼女はそれを脱ぎ捨て、いつもの動きやすい服を雑に被る。
「それは、クロード神父の忘れ物なんて単純なもんじゃない。それくらいどんな阿呆でもわかる」
「でも、だったらなんで神父さんは何も言わないで・・・これじゃあ、わかんないよ、何をすればいいのか」
彼らがわかることは、クロードが意図的にデューの部屋にバルキリーの杖を置いていったこと。
そして、それを先に告げるのは何か不都合があったのだということ。
置手紙すら出来ない、きっとそれは込み入った、あるいは余程の事情があることなのだということがたったそれだけで彼らにはわかる。
先に告げられなかった理由を考えてみれば、思いつくのは嫌な理由ばかりだ。
アイーダに知らせないように、シグルドに、みんなに、知らせないように。
デューやブリギッドに動揺を与えないように・・・。
何が正解なのかはわからないけれど、デューは部屋でバルキリーの杖を見たときに感じた緊張感、鼓動の高鳴りを無視は出来ないと思った。正解がわからなくても、彼には感じ取れたものが明らかにあったのだ。
クロードは言葉にすることもなく、彼らに全てを委ねていったのだろう。
彼らに投げかけられたその石の波紋は、どこまで広がるものなのだろうか?
「デュー。率直に聞くけど」
「うん」
「デューは、どう感じる?ここにこのまま居てもいいと思う?」
二人の視線は絡んだ。
そのブリギッドの問いにデューはすぐさま首を横にふる。
「わからないけど、それは、ヤバイ気がする。おいらの勘だけど、さ」
「あたしもそう思うんだ。ねえ、デュー。自惚れじゃないと思うんだけどね」
ブリギッドは髪を後ろで結った。ベッドの脇には、エーディン達から返されたイチイバルが立てかけられている。
「あたしとデューが二人でそう感じるなら、多分それは間違いじゃないと思うの。ただの勘だけど・・・ね」
ただの勘、とブリギッドは言う。
けれども二人は、自分達の「勘」というものが生きるためにどれだけ重要な事柄を今まで左右してきたのかを知っている。盗賊を生業としていたデューも、海賊稼業に身をやつしていたブリギッドも、そういったところはよく似ている。
それを知っていてシグルドも、時には自己判断をしなければいけないとても難しい斥候役−シグルド軍における斥候は、ただの見張り役、報告役には終わらないものだ−を彼らに任せていたのだし。
そのとき、ブリギッドは口を抑え、デューに背を向けた。つわりだ。
「ブリギッドさんっ・・・」
少し間をおいて、ようやくブリギッドは苦笑いを浮かべながらデューをちらりと振り向いた。
「大丈夫・・・デュー、足手まといになったら、ごめんよ」
「そんなわけ、ない」
ブリギッドのその言葉は、このヴェルトマー城を出よう、という意味だ。
それをわざわざ確認する必要はデューにはない。通じている気持ちをいちいち確認しなくても、彼らはもう理解し合っているのだから。
デューはそっとブリギッドの背に手を優しくおいて、彼女を覗き込んだ。
もうすぐ少年の領域から何もかも脱皮してしまいそうな、昔小さな少年だった彼は力強く笑う。
「一緒に行こう・・・おいらが、守るから」
「ありがとう、デュー」
「・・・見張られているかもしれないから、うまい脱出方法を考えるよ。おいら、前にここに来たときに、この城の図面を手にいれてたんだ。壁が厚いような気がする場所があったから、そこを調べりゃなんとかなると思う。ひとまず、何もなかったふりしておいら、部屋に戻ってそれを確認してくるよ・・・イチイバルもバルキリーの杖も、もうちょっと目立たないとありがたいんだけどなあ・・・ちぇ、こんなことならアイラにリターンリング返さなきゃよかったよ・・・つってもおいらにはうまく使えなかったから同じかあ・・・」
「すまないね・・・。ここから出て、どうする?あたしはバーハラに向かうのはヤバイと思うんだけど」
そう言ったブリギッドの表情は、とても険しい。
クロードがバルキリーの杖を置いていった、ということは、それを届けに来てください、という意味なのだろうか?
