片言の祈り-2-

突然シグルドに呼び出されたベオウルフは、おもしろくなさそうに事の顛末を聞いていた。
エスリンがどのように喜びながらシグルドに報告したかまで、彼はおおよそ想像が出来た。
ああ、あの奥さんはほんっとーに人がよさそうだからなあ、なんて思いつつ。
ラケシスに関したことになるとシグルドはオイフェすら人払いをすることがある。それは、時としてこのフリーナイトが大層年齢相応の、大人の会話を持ち出してくるからだ。
「んで?そんなあなたの妹さん報告を俺にするためにいちいち呼び出したんですかね、大将は」
「そう思うかい?」
「もしそうだったら、大将は余程の心配症か能天気な人間ってことですがね・・・」
シレジアに来てから、エルトシャンの死によって気が塞ぎこんでいたラケシスを立ち直らせるために、ベオウルフに彼女に対する全権を委ねたのはシグルド本人だった。それ以来、シグルドがベオウルフを呼び出したときの話の内容6割はラケシスのことだし、ベオウルフがシグルドのもとにくる(これはもともとたいして多い回数でもなかったけれど)7割はラケシスのことだった。
「エスリンは喜んでいたよ。私はそうそう喜べなかったけれど、そう言うわけにもいかないからね」
「へえ。なんで喜べなかったんだ、公子様は」
「君なら喜んだかい?」
「さてね・・・もう一杯、いいかい?」
「どうぞ」
ぱちぱちと暖炉の火がはじける音が響く。シグルドがベオウルフを呼ぶのは決まって夜だ。その理由は簡単で、シグルドと酒を軽くでも飲み交わす相手はこの軍にはあまりいない。酒が好きな人間といえばアレクを筆頭にベオウルフ、ホリンと来ている。そりゃあレックスだって飲むは飲むけれど、彼はアゼルと酒を交わす方が楽しいのだろう。結果、なんとなくシグルドはレヴィンと今後の話などをしながら酒を飲むことが多くなる。
もともとシグルド自身多く酒を摂取する方ではなかったが、ここシレジアに来て、温めた酒の新しい味を知って、多少は酒量が多くなったのは事実だ。キュアンは甘党で、どうもシグルドと飲む酒の種類が合わない。
そして、ありがたいことにベオウルフがこと酒に関してだけはシグルドと味覚が合うのだということをつい最近知った。
ベオウルフいわく、じゃあホリンと公子も味覚が合うんじゃねえか、とのことだが、残念ながら不思議とホリンとシグルドは共通の話題がない。・・・とはいえ、ベオウルフとも今はかろうじてラケシスの話がある、というだけなのだが。
まあ、そんなわけでシグルドはベオウルフに話があるときはなんとはなしに夕食後、酒を多少飲みすぎてもいい時間、を選んでしまうわけだ。
「ま、率直に言うわな。キュアン王子達が、もうすぐ、春がもうちっと近づいたらレンスターに帰っちまうから、その前に無理でもあんたの妹君を安心させようと思ったってわけだろ」
「やっぱり、そういうことだと思うかい」
ふう、とシグルドは溜息ともつかぬ息を吐いた。
ソファに体をうずめながら、彼は暖炉で温めた酒に口をつける。
強いアルコール臭が立ち上ってくるが、それだけではない香ばしさが彼を喜ばせる。
「どこが、大丈夫になった、だよ?とか俺は思うんだけどな。そりゃあ、一時期に比べればかなりマシにはなったとは思うけど」
「ラケシスのそんな言葉を聞いて、エスリンだって手を返したように彼女の前でわたしを呼ぶようにはならないと知ってはいるんだけどね。ただ、どっちにしろ、ラケシスがそうやって誰かのことを思って、たとえ嘘だとしても・・・人を安心させようと努力をし始めたというのは、いい傾向なんだろうな」
「ああ、それは間違いねえ。でも、あのお姫さんはそういうときはなんだかやり過ぎちまうからなあ」
そのベオウルフの言葉の響きに、シグルドはおや、とわずかに眉を動かした。
どことなく愛情を感じさせる、その声音。
