祈りの狭間-9-

ぎゃああああ、と悲鳴が聞こえた。
それが、自分の声だと気付くのに時間がわずかにかかった。
こんな無様な叫び声をあげたことなぞ、今までの人生であったのだろうか?
痛い。
痛い。
何が痛いのだろうか?
降り注ぐ槍に全身を貫かれた痛みだろうか?
アイラは自分の口を抑えることが出来ないまま、その奇妙で無様な叫び声をあげた。
違う。
左腕が、捻じれるように痛い。
何か目に見えない力が彼女の左腕を掴んで、何かから引き剥がそうと強い圧力をかけているように思えた。
それでもアイラは、自分が掴んでいる「何か」を離すことが出来なかった。
今自分が一体どこにいて、そして何を掴んでいるのか、アイラは認識を出来ない。それほどまでに腕の激痛はひどく、いっそのこと切り落とせれば、という思いを彼女の脳裏に何度も何度も訴えかけていた。
「ああああああ!」
ひきつれた叫びを抑えることが出来ず、アイラは叫びつづけた。
「早く!エーディン様!」
「・・・空間が捻じれている・・・フュリー、まだ近づいてはいけません!」
聞き覚えがある声が、痛みに支配されていた彼女の脳を刺激する。
「アイラ様・・・放さないで!放しては、いけない。そのまま。まだ放さないで!」
何度も繰り返し同じ単語が耳に入ってくる。
まるでそれは、子供を出産するときに、まだ力をいけてはいけない、力をぬいて、と何度も何度も繰り返されたときに似ている。アイラはただひたすらその声に素直に従い、痛みの中でもその「何か」を放さないように意識を集中させた。
「ああああ!腕・・・腕がっ!!」
「駄目。放さないで!」
ひきつる叫びが交錯したその瞬間に、耳障りな音が響いた。
ぱきん。
何かが砕ける音。
と、その瞬間それまでの痛みが突然消え、次は突然ずるり、と自分の左手が重くなった感触をアイラは感じる。
「・・・あ、あ、ああ・・・」
かちゃん、と小さな音をたてて、床の上にリターンリングの破片が転がる。
一体何が起こったのかわからなかった。わからなかったけれど、気付けばアイラの左指はレックスの左指に絡められて、まるでそのまま硬直してしまったかのように動かない。
次に彼女が気付いたのは、床の上に広がるぬるりとした液体。
それは、レックスの血だ。
「な・・・何が・・・起こったの・・・?」
そう呟いて呆然と立ち尽くし、彼らを見るのはティルテュだ。
「フュリーはアイラ様の手当てを。わたしはレックスを」
エーディンは赤く染まったもともと白かったはずのローブをつけたままで、新しいリライブの杖を振りかざした。
一体何が起こったのかわからないまま放心して床にへたり込んでいるアイラへは、フュリーがリライブの杖を振る。
「・・・ここは・・・」
「アイラ様、ここは、リューベック城です」
「リューベック・・・」
「あなたは、リターンリングで、ここに飛んで来たのですよ」
「リューベック・・・城・・・」
「そうです。アイラ様は、リターンリングで、ここに、飛んで来たんです」
手当てをしながらフュリーは眉根を寄せて、小さい子供に言い聞かせるようにもう一度同じことをアイラに伝えた。
「・・・では・・・わたしは・・・」
「あなたは、助かったんです・・・アイラ様」
「・・・ベオウルフが・・・城門に向かって・・・ああ、ノイッシュも・・・」
ぼそぼそとアイラは呟く。
「いいです、アイラ様、もう、安全なんですよ」
彼女の様子を見てフュリーは涙ぐんでいた。
アイラの体は無数の傷が全身についており、表面に血が固まっている状態だ。もともと軽装だったその服はあちこちが切り刻まれ、しかし剥き出しになった皮膚は肌の色を見せていない。汚れなのか血なのかの判別がつかないその姿は彼女達に衝撃を与えていた。
ローブが血まみれになっているけれども傷をそうそう負っていなかったエーディンとは雲泥の差で、一体彼らに何が起きたのかをアイラのその傷は彼女達に見せつけるものとなった。
こんなに無残な状態を見たことがない。
彼女の爪の間にはすべて血が入り込み、奇妙な色に染まっていたし、砂にまみれた髪や服の切れ端は炎にあぶられてところどころ焦げて、血の匂いとあいまって異臭を放っていた。それが今でも彼等の鼻でもわかることが、本当に今この場に現れる寸前まで戦場にいた、ということを物語っていた。。
けれど、アイラ本人にとって気になっていることは惨状を見せ付ける、そういった傷や血の汚れではない。顔に飛び散った血にくっついて固まってしまっていた髪を右手ではがして、アイラははっとなる。
体の痙攣が治まって、動ける・・・。その安堵感で、アイラはふうー、と息を深く吐き出した。