二人にはそうとは思えなかった。
こんな遠まわしなやり方で、そんなメッセージを残すとは思えない。
そう思えば答えはひとつだ。それにこめられた意味まで彼らは今は知ることはないけれど、クロードは彼らに、この城を出て、そしてバーハラには行くな、と告げているのだ。
二人の顔が強張る。
考えたくないことがぐるぐると頭を回った。
それは。
バーハラは、危険だ、という意味ではないか・・・?
「神父さまは」
「うん」
「神のご加護が、ありますように、って」
その言葉でブリギッドはすっと瞳を伏せた。その長い睫をデューが見つめる視線を痛いほど感じて、やがてまた瞳を開ける。
「・・・あたしには、それは」
「うん」
「・・・いや、やめとくよ。今はそんな状況じゃない、と思える」
ブリギッドは唇を噛み締めた。
今は心を惑わせてはいけないと思える。
心の中のもう一人の自分は、すぐにこの城を出てシグルド達をおいかけていきたいと思っている。
もう一人はこのままこの城に留まって事の成り行きをを見たいと思っている。
けれど何よりも強い予感。
ここではない場所に、遠くに、行かなければ。
「じゃ、デュー、頼んだよ」
「うん。待ってて」
デューはそう言うとすぐさま部屋を出ていった。ぱたん、と閉まるドアの音を聞いてブリギッドは瞳を閉じる。
神のご加護がありますように。
まるで、それは。
「じゃあ、神父様達には、ご加護とやらはあるのかい・・・?」
生き延びろ。
そんな言葉が聞こえた気がして、ブリギッドは瞬きを忘れたようにイチイバルを見つめていた。
視線はそのままで、彼女の口元はかすかに動いた。
それはたった一度だけ愛しい妹の名を形作ると、きゅ、と頑なに閉じられる。
「・・・真実は、バーハラに、あるのか」
そして、彼女はその手にしっかとイチイバルを握り締めた。
戦いは終わらない。その予感に包まれながら。

「神父様、バルキリーの杖は?」
休憩を終えてそろそろ出発するぞ、という頃に、シルヴィアはクロードになんの疑いもなくそう聞いた。
クロードは杖を数本携帯していたけれど、すべて布に包んでいる。
何故彼女はずばりと、バルキリーの杖は、なんてことを言い出すのだろう。
「何がですか?」
遠くでシグルドが人数確認をしている声が聞こえる。最後にもう一口、と井戸で水を飲んでいたところをクロードはシルヴィアに掴まってしまったのだ。
「神父様、バルキリーの杖、もってないじゃない」
「ここに入っていますよ」
杖を包んだ布を見せるクロードに、シルヴィアはふくれっつらで応じた。
「嘘ばっかり。そんなの、見ればわかるもんっ。神父さま、あたしのことバカにしていませんっ?」
「馬鹿になぞ、していません」
「じゃあ何、どうして嘘つくの?」
「・・・どうして、バルキリーの杖を持っていない、とあなたは一目でわかるんでしょうね」
苛立ちを表すかのように、とんとん、と軽くシルヴィアは右足を地面に打ち鳴らした。その動きに合わせて、足首につけている鈴がしゃんしゃんと軽やかな音を立てる。
「もおー。バルキリーの杖、長さが違うもん。あれだけ長いじゃない?わたし、そっかー、空の神様にお願いするには、やっぱり普通の杖より長くなきゃ届かないんだあって思ってたのよね」
「・・・シルヴィア」
彼女の言葉を聞いて、クロードは顔を強張らせた。
「どしたの?もしかして、どこかに忘れてきちゃったの?」
「いいえ。忘れてきたわけではありません。デューに、預かってもらったのです」
「デューに?なんで?」
「その方が、いいような気がしたからです」
クロードのその言葉にシルヴィアは合点がいかない。
そんな曖昧な理由で神器を他人に預けるなんてことを、少なくともこの神父はしないのではないか・・・そう思ったからだ。
「神父様」
「本当に、そんな気がしたから、ですよ。だから、あなたにいくら理由を聞かれても答えられない」
しばしの間シルヴィアはクロードを見つめた。
遠くでアレクが二人を呼ぶ声が聞こえる。
「変な神父さま」
「ふふ、そうですね。自分でもそうだと思います」
「じゃ、後でヴェルトマーに戻るってことね?」
「そういうことになる・・・のでしょうかね。それもよくわからないのですが」
「ますます変なの!」