そのベオウルフの言葉から、困ったもんだ、といいながらもラケシスをどこかで慈しんでいるのではないかとシグルドには思えてしまう。
ベオウルフは行儀悪くカウチに片足を乗っけて
「で、俺のそういう判断を聞いて、どうするつもりなんだい、大将。あんまり、意味がないことだろう。ラケシスの言葉が本当だろうが嘘だろうが、そいつは、さ」
「ああ、それは、もちろんだよ」
シグルドはゆっくりと肯定した。それから改めて話を切り出すタイミングを計るようにソファに座りなおす。
「実はラケシスにね、キュアン達がレンスターに帰る事について、個人的にこの前話したばかりだったんだ」
「はあ?なんだよ、大将も人が悪いな・・・なんでそんな話をしてんだ、いちいち」
ベオウルフはわざとらしくしかめ面をシグルドに見せる。
それを気にせずにシグルドはさらりと言葉を続けた。
「彼女に、キュアン達と共にレンスターに行ったらどうだろうか、と提案をした」
「・・・なんだって?」
その思いもかけないシグルドの言葉に、ベオウルフはさらに険しい表情を作った。
さすがのベオウルフでも、ラケシスと突然離れる話になればそうも感情的になるか、とシグルドが思った矢先
「んな、キュアン王子達に面倒を押し付けることを」
「面倒、かな?逆にいいと思うんだが。ありがたいことにエスリンもフィンも馬を操るから、お互いの足並みは乱れない。それに今のラケシスはマスターナイトだ。キュアン達の足手まといになることはこれっぽっちもないよ」
「そういうことじゃないと思いますがね。あの我儘姫さんの相手を任せるってことなんだから、面倒に決まってる」
「その割に君は最近あまりラケシスを構っていないみたいだけど」
「・・・それは認めるが、そういう話じゃないだろう」
ベオウルフはわざとらしく肩を竦めた。
シグルドは酒をわずかに口に含んで、変わらず穏やかに答えた。
「今日彼女はわたしのもとに来て、もう少し考えてみる、と言っていたよ」
「考えてみる?ああ、ついてくかついてかないかってことか」
「うん」
シグルドはそれ以上は言わなかった。
その様子を見てベオウルフは心の中で舌打ちをする。
この大将もなかなか侮れねえんだよな・・・とかなんとか小さなぼやきと共に。

夜のセイレーン城はとても冷え込んでいる。
シグルドの部屋から退出したベオウルフは、白い息をはきながら通路を歩いていた。
実のところ、彼は朝夜のこういった静かな底冷えがする寒さは苦手だ。
外に出て突き刺さるほどの寒風にさらされる方がまだましに思える。
「ううー、さぶさぶ」
こんな夜は熱くした酒をぐいと飲んでベッドに入るのが一番だ。
そんなことを思いながら歩いていると、見慣れた人影が少し離れた通路を横切ろうとした。
(なんてこった)
誰かが何かを仕組んでいるんじゃなかろうか、なんてベオウルフは苦笑をする。
ラケシスだ。
「お姫さん、こんな時間に何してんだ」
「!」
あまり大きな声を出さなくとも、静まり返った通路では十分に彼の声はラケシスに届いた。
足を止めたラケシスはたくさんの薪をくくった縄を両手にぶらさげている。肩からかけた白いおおぶりのショールは胸元で軽く重ねて、髪留めのようなもので留められていた。
「薪を補充するのをね、忘れていて」
「うん?どれ、片方持ってやろうか」
「結構よ」
「そうか」
誘いを断わられたベオウルフはあっさりと引き下がった。彼は別にフェミニストではなかったし、むきになってラケシスを従わせたいわけでもなかったから、二度は言わない。代わりに彼は、世間話のような呑気さでラケシスに聞いた。
「あんた、レンスターに行くのか」
その言葉に反応して、ラケシスはあからさまな不快感を表情に出す。
じっと自分より背が高いベオウルフの顔を見上げ、それから更に不快さを感じさせる、わずかに苛立ちを含んだ声で今度は彼女の方から聞いた。