フュリーは丁寧にアイラの体を治療をする。
何故かフュリーは鎧を身につけていた。それは、先にここに送り込まれたエーディンから事の次第をかいつまんで聞き、それをこれからラーナ王妃に直接知らせにいこうとしていたからだとはもちろんアイラには知るよしもない。
アイラが冷静になるまでかなり時間を要した。
彼女の頭は混乱しており、何故自分がリューベック城にいて、そして何故傷をこんなにつけているのか、ということすら記憶が一本に繋がらないほどだ。
生死の境を一度越えてしまえば、今ここに自分が生きている、ということ以外のことが、何の意味がないようにすら思える。
「エーディン、あなたは、もう、大丈夫?」
おそるおそるそう口にするのはティルテュだ。それへ一度杖を行使する手をとめてエーディンは小さく微笑んだ。
「大丈夫、とはっきりいう勇気はないけれど・・・わたしを必要としている人が、ここにいるのですもの」
そのやりとりを耳にして、フュリーはアイラに
「エーディン様も・・・先ほどまでご自分を取り戻すのに時間がかかられて・・・放心状態だったので・・・」
「そう・・・か」
と答えるが、アイラの方はこれまたそれがどういう情報で、何の意味があるのかしばし判断できかねる様子であった。
やがてエーディンが「これで、いいわ・・・」と呟いてレックスの傍らから離れたのを見て
「レックス・・・レックスは、生きているのか、エーディン」
ようやくまともなことを言えるようになったらしく、アイラはそう問い掛けた。
フュリーは、とりあえず体を拭くためのお湯をもってきます、と言い残してその場を離れる。
ティルテュは人心地がつけるように、と茶を運んでもらうよう女中に頼んでくれた。そういった他愛もないことが今のアイラにもレックスにも必要だと思える。
「ええ・・・多分大丈夫でしょう・・・ただ」
「ただ?」
エーディンは、おそるおそるアイラに聞いた。
「アイラ様、左腕・・・動きますか」
「え?・・・っ!?」
アイラは左腕に力を入れた。入れたつもりだったけれど、自分の左腕は何も言うことを聞いてくれない。
未だにレックスと指を絡めたままの彼女の左腕はまったく自由にならず、痙攣していたときよりも更に酷い状態になっているように思える。
神経が通っていないのだろうか?いや、レックスの指の感触は伝わってくる。が、その神経と筋を動かす神経は違うのだろうか?一体どうなってしまったのだろう。
アイラは愕然として、乾いた声を絞り出しながらエーディンを見た。
「・・・う、ごかな・・・」
「リターンリングの制約を破って、二人分の転送を願ったのですね。何が起きたのか、わたしにはわかりますわ・・・杖を行使するものが、最もやってはいけないことを、アイラ様はご存知ですか」
「い、いや・・・」
「その杖の力以上の効果を願うこと。そして術者の技量を上回る杖を行使すること。それは禁じられているのです」
「一体」
エーディンはアイラの側に寄り、毅然とした態度で話し始める。
「先ほどの痛みは、リターンリングがレックスを振り払おうとする力です・・・それでもあなたはレックスと共にどうしてもいたかったのですね」
「・・・」
「個体の認識をして魔力で飛ばすのに、あなたの左手に触れているものが、個体としてみなされないものでしたから・・・それでリターンリングは排除しようとしたのです。普通は簡単に行われているので、意識することはないのですが。さきほど、アイラ様の姿が現れたとき、アイラ様の左肩までしかこのリューベック城に転送されていませんでした」
「左肩・・・」
「リターンリングの制約を無視した報いで、本当ならば左腕を残して空間が閉じてしまってもおかしくないのです。けれど、あなたは運が良かった・・・リターンリング自身が左手に存在していたのですから、それは出来ない。多分・・・非常に曖昧な推測ですけれど・・・あなたは、リターンリングの魔力を超えるほどの力を行使させた。だから、リングは割れてしまいましたね・・・」
「そんなことが、出来るのか?」
エーディンは首を横に振った。
悲しそうな表情で、アイラを見つめる。
「だから。それは、あなたの左腕と引き換えになったではないですか」
「引き換えに・・・そうか、わたしの左腕は、もう動かないのだな?」
「それは、わかりません。動くようになるのかもしれません。そういう前例は、あまり聞かないので」
アイラはもう一度自分の左腕に力をいれてみた。けれど、彼女の左腕は悲しいことにぴくりとも動かない。
もしもあの惨劇以前にこのようになれば泣き叫びもしたのだろうか?