シルヴィアは不安そうにクロードを下から見上げる。唇を少し尖らせて不平を表している。
それを見た彼は困惑した表情を浮かべ、そっと彼女の緑の髪の束に手を伸ばした。
もう、いかなければ、と思うけれど、こうやって彼女を不安にさせることは彼の本意ではない。
「安心させてあげたいのですけれど。本当に・・・なんだか、自分でもよくわからないのですよ」
「・・・変なの・・・」
そう呟きながらシルヴィアはクロードの指先を見つめた。
シルヴィアは自分の髪をクロードに触れてもらうことが好きだった。
彼は、直接彼女の肌に触れることをいつも躊躇う。
じゃあ、髪ならいいでしょう?とそれをねだったのはシルヴィアの方だった。
頭の両脇に器用に結って、下にたらした髪の束に触れる彼の指先を見ると、胸がいつも熱くなる。
そして、たった一度だけ体を重ねた夜の感動を、その指先の動きでいつも思い出してしまうのだ。
「もう行かないと」
「うん」
「そうだ、シルヴィア」
「なに?」
「あなたの、その足につけている鈴を、わたしに片方くれませんか?」
「これ?なんで?」
「欲しい、と思ったのですよ」
少し考え込んでからシルヴィアは左足の鈴を外した。その表情は既に明るく、何かいたずらを考えついた子供のような笑みを浮かべている。
「じゃ、これっ。ねえ、それじゃ神父様、今度わたしに代わりに何かを頂戴」
「そうですね。何がいいんでしょう?」
クロードの手の中に、三つの鈴が結ばれたリボンをぎゅっと押し込みながら彼女は笑顔を見せた。
「そんなの決まってるじゃない!指輪よ!」
無理矢理手の中に押し込まれて、鈴はぎちぎちと小さな音をたてる。
「うんと可愛いやつ。薬指にぴったりの、ね」
クロードは目を丸くした。うんと可愛い、薬指にぴったりの指輪。それは。
シルヴィアは少し照れくさそうにクロードの脇を通り抜けて、みなの待つ休憩所の表側に走っていってしまった。
それを見送って、指輪か・・・、とぼそりと一人呟く。
クロードは彼女から受け取った鈴をそっと懐に入れた。小さな音がして、それは彼の内ポケットにそうっと落ちる。
「神父様。出発しますよ」
丁度シルヴィアが走っていった反対側の建物の影からレックスが姿を見せ、声をかけた。
「ああ、すみません、おまたせしてしまいましたね」
「いや、そうでも。お疲れですか」
「もう大丈夫です」
クロードはレックスの側まで歩いていった。レックスは申し訳なさそうに
「もしかして、お邪魔してしまいましたかね」
「いえ?丁度シルヴィアとも話が終わったところでしたから」
「ならいいんですが」
二人は肩を並べて歩き出した。クロードは彼らしくもなくレックスに
「女性は指輪を欲しがるものなのですねえ」
なんてことをふと問い掛けた。
この神父に似合わないその質問にレックスはついつい笑い声をあげてしまう。
「ははは・・・シルヴィアですか」
「ええ。そのう、わたしはあまり女性のことについては詳しくないものですから・・・それは、結婚をしたい、という意味合いなのですよね?きっと」
「まあ、そーでしょうね。指輪が欲しいって言われたんですか」
「はい」
あまりに素直にクロードが答えるのがまたおかしい。
「指輪なぞ、買ったことありませんから・・・どうしていいやら。あなたはそういうことは得意なのですか?」
「んー、以前はね。そうかもしれません。今は・・・俺の場合は相手が相手だから・・・下手なもん贈るのも何かと思って、今はリターンリングで我慢してもらってますがね」
「ふふふ、それはまた」
クロードはくすくすと笑った。
「あの人は実用的なものがお好きでしょうから、それはそれでお似合いですね・・・ああ、皮肉を言っているわけではありませんよ?」
「はは、わかってますって。俺もそう思いますからね。しかし、いっくらなんでも好きな女に贈るのが勇者の剣にリターンリング、ってのは色気がないもんです。ちょっとだけ反省」
「ふふ」
クロードは胸元に軽く鈴があたるのを感じながら、足を運ぶのだった。

「・・・どういうことだ」
部下からの報告をうけて、アイーダは眉を潜めた。
「ですから、今申し上げたとおり、あの二人はヴェルトマー城内には」
「・・・ちい!」
何故気付かれたのだろうか?
