片言の祈り-5-

針を持つのは、久しぶりだ。何故自分が裁縫なんてものに興味を示したのかを、ラケシスは鮮明に覚えている。
あれは、まだ自分が11歳くらいだったと記憶している。あの日は、兄エルトシャンと二人だけで食事をしていた。
そう、確か、久しぶりにエルトシャンが