心のどこかが麻痺をしているように、彼女には今の自分の状態が大事だとあまり思えなかった。
少しだけ考えるような表情を見せたあとでアイラは静かに呟いた。
「・・・安いものだ。二人分の命と引き換えならば。あの場から逃げることが出来たことすら奇跡なのに」
「ええ。本当に。本当に。よく、あれだけの傷を負って、生きて・・・」
「アイラ様・・・無事で、よかった・・・」
ティルテュは泣きながらアイラの傍らに近づいた。アイラはそっと右腕でティルテュの頭をなでようとし、自分の右手に血が凝り固まっていることに気付いてその手を引っ込めた。
けれど、ティルテュはそんなことには意味がない、とばかりにアイラの体に軽く抱きつく。
先ほどまで、アイラの周りには死体の山が広がっていた。
まるでそれが夢のように、何事もなかったかのようなこの城で柔らかなティルテュの感触を得ることが、アイラにはあまりにも不思議でたまらない。
(ああ・・・わたしは、ここを「帰る」場所に選んだのか・・・)
「エーディンはどうやってここへ?」
「・・・わたしは」
それからエーディンは自分の身に起こったことを淡々と告げた。レックスが起きればもう一度同じ事を話すことになる、それは辛いからアイラから説明してやってくれ、とエーディンは前置きをする。
初めにジャムカが。
アイラは衝撃を受けたような表情はひとつも見せずに、床に腰を下ろしたままで静かに聞いていた。
アレクが、アーダンが、そしてミデェールが。
エーディンは、彼女が確認した、間違いなくもはやこの世にいないだろう人々の名を連ねた。
それから彼女が確実にワープを行使したアゼルについて。行き先は自分では責任がとれなかった、と告げ、ティルテュに「ごめんなさいね」と謝る。
「もういいよ。だって・・・生きてるなら、探しにいけるし、きっと探してくれる。でも、エーディンは、ジャムカ王子をっ・・・」
そう言ってティルテュは顔を背けた。エーディンはそっと瞳を伏せる。
エーディンとて、あの惨劇からここに戻って来たのはアイラ達と大して変わらない時間だったはずだ。
アイラはやっと、エーディンはもしかして、自分やレックスのように傷ついて、エーディンの力を必要としている人間がここにいたことで落ち着きを取り戻したように見えているだけで・・・本当はなんら自分と変わらぬ衝撃を受けているのだ、ということに気付いた。
が、ユングヴィの公女は気丈にも涙を見せずにアイラに説明を続けた。
「レヴィン王子は、瀕死の状態でした。でも、クロード神父が」
あの状態では生きられない、と彼女には思えた。けれど、クロードは何を思ってかレヴィンをワープで飛ばせと命じた。それはきっと意味があることなのだろうと彼女は告げる。そして、それだけが今のフュリーの心の支えになっているのだろう、と。
クロードはシルヴィアをワープさせる、と言っていた。それだけが自分の知るすべてだ、とエーディンは彼女の報告を終えた。みなはアイラに視線を注ぐ。それをうけてたどたどしくアイラは自分が置かれていた状況を説明し始める。
「・・・わたしは・・・一人で・・・。ただ、ひたすらに、戦っていた。だから、誰の生死もわからない。ホリンが死んだのではないか、と思うが、それもただの予想だ」
「何故、リターンリングですぐに逃げなかったのですか」
「・・・もう、逃げるのは、嫌だった。わたしは、イザーク王族の血を守るためにあの日、イザークの民を見捨てて国を出た。それを繰り返すのは・・・もう、許せなかったのだ」
「アイラ様」
「もう、誰も失いたくなかったのにっ・・・そのためなら、誰に、謗られようと・・・向かってくる者達を切り捨て続けようと、わたしは思っていたんだ・・・」
アイラのその呟きを境に、誰もが黙り込んだ。これだけ血にまみれた彼女の口から発せられるその言葉はあまりにも生々しい。