いくら考えてもそれは思いつかない。
ブリギッドとデューをヴェルトマーに残したいと申し出てきたのはシグルド軍からだったし、今朝の見送りから今まで、彼らに不信感を与えるようなことを自分は何かしてしまっただろうか?
投降したフリージ兵を別棟に監禁してあることに気付かれたのだろうか?いや、それはないと思われる。
彼女の聡明な頭脳をもってしても、一体何故、ここに留まると申し出ていた二人が、突然ヴェルトマー城を出て行ったのかがわからない。
しかも、彼らが城を出ようとすれば門兵達からの報告があってしかるべきだ。
「しまった」
甘く見ていた。
アイーダの脳裏にデューの顔が浮かぶ。
ヴェルトマー城前でキャラバンに紛れていた彼は、あそこで命をかけて、自分にアゼルのブローチを見せた。
それが彼にとっての精一杯だったとアイーダは思っていたけれど。
バーハラまでの検閲を一時停止して、誰も通さなくするためにアイーダはあの時、ヴェルトマー城を出て検問待ちの旅人達の前に姿を表した。それがデューとの出会いだ。
あの日のあの場所で彼女が現れることは誰も知っていたはずがない。
だから、あれはデューにしても予想外だったはずだ。
(であれば・・・もしや、ヴェルトマー城侵入まで手配を整えていただろうか?あんな少年が・・・?)
彼はキャラバンに紛れて検問を受け、そのままバーハラに行くつもりだったはずだ。
そうだと思えば、今アイーダが思いついた可能性はとても低い。
それでも可能性はゼロとは言えなかった。
見損なっていた、とアイーダは舌打ちをする。
確かにあの少年は命をかける場所を知っている、優れた嗅覚の持ち主だと彼女は判断していた。
けれど、別段剣の腕がたつ、とかそういった武術も優れているようには見えない。
それがアイーダにめずらしい甘さを引き起こしていた。
彼女には、デューの何が秀でていてシグルド軍に在籍していたのかを考える必要がもっとあった。
命をかけた彼に申し訳ない、とか、どこまで自分があの少年を騙せばいいのか、とか、結局この手にかけなければいけないのだろうか、とか、そんな感傷に浸っている暇なぞなかったのだ。
彼は、グランベル軍の追撃から逃げ、アンドレイを、ランゴバルトを、レプトールを葬ったシグルド軍の一人なのだから。
「馬を用意しろ」
確認しなければいけない、とアイーダはすぐさま頭を切り替えた。
城には必ず領主の危機回避のための抜け道がある。ここ、ヴェルトマー城も漏れず。
(・・・アゼル様はご存知ないはずだけれど)
デューを以前城内に導いて謁見をしたときはそれを使ってはいなかった。フリージ軍の目を盗んで、うまく裏口から彼を通すことが出来たからだ。
それに、抜け道のことは彼には言っていないし、彼もそれについては一言たりとアイーダには言わなかった。
けれども、もしかしたら彼はとっくに知っていたのではないだろうか。
それでも彼がその抜け道を通って自分に会いにこずに、ヴェルトマー城前で命をかけたのは、どう考えてもその方が彼にとってはリスクが少ないからだ。
城の中に侵入したとしてもどこに見張り兵がたっているかはわからないし、何かあって逃げようとした時に逃げ道は限られる。
そうであれば、どれだけ兵士が周囲にいたとしてもあれだけの人間で溢れ返っている外で接触をした方が、彼としてはいざというときに逃げやすい。
抜け道は地下道を通って、ヴェルトマー城南東の小さな森に出るはずだ。
そこにいけば、抜け道を通って最近誰かが出たかどうかをすぐに確認出来る。
抜け道には草で覆われた蓋がしてあるけれど、内側からそれを動かすことに寄って、周囲の土に植わっているはずの雑草たちが一度引き抜かれることになる。その痕跡さえ確認すれば、彼らがどうやって脱出したのかがわかる。
下手に兵士を連れて行けばそこが抜け道出口だということを知らせてしまうから、アイーダが一人で行くしかない。こればかりはヴェルトマー城領主、あるいは領主から留守を任された人間だけの秘密になるのだ。