「・・・シグルド公子から聞いたの?」
「ああ」
悪びれもせずにベオウルフがそう答えると、ラケシスは視線をそらした。
「考えている途中よ」
「そうか」
それから彼女はうつむきがちに、ベオウルフに向かって薪を持った両手を差し出した。
「片方とは言わずに、両方持って頂戴」
「・・・おおせのままに、お姫さん」
気丈そうに、いつもと変化のない口調を保とうとしているけれど、少しだけそれはくぐもった声だ。
ベオウルフは彼女の手から薪を結んだ縄を受け取った。
(・・・冷たいな)
わずかに触れたラケシスの手。
彼女がもともとあまり体温が高くないことをベオウルフは既に知っていた。体を重ねた女でなくとも、そういったことが自然と記憶に残ってしまう。
(そういや、俺は昔からそうだったな)
この女は熱い、とか、この女は冷たい、とか。
そういった肌が感じる体温の情報をやたらと自分が覚えていることを彼は気付いた。
唇を重ねたときの湿り気や、絡めた舌の熱さ。
目の前にいるラケシスとも数回口付けを交わしたけれど、無理矢理口を開けさせて絡みとった舌も、あまり熱くなかった。
ただひとつ。
以前、ベオウルフの肩口に彼女が歯を立てたとき。
その傷口から流れた、慣れた、ぬるりとした自分の血の感触。
あれだけが妙に生暖かく感じたことを覚えている。
「何?」
歩き出さずに自分をまじまじと見ているベオウルフに対して、ラケシスはわずかに眉根を寄せて視線を送った。
「いんや。喜んで運ばさせていただきますよ」
そういってベオウルフは小さく笑みを浮かべると、彼女の後をついて歩いていくのだった。

「ありがとう」
薪を運んだベオウルフに対して、ラケシスは簡単に礼を言うだけだった。
なんとなく、伝わる。
彼女はやはり何かをベオウルフに伝えたくて、けれど、その決心がなかなか出来ないのだ。
無言で二人はラケシスの部屋まで歩いてきたけれど、その間にも彼女の決心は固まらなかったようだ。
「それじゃあな」
ベオウルフは何も追求せずに、暖炉の側に薪を置いて出ていこうとする。
背中に感じるラケシスの気配は、明らかにとまどい、困っている。それを知りながらも彼は自分から手を差し伸べない。
「おやすみ、ラケシス」
軽く振り返ってベオウルフはそう言った。
暗い室内。わずかにちらつく暖炉の火と、ベッドの側にある小さなランプに照らされたラケシスは、唇を引き結んでベオウルフをみつめていた。
真っ向からかちあった視線を先にそらしたのはラケシスの方だ。
(しまったな)
ベオウルフは小さく溜息をついた。
この女を追い詰めて、出そうとしている言葉を殺しているのは俺の方だ。
シグルド公子と話したとおり、彼はまだラケシスが通常の状態に戻っているとは思っていない。
正直なところ今は一番難しい時期だ。誰にとって、といえば、ベオウルフにとって。
(俺は今、どれくらいこいつに手を貸してやらなきゃあ、いけねえのかなあ。大将)
何か言いたいのか?と言葉をふれば、きっと、そんなことはない、とはねのけられるだろう。
とはいえ、こうやって「言いたいことがあれば言えばいい」という態度をとっても、ことによればラケシスはいまだ言葉を飲み込んでしまうかもしれない。例えば、それが彼女なりのたどたどしいSOSのサインだとしても。
(何が正解か、何が不正解か、なんて誰にもわかりゃしねえんだ)
そんなには自信が無い、とベオウルフは思う。
自分はエルトシャンのように、ラケシスにとっての神になぞなれないし、なる気もない。
と、そのとき思い切ったようにラケシスはベオウルフに声をかけた。
「ベオウルフ、一つだけ教えて」
「うん?」
「以前、お前は、わたしに約束できないと言ったわね」
「・・・言ったな」
ベオウルフは肩をすくめてその言葉を認めた。