ただひたすらに戦い、誰に謗られようと向かってくる者達を切り捨て続けよう。
あのときの極限まで達した、追い詰められた精神状態を思い出してアイラは瞬きを止め、呼吸をも止めた。
ふ、と蘇ってくる感覚は、先ほど得られた安堵感を一瞬にして彼女から奪ってゆく。
お互いの報告を終えてそこに残ったものは、この無慈悲で理不尽な運命への憤りだ。
「・・・なんてことだ・・・」
だん、とアイラは動く右手で床を叩いた。
はあ、はあ、と荒い自分の息遣いを聞きながら、彼女は瞬きを忘れて意味もなく床を睨みつけていた。
体が怒りのあまりに熱くなる。
悔しい。
何もかもを踏みにじられた怒り、憤り。
生死が背中合わせになったあの場から離脱したことで、彼女に残されたのはグランベルに対しての、いや、アルヴィス卿に対してのその感情だ。
(公子・・・あなたが信じた祖国は蝕まれていた・・・)
グランベルという国のあさましさをまた見せ付けられた、とアイラは思う。嫌というほど思い知った。もう自分の父親のマナナン王はとうの昔にグランベルの者の手によって葬り去られていたのだろう、と。
わずかの希望を求めて、今までの旅が報われたと少しでも喜んだ自分達をあざ笑うような結末を、どうやって許容しろというのだろうか。
あまりの憤りのために息が苦しいように思える。と、そのとき
「アイラ様、息を正しく吸ってください!さっきから、呼吸が早すぎるし、それに、深い!」
エーディンは険しい声で叫んでアイラの口元に両手をあてた。そうすることでアイラの意識を己の呼吸に集中させようという行動だ。びくり、となってアイラは言われたとおりに息を吸おうとする。
「アイラ様っ・・・」
ティルテュもまた眉根を寄せてアイラの名を呼んだ。
アイラは過呼吸を起こしていた。緊張のために引き起こされることが多いそれが、感情の昂ぶりによっても起きるということをエーディンは初めて知る。
アイラはエーディンとティルテュの声でそれに気付き、意識をして息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、と彼女は繰り返す。
しばらくして、少し落ち着くと、アイラは天井を仰いで吐息まじりの声を漏らした。
「・・・・ああ・・・」
「アイラ様」
「何故、生きることが、こんなに難しいんだろう・・・」
ティルテュはその言葉にはっとなった。
それは、いつのことだっただろうか。自分がレプトールの娘であるに抗う術もなく、シグルドにそっと彼女が漏らした苦渋の言葉とまるきり同じことをアイラが口走ったことに気付いた。
「呼吸することすら、今のわたし達には難しいんだろうか?」
そういいながら、アイラは天井を仰ぐ自分の顔を右手で覆った。だらりと垂れ下がる左手はレックスの左手とまだ結ばれている。
エーディンはそっとアイラとレックスを繋ぐ手に触れた。
アイラの左手は動かないから、レックスの手から自ら離れることが出来ない。レックスは未だに気を失ったままでぴくりとも動かない。それでもエーディンの丁寧なリライブのおかげで彼の傷はもう命を脅かすものではない状態まで回復をし、心持顔色も良いよいに見える。
エーディンは一本一本アイラの指をレックスの手から離すように動かした。
が、アイラはそれを止める。
「・・・いいんだ、エーディン・・・もう少し、このままでいさせてくれ・・・」
「アイラ様」
「もう少し・・・」
アイラはエーディンを見て、そして唇を噛みしめた。
「もう少しだけ、このままで・・・レックスが気付くまで・・・」
と、その言葉を遮るように、聞きなれた声がゆっくりと響いた。
「・・・それはいいんだが・・・泣くなよ・・・」
「!」
ゆっくりとレックスは瞼を開ける。その瞳は初め焦点があっていないように見えたけれど、やがて数回の瞬きを経て生気を取り戻したように見えた。
「レックス!」