アイーダが知る範囲では、現在その抜け道を知っているのはアイーダとアルヴィス二人だけのはず。アゼルはそれを教えてもらうような権利をヴェルトマー家ではもっていなかったのだし。
(この城のつくりが仇となったか)
本来ならば、城主の執務室なり寝室なりから抜け道を作るのが、使う側からすれば最も実用的だ。
けれど、いざという事態になったとき、それではあまりに気付かれやすい。
自分が追う立場であれば、城主の部屋をくまなく探すのは当然だ。
そこまでのことを考慮して、この城の抜け道は、何の変哲もない通路の一角に仕掛けられていた。
誰も注意するはずもない、普通に人々が行き交う通路に。兵士が見張るはずもない、要人の部屋が近くにはない場所を敢えて選んで作られていた。
「出かけてくる。探索部隊を編成して、ヴェルトマー城下町の南口で待機していてくれ」
「はっ・・・」
本当なら部下を引き連れていけば確認後すぐに追いかけられるのだがそうもいかない。それが歯がゆい。
まるきり、やられてしまった。
アイーダは彼女にしては珍しく顔を歪めながら、腰に剣をつけた。

「公子は、セリスを迎えにいったあとは、シアルフィとやらに戻るのだろう?」
不意に同乗していたアイラにそう言われて、シグルドは言葉につまった。
出産後で体力が完全には戻っていないアイラを思いやって、シグルドは彼女を前に乗せて、自分は背もたれ代わりになっていた。一応それはレックスに申し訳ないな、と断りをいれたところ、レックスは「アイラの方はきっと、これっぽっちも、なんで公子が俺に断りいれてんのか理解してないと思うぜ」とあっさりと笑った。
丁度それを聞いていたジャムカとアレク、そしてレヴィンは顔を見合わせて苦笑を見せた。
どうも悲しいことにそれは本当らしく、当のアイラはきょとんとしているばかりだったが。
お前本当、苦労するな、とか。そんな言葉をかけられたけれど、レックスにとってはまったくもって嬉しくもなければ慰めにもならない。
「違うのか?」
「・・・それは、迷っているんだよ」
「何故?」
馬を走らせるペースをわずかに落し、多少の会話を出来るゆとりが出てきた。
バーハラまであとわずか、という道標が街道に立っている。
ヴェルトマー付近に比べれば、時折行商人達の荷馬車ががたがたと走っている姿が見えるけれど、それでも相変わらず人気が少ない。ヴェルトマーバーハラ間の行き来を制限していた影響は、バーハラ近くの人の流れにも影響するのだな、とシグルドは丁度考えていたところだった。
「レンスターのことと、妻のこと。この二つがわたしにとっては大きな問題になっているからね」
「レンスター・・・」
その国について考えることは、アイラにとっても心が痛いことだ。今回のことに巻き込まれた、何も罪がない国。
そして、キュアンとエスリン。
シグルドの親友であった王子と、シグルドの妹であった、その妻。
この二人の死は彼にとってもつらいことだっただろうし、そしてレンスターという国の命運を左右する大きな出来事だったはずだ。
グランベルとトラキアが手を結んだと考えなければありえないような状況で、彼らは命を落としている。
それについてもことの真偽を確かめなければいけないし、シグルドはレンスターに行って自らレンスター王に頭を下げなければいけないと思っていた。
そして、何の慰めにもならないけれど、キュアンが愛したエスリンの兄である自分の子供、セリスを、レンスター王に会わせたいとも思っていた。
そしてもうひとつ。
生き別れとなった妻、ディアドラ。
彼女を、探さなければ。
「公子、ならば」
「うん」
「わたしにも、その手伝いをさせてくれないだろうか」
「何を言うんだい。君はイザークの復興を」
そんなことはアイラにもわかっていた。
アイラはレックスと共にイザークに戻り、シャナンを次期国王とするために力を尽くさなければいけない。