(誓って頂戴)
(何を)
ベオウルフに壁におしつけられ、か細い肩に、首筋に、そっと口付けをうけながらラケシスは震える声で言った。
(お前は、わたしの前から消えないで。それが誓えないなら、もう、わたしの傍にこないで)
それは、今思えばなんという愛の言葉なのだろうか。それを発しているラケシスには多分その認識はなかったのだろうが。
(駄目だ)
そう言ってベオウルフはラケシスの、白く、形が良い耳を噛んだ。彼女の体がびくりとこわばり、反射的に右手がベオウルフの服を掴む。
(責任とれないことは、誓えない。いくらいい加減な男でもな。俺は、あんたが思ってるほどあんたの渇きを潤すことは多分出来やしないよ)
あの時、それを拒絶の言葉とラケシスは受け取っただろうか。
いいや、そうではない。そうではないのだ。
彼女には難しかったのかもしれないが、これは多分彼なりの愛情の篭った言葉だったのだろう。

そんな過去のことを思い出しながらベオウルフはラケシスをみつめた。彼女は淡々と言葉を続ける。
「そして、もう少しだけわたしの側にいてもいいかと、お前の方から言ったわ」
「ああ、言ったな」
そこでラケシスの言葉は止まった。
過去の繰言でも始まるのか、とベオウルフはぴくりと右眉を動かしたけれど、どうもそういうわけでもないらしい。
教えて、といったからには、彼女の口からはベオウルフへの問いかけが発せられるはずだ。
けれども、それを聞くにはベオウルフの予想よりも遥かに長い時間がかかるようだった。
「・・・なんだ、質問がねえなら、もう行くぜ」
「・・・」
待って。
そんな簡単な言葉すら音にすることが出来ずにラケシスはベオウルフをみつめる。
ああ、まったく。どうすりゃいいんだ・・・ベオウルフは小さく溜息をついた。
「どうした。言葉にしにくいことなのか。それとも、言葉を選べないのか」
それすら答えが返ってこない。
わずかな苛立ちを感じながら、ベオウルフはラケシスに近づいた。
「言えよ、ラケシス」
「違うわ・・・」
ラケシスは首を横にふって、胸元のショールの合わせ目に手をやり、ぎゅ、とショールの端を握り締めた。
うつむきがちに、床に向けて小さく呟く。
「たくさん」
「うん」
「思うことがあって、そのうちの何を言えば、いいのかわからないのよ・・・」
「・・・ふうん」
「ただ、わかることは、お前に、聞きたいことが、あるっていうことなの・・・」
「へえ」
「・・・悪かったわ・・・気にしないで・・・おやすみなさい」
そう言ってラケシスはベオウルフに背を向けた。彼女の白いショール、美しい金髪は、暖炉のわずかな明かりに照らされて色を変えている。暖炉に目をやると、薪は残り少なくなっており、ぱちぱちと弾ける音すら耳に届かない。
ずるいな。
ベオウルフは心の中でそう呟き、持ってきた薪を結わえてある縄を勝手にほどいた。
がらがら、と音をたてて薪が崩れる。そのうちの数本を手にして、火を消さないように空間を開けて暖炉にくべながら彼はおもしろくなさそうに軽く唇を突き出した。彼がそんな子供めいた表情を作ることはとてもめずらしく、誰かが見ていれば驚いたことだろう。
突然ベオウルフがそんなことをするものだから、ラケシスは驚いて振り向いた。けれど、彼のその行為を止めるわけでもなく、立ち尽くしてその様子をみつめるだけだ。
やがて新しい薪にも火が移り、一層暖炉の火は明るさを増した。ベオウルフはしゃがみこんだまま、暖炉の火を見つめてラケシスに声をかけた。
「エスリンに」
その言葉を聞いて、ラケシスははっとなり、一歩ベオウルフに近づいた。
「大丈夫だと言ったそうだな。それは、お前はレンスターに行かない、ということなのか」
「言ったでしょう。考えている途中だって」
「そうだな」