ティルテュが叫んで彼の側に膝をついて心配そうに覗き込む。さっきまでの重傷状態を見ていたから、こんなに早く目覚めると誰も思っていなかったのだろう。
レックスは仰向けになったままで、天井を見つめ、それから顔を動かした。
彼の右手にも血がこびりついていたけれど、その大きな手が動き、アイラに差し出される。
先ほどのティルテュのように、アイラもそれを気にすることなくその手に頬を摺り寄せた。
「レックス・・・」
「生きていれば、なんとでもなる・・・お前が、助けてくれたんだな?」
どういう根拠があってそうレックスが断定するのかはわからなかったけれど、その確信に満ちた言葉に頭だけでこくこく、と頷いてアイラはレックスの大きな手のひらに何度も何度も頬を摺り寄せた。
アイラの涙が彼の手を濡らし、そこにこびりつく血の塊を緩やかに溶かす。それに気付いて、あ、とエーディンが困ったように声を出した。けれど。
「こら、アイラ・・・泣くな・・・」
レックスの手の汚れが顔につくのも気にせずに、彼女は自分の左腕と引き換えに守った男の手から顔を離さなかった。
彼らを絶望の底に貶めた神という名のものに、心の中で呪いの言葉と感謝の言葉を繰り返しながら。

生き残った人間は、生き残った人間がしなければいけないことを考えるべきだ。
レックスは冷静にそう言い切った。
体の傷がおおよそ癒えた二人とエーディンにフュリーが湯浴みを勧めたが、そんなことをしている場合ではない、とアイラは焦りをかくせずに答えた。
仲間が死んだというのに。あるいは。
もしかして誰かがまだ生き残っていて、あの戦場で戦っていたら。
そう思うことは彼等を簡単に当たり前の日常生活に戻らせてはくれない。
が、レックスは無理矢理エーディンとアイラに湯浴みをさせるように女中に頼んだ。
それからレックスはティルテュと共に、イザークに行く準備を始めた。
ラーナ王妃への報告はフュリーに任せること、エーディンとアイラ、それから子供達をつれてイザークへいき、一日でも早くオイフェ達にことの次第を教えること、そしてすぐにティルテュもシレジアにフュリーと行くこと。
これがレックスが気がついてからほどなくして、矢継ぎ早に彼等に提案した事項だった。
あまりに彼が主張することは正しく、それがゆえによくもまああの惨劇を見てもここまで冷静になれるものだ、とみな驚きを隠せない様子だった。けれども、誰かがそうならなければ、きっと彼等はいつまでも動き出せずに衝撃に身を委ね続けるだけだっただろう。
「双子ちゃん、まだ会ってないでしょ」
「ああ、いい、俺も湯浴みしてから・・・こんな状態で会うのはちょっと、な」
フュリーが持って来てくれた湯で顔と手は拭いたけれど、まだ彼は凄惨な戦の様子を物語る姿のままだった。
女中に頼んでもってきてもらった旅用の道具をひとつひとつ確認してレックスは荷造りをする。
「レックスは案外冷静なのね・・・」
まだショックからうまく立ち直れず、いや、いまだに起こった出来事を信じきれないティルテュはそう呟く。
「・・・ああ、そうかもな。男は女より合理的だからな・・・」
それは、嘘だ。
エーディンが、傷ついたレックス達を前にして「治療をしなければ」という気持ちを起こしたことで自分を取り戻したように。
レックスは、自分が今何かをしていなければ気が狂ってしまうのではないか、というほど心が乱れていることを理解していた。
どうにもならないその感情が彼を突き動かし、前へ、前へ、と彼が立ち止まることを許してくれないのだ。
こうやって手を動かしていても、目の前の道具を見ていても、時折彼の目は違うものを映す。
彼の視覚はまるで、網膜に焼き付いてしまったかのようなあの戦場の様子を今でも彼の脳に伝えてしまうし、彼の手はまるで、今皮袋に入れようとしている道具箱ではなく血塗られた斧の重さを伝える。
蝕まれている、と思えた。
何が?自分が?