それに、あの悲劇が起きたときに、シャナンを守るという大義名分のために彼女が見捨てていった国民たちへの償いが、彼女に残されている仕事だ。
「それでも、何か出来ることがあれば・・・わたしが言わずとも、シャナンはきっと、そう思っているだろう。あの子はきっと永遠に忘れないだろう」
「永遠に、は大げさだよ。わたしはシャナンの責任だと思っていないし」
「それも知っている。それでも、多分あの子は」
アイラが言うこともあながち間違ってはいないことをシグルドも知っていた。
「あの子は自分を責めつづける。それでもあの子はこれからのイザークを担っていかなければいけない。だから、代わりにわたしに何か出来ることがあれば、と思う」
「その気持ちだけで、十分だよ。アイラ。君には愛すべき子供達が今はもういるんだろう?早くわたしも会いたいな」
「・・・ああ。わたしも、早く公子に見せたいな・・・わたしは、公子に命を助けてもらった。そのわたしが産んだ命だ。あの子供達は公子がいなければ、産まれていなかっただろう」
「ははは、それはちょっと言い過ぎだと思うけれど・・・わたしは、君とシャナンを助けることが出来て、本当によかったと思っているんだよ」
「・・・ありがとう」
「本当に、よかった」
わたしにも助けられる命があったのだと、そう思える。
シグルドはその言葉を飲み込んだ。
もちろんアイラはそんな彼の言葉なぞ気付くわけがない。
「公子」
「うん?」
「奥方が、見つかるように、わたしも祈っている」
「ありがとう、アイラ」
なんだかアイラにそういわれるのは心強いと思えた。シグルドは彼女には見えないだろうけれど微笑する。
と、そのときに、前方で一番先に馬を走らせていたレックス−ジャムカが現在のこの軍では最も視力がいいから、彼らに様子を見てもらいながら移動していたのだが−の馬が立ち止まるのが見えた。
「なんだろう?・・先に行く。みなはそのままの歩調で来てくれ!」
「はい!」
ノイッシュの力強い返事を確認して、シグルドは手綱を握る手に少し力を入れた。
「アイラ、ちょっと飛ばすぞ」
「わかった」
アイラが答えるか答えないかの間に、馬は力強く走り出した。みるみるうちにレックス達が止まっている地点まで距離を縮めてゆく。
「どうした!」
ジャムカがレックスの後ろで馬の鞍の上に立ち上がるという荒業を見せている。
「バーハラ方面から馬が何騎か近づいてきている」
レックスの馬のとなりにシグルドは自分の馬をつけて、街道の進行方向を見た。
なるほど、遠めにも街道の真中を走ってこちらに向かってくる騎馬隊が見える。
「あれは、グランベルの正規軍じゃないかな」
「何体くらいいる?」
「3、4体ってところかな。喧嘩を売りに来たわけじゃあなさそうだ」
「物騒なことを言うな、ジャムカ」
シグルドは眉を潜めた。
レックスも目を細めて前方を見る。
「ま、多分俺たちに用があるんだろうな」
馬のひづめの音が後ろからも前からも聞こえる。もちろん後ろから、というのは彼らの仲間のことだったのだけれど。
前方から近づいてくる馬達よりも彼らの仲間がそこにたどり着くほうが早かった。
シグルドはみなに街道の端っこに寄るように指示を出して、それから、出来るだけグランベルゆかりの人間だけが前に出るように、と一度アイラを降ろして下がるように言った。
やがて、彼らの目の前に、どうやらバーハラから派遣されたらしい4体の騎馬兵が姿を見せる。
重装備ではないことが遠目にもわかって内心シグルド達はほっとした。
「シグルド公子率いる軍勢とお見受けしますが、いかがでしょうか」
やがて、彼らの少し手前でその騎馬兵は馬を止めた。
先頭を走ってきた騎士が馬からかろやかな動きで下りて、うやうやしく彼らに向かって声をかけてきた。
「そうですが、あなた方は?」
「アルヴィス卿から、あなた方をバーハラまで護衛をするよう仰せつかって参りました」



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