「・・・お前にとっては、わたしは何者なのかしら。ノディオンの姫?エルトシャンの妹?シグルド軍の同胞?」
「それを聞いて、どうする」
「答えなさい」
久しぶりのその高飛車な物言いが、ベオウルフは嫌いではなかった。
「あんたにとって俺が何者なのか教えてくれたら、答えてやってもいいけどな」
「・・・お前は傭兵だわ。シグルド軍に雇われた傭兵でしょう」
「違いない。じゃあ、あんたはシグルド軍に身を寄せているノディオンの姫様だ」
「ノディオンの姫」
「こんな傭兵が、口を利いていいお相手じゃあ、ないな。さて、帰るとするか・・・あんたは、もうちっと暖炉にちゃんとあたって、暖かくした方がいい。ま、薪くべ係が必要なら、いつでも呼ぶがいいさ」
「ベオウルフ」
「何を考えているか、知らねえが」
立ち上がってベオウルフは手についている、薪からはがれた小さな木片をぱんぱん、と暖炉にはらい落とした。
「選ぶのは、間違いなくあんただ。俺は助言しねえよ」

ベオウルフが火を大きくしてくれた暖炉の前に座って、ラケシスはじっとその炎をみつめていた。
わたしは、エルトシャンの妹であり、そしてこの世界の誰よりもあの人を愛している人間だと思い込んでいた。
愛情を計る、目で見ることが出来る天秤はないけれど、この世界の誰よりもわたしの気持ちは重く、誰の気持ちを片側に乗せても揺らがないと思い込んでいた。
そして、その自分の気持ちを誇らしいとすら思っていた。
兄を慕う妹として。
嘘偽りなく、恥ずべきことではなく、誰にだって声を大きくして言えることだと。
どんな罵りでも、謗りでも、わたしは揺るがないと。
それは本当だったし、それがあの人への愛情だと深く思っていた。思い込んでいたのに。
(わたしは、エルトシャンの妹であり、ノディオンの姫。いつだってその二つは同一の意味をもつと思っていた。だけど・・・)
胸元のショールの合わせ目をぎゅっと握り締め、ラケシスは瞳を閉じた。
ぱちぱちと火の粉がはじける音。
わずかに、本当にわずかだけれど、外で風が吹く音が聞こえた。乾いたその音は、それを聞いただけで室温までも下げてしまう威力すら持つように感じる。
(わたしが、ノディオンの姫たる選択肢を選ぶことは、お兄様がわたしに託した遺志と違えないのだろうか)
シグルドがレンスター行きを薦めた理由はよくわかる。
エルトシャンの妻とその息子が行方不明であり、もしも生存していなければ、ラケシスはノディオンの最後の王族になってしまう。だから、この戦が終わるまでレンスターに身を寄せていろ、ということだ。
では、アイラは、ジャムカはどうなのだ。
それは、比較にはならないということを既にラケシスは知っていた。
いや、知っていた、というよりも、シグルドからうけた説明で再認識した、というべきだ。
この戦いの遠い始まりは、クルト王子のイザークへの遠征が深く関わっている。アイラもシャナンもそれを承知しており、彼らはイザークの王族として、生き延びると共に事の真意を確認することを自らの使命だと思っている。たとえシグルドがアイラとシャナンに、レンスターに行かないか、と話を持ちかけたとしても、彼らはその場で即決で断わるだろう。
ジャムカはヴェルダンの王子だけれど、ここシレジアでエーディンと婚礼をあげることが決まっている。
彼は祖国を裏切った王子という、真実を含んだ汚名を着ている。だからこそ、彼が正統なる王位継承者としてヴェルダンに帰って、民に対して償いをするには、彼が当時とった行為の正当性を彼自身で示す必要がある。だから、彼はシグルドと共にグランベルで真実を暴く必要があるのだ。自分のために。ヴェルダンの民のために、エーディンのために。
けれど。