レックスは舌打ちをして、乱れる気持ちを抑えてただひたすらイザーク行きの準備をしていた。
本当に、それしか、今の彼に出来ることはなく、それをしなければまるで生きていられないような。そんな気すらした。

やがてレックスはようやく湯浴みを終えて、アイラが待つ、子供達がいる部屋に案内された。
ふたつのゆりかごが並んでいた。その間にアイラはしゃがみこんでいる。
「・・・レックス、来たか」
「ああ。やっとさっぱりして・・・色男になって子供達に会える」
いつものようにそんな風なことを言っても、二人はあまり上手く笑えない。
レックスはそっとひとつのゆりかごを覗いた。
アイラと同じ色の髪をもつ赤子がすやすやと眠っている。
「そちらはラクチェだ」
「そうか、ラクチェか」
「こちらがスカサハだ」
「ああ・・・。本当に双子なんだな」
そういいながらレックスは二人の赤子の顔をきょろきょろと覗き込んだ。なんだかむずがゆいな、と彼は少し照れたようにも見える。
ラクチェの寝顔をじーっと見て、その小さな手をつついたりしていたけれど、やがて
「・・・アイラ、ありがとう。こんな健康な子供達を産んでくれて」
レックスはアイラから目をそらしたままでそう言った。それは彼にしてはめずらしいことだったが、アイラはあえて何も言わなかった。
「どういたしまして・・・何をいまさら」
「こんな形で対面しようとは思っていなかったけれどな」
「ああ・・・そうだな」
本当ならば。
もっと幸せな対面をするはずだった。そして、もっともっと幸せにイザークへ向かうはずだった。
なのに。
「アイラ・・・すまなかった」
それからレックスは床にしゃがみこんでやっと彼女の顔を見て、その左腕をそっと手にとった。
彼女の腕は力なくぶらさがっており、レックスが自分の手で彼女の手を包んでも、何の抵抗も感じない。
「俺が、おまえにやったもののせいで・・・お前の左腕が」
「馬鹿を言うな・・・。それで、お前を助けられて、わたしも助かって、今ここにこうしているではないか・・・」
「・・・ああ」
アイラはレックスをまっすぐ見つめた。
彼女の瞳には生気が蘇ってきており、もうこれっぽっちも取り乱した風はない。
「お前が言ったんだ。生きていれば、どうとでもなると・・・だから、謝るな・・・二人を同時に抱き上げることは出来なくなったけれど、それはお前がやってくれる・・・。あとは、足手まといにならないことを祈るだけだ」
「お前が足でまといになるわけがない。心配するな・・・足手纏いになるのは俺のほうかもしらん」
レックスはそう言って、アイラの動かなくなった左腕を愛おしげに抱きしめ、彼女の肩にこつん、と額をのせた。
「レックス・・・?」
「アイラ、すまない」
「レックス」
「今の俺には、グランベルを止める力は、ない。イザークの民に受け入れられる自信が・・・ほんの少し、また揺らいで来た」
「・・・レックス」
アイラは自由に動く右腕を、レックスの背に回した。
そして瞳を閉じる。
また、彼等のしがらみが。
この謀略を暴くことによって、少しでも解き放つことが出来ると信じていたしがらみは、いまだ彼等の足枷になって重くひっぱる。
アイラは首を横にゆっくりと振った。もちろんアイラの肩に額をのせてうつむいているレックスには見えないけれど。
「それは、もういい・・・生き残った人間は、生き残った人間がしなければいけないことを考えるべきだとお前が言ったんだぞ。出来ることから少しづつやろう・・・」
「ああ・・・」
そのとき、ラクチェが突然高い声で泣き始めた。
何の前兆もなかったそれに二人はびっくりして、アイラはするりとレックスの体から離れてラクチェを覗き込んだ。
「・・・レックス、すまない、わたしの代わりに、この子を抱き上げてくれないか」
「ああ」
右腕一本では、まだ抱き上げることは出来ない。
アイラは愛しい子供を自分の手で抱けないことのもどかしさゆえに、わずかに眉根を寄せてレックスに頼んだ。