確かにグランベルはグランベルの野心があって、アグストリアの地を配下に置こうとしたけれど、いつだってそのきっかけを作ったのはシャガール王の方だった。多くの非がグランベル側にあったとしても、正しく王たるものがとるべき選択肢を選んでいれば、アグストリアはあそこまで混乱に巻き込まれなかったはずだ。それは誰の目にも明らかだった。
そしてノディオン王エルトシャンはシャガールに逆らい、反逆者として処刑されてしまった。
そのこと自体はグランベルは何一つ手を下していない。アグストリア内の問題だ。
確かにグランベルの動きに巻き込まれ、いいようにされた感はあるけれど、ラケシスはアイラやジャムカほど、「ノディオンの王族として」この戦の結末を見届ける必要はないのだ。
(でも、お兄様の汚名も晴らさなければ・・・)
そう思うことに何故だかあまり力は入らない。
アグストリアの人間は、シャガールが愚かだったことを知っていたし、心有る者はみなエルトシャンの味方だった。
シャガールの暴挙のせいでアグストリアがグランベルにねじ伏せられたことも、常日頃からエルトシャンがシャガールの行いを可能な範囲で正そうとしていたことも、誰もが知っている。
であれば。
ラケシス自らがこの戦の成り行きを全て自分の目で見る必要はないようにも思える。
シグルドはこれらのことをラケシスに話し、レンスターに行くと良い、と告げた。
それに対して即答出来ず、そして今もまた考えているのは、ラケシスの脳裏にエルトシャンの姿がよぎったからだ。
大地の剣。
ラケシスは立ち上がった。
それから、ベッドの足元あたりにたてかけてある数本の愛用の剣の中から、彼女の手には少しだけ重い、決して扱いやすいとはいえない、兄から受け取った剣を手にした。
人を傷つけてでも。
誰かを切り伏せてでも、生き抜けと。
それは、単純に生きろという意味なの?それとも、戦い続けろという意味なの?
もはや誰のいらえもないその問いは、何回何十回、いや、何百回も繰り返したあてのないものだ。
少なくとも彼女は、どちらにせよ、生きるためには戦わなければいけないのだ、と彼女なりに結論を出して、そのための力を手に入れようとした。その成果としてマスターナイトの称号は、後からついてきただけのものだ。マスターナイトになることが目的だったわけではない。
ラケシスは鞘から剣を抜く。
ほとんど使うことがないため、なかなかこの剣は手に馴染んでくれない。
けれど、馴染まない方が良い・・・。彼女はそう思っていた。
わたしたちは。
こんな時代では、誰かの命の上で、生きていかねばならない。
それはいつも目を背けている事実だ。
けれども、兄エルトシャンはそれをよく知っていて、そして。
それを知らない愚かな人間によって命を奪われた。
そしてラケシス自身もまた、そんなことは考えたことがなかった。
自分はとても愚かだったのだと、今ならばわかる。
この剣を振るった最初の一太刀ではわからなかった。人の生命力を吸い取って自分の体を癒すこの魔剣の力に恐れおののくだけで、彼女はそこに凝縮されているこの時代の理に気付くこともなかった。
今ならばわかる。
戦わなければ、勝たなければ生きてはいけない。だから戦うし、勝ちたいと思う。
そのために誰の命を奪っても、それは仕方がない、だって戦だから。
誰もがわかっているそのことを、自分だって理解していると無意識に彼女は思っていた。
しかし、わかっていると思っていたそのことを、自分の体で実感してはまたそれは別の感情になってゆく。
切りつける。
悲しいことに慣れてしまった、人の肉を、骨を断つ感触。
そして当たり前のようにもろい人間の体からは血が吹き出て、命というものが奪われてゆく。
その奪われゆくものを彼女が手にする魔剣は吸い取る。
見ず知らず、ただ戦場で対峙した、二度と人生でまみえることもない名も知れぬ人間の命のひとかけで、剣を握るラケシスの傷ついた体は復元する。
わかっていたその無慈悲な真実で、自分の体が構成されてゆく。それに気付いたときにラケシスは気も狂わんばかりに叫びだしたい衝動にかられた。それを許さなかったのは、次から次に溢れ出す敵兵と、グランベルからの追っ手だったけれど。
そうまでして生きなければいけないのか。あなたがいないこの世界で。
なんて残酷なあなた。
「お兄様、わたし、剣を振るう道を選びましたの。お兄様がそうしろとおっしゃったのだと信じていましたし、わたし自身もそれが正しいと思ったものですから」
刃こぼれのない、磨きぬかれた剣を見つめて、ラケシスはそう呟いた。
「でも、それは、何者である自分がなすべきことなのか、わたし、よくわからないのです」
そっと鞘に剣を収めて、両腕で胸元に剣を抱く。
「わたしがノディオンの姫であれば、レンスターに身を寄せることが最善のことなのかしら。ノディオンの民のため、生き延びて、復興のための力をつけることも、わたしの使命なのかもしれない。でも、それは、お兄様がこの剣をわたしに下さった意味から離れてしまうのかしら?」
また死んだ人間のことを、とベオウルフは嘲笑するかもしれない、という思いがまったくないわけではない。それでもシグルドからの申し出の決断を下すには、何度も彼女は亡き兄の面影を追わずにはいられないのだ。
「エルトシャンの妹として、お兄様の親友であるシグルド公子をお助けするべきなのかしら。それとも逆に、あの方のご厚意に甘えるべきなのかしら。それは、まだ判断出来ない」
そんなことには意味がない、とベオウルフは笑うかもしれない。
ラケシスはそう思いながら、ふう、と小さくため息をついた。
エルトシャンが兄としてラケシスに何の期待をかけていたのかは、今となってはわからない。
答えの無いそれを考えるくらいなら、ノディオンの姫としてどうすべきなのかを考える方が余程楽な作業に思えた。けれど。
「けれど、わたしは、もしノディオンの姫という肩書きがなければ、レンスターには行かないのだと思うのです」
誰からのいらえもあるはずのない言葉をラケシスは紡ぎだす。それは、自分自身の考えを、音にして自分に認識させているようにも見える。
ラケシスは大地の剣を胸に抱いたまま、そっと床に膝をついて、暖炉の前に横向きでぺたりと座り込んだ。
左側の頬、肩、腕が火に照らされて熱くなる。
瞳を伏せて、ラケシスは上半身を前に倒す。彼女の美しい金髪が床に広がり、体を折ることでより一層大地の剣をきつくいだくようになる。人に切りつけたときは、まるで生き物のような動きを見せるのに、こうやっているとまったくの無機質なそれが、彼女の柔らかい体に食い込む。わずかな窮屈さすら心地よく思いながら、ラケシスは腕に更に力をいれて、自分の体と共に折ろうとしているかのように強く強く抱きしめる。
もしも、あんな風に別れるとわかっていれば。
もっともっと、こんな風に。
やがてラケシスはその手を緩めて、冷たい床に向かって囁く。体を折り曲げているせいで、大きな声は出せない。
「それが、どうしてなのかを考えるのが、怖い。そして、ノディオンの姫でなければ、なんていうことまで考えてしまっている自分が」
一体それは誰に対する言葉なのだろう。
言葉に出す自分が滑稽だとラケシスはおぼろげに思っていた。
ああ、これではまるで懺悔ではないか。
「そんな自分が、とても恥ずかしくて、心苦しいのです」
ぱちぱちと、火の粉がはじける音だけが、室内に響いていた。


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モドル

いやはや、書いているこっちも寒くてぶるぶるですヨ・・・。寒いよー!!(涙)
「渇いた花」ではベオの一人称だったのでラケシスの心の動きがベオサイドでしか見られなかったので、今回は比較的ラケサイドですね。