おぼつかない手つきでレックスはラクチェを抱き上げる。アイラが脇から、抱き方を教えてくれた。
こんなときでなければ、この行為すら明るく楽しく、ふざけながら行えたはずなのに。
ああ。
この声はいつか聞いた。
レックスは泣き続けるラクチェをぎこちなく抱き上げ、軽く揺らしてあやした。
そうしながら彼の記憶巣に仕舞われていた、彼等の遠い産声を思い出す。
ああ、やっとお前達に会えたんだな・・・。
そう思う喜びよりも、この子達と自分達のこれからの未来を思い描いて、レックスは唇を噛み締めた。
それでも腕の中のラクチェは徐々に静かになり、彼が揺らす動きに目を閉じて再び寝息を立て始める。
彼のその渋い表情に気がついてアイラは怪訝そうに声をかける。
「レックス?」
「この子達にとって、住みよい世界を用意してあげることが・・・出来なかった・・・」
そして、自分達にとっても。
言葉にならないそれは、アイラには伝わっている、とレックスには思える。
「レックス、これからだ・・・まだ、わたし達には出来ることがある。そうだろう?」
「ああ」
「まだわたし達は」
「・・・ああ」
戦いの中にいるのだ。
アイラは続けなかったけれど、そうレックスに伝えようと彼をみつめた。
レックスはそうっとラクチェをゆりかごに戻し、それから耐え兼ねたようにアイラを乱暴に抱きしめた。
突然の彼のその荒々しい行為に驚いて、アイラは小さく声をあげたけれど、彼はそのまま抱きしめる手にいっそう力を込めた。
「俺が・・・俺が、絶対守ってやる!もう、これ以上の・・・これ以上の災いが何一つお前に降りかからないように・・・!」
「レックス」
「・・・すまなかった・・・」
それが何に対する謝罪なのか、アイラには正確に判断は出来なかった。
力が及ばなかったことだろうか?
グランベルの仕打ちのことだろうか?
アイラの左腕のことだろうか?
そのどれも確かだったけれど、そのどれだろうがアイラにとっては意味のないことだった。
アイラは右腕だけで、彼の体にすがりついた。それから、もう止まったと思っていた涙がアイラの両眼から流れ出した。
とても冷静に見えていたけれど、レックスの心も痛みに苛まされていることが伝わる。
今の自分達は、あまりにも。
大きな力の前ではとてもちっぽけで、抗う術がない悲しい生き物だ。
こうやって体を寄せ合ってお互いのぬくもりを確認しなければ、生きているということすら実感が出来ない、とてもとても弱くて情けない生き物なのだ、とアイラはぼんやりと思っていた。
そしてあの憎い巨大な力への憤りで破裂しそうになる自分を抑えることが今の彼らにとっての精一杯なのだろう。
その、あまりにも力ない自分達。
そっと目を伏せてレックスの腕に体を委ねてアイラは祈った。

神様、他にはもう何も望みません。
わたし達に力をください。
わたし達に力をください。
わたし達に力をください。
わたし達に力をください。
わたし達に力をください。
わたし達に力をください。
ただ、守るべきものを守るだけの、それだけの力を。

けれども神とやらの応えはもちろんない。
後に残るのは、グランベルという国だけではなくそれに関わったすべての人間が、あの国に起こった変化によって何かしらの病原を植え付けられて、それが広がっていくような予感と、そして。
行き場のない怒りと悲しみ、ただそれだけだ。
こんな終わりではないような気がする、とずっとアイラは思っていたけれど、ようやく、それが当たり前だということに彼女は気付いた。
これは、始まりなのだ・・・。
何かが彼等にそう訴えかける。それが何なのかはわからないけれど、有無を言わさぬ真実の声ではないかと思えた。
そして、いつまでも二人はお互いの体温から離れることが出来ず、ただただ臆病な生き物のように身を寄せ合うだけだった。


Fin

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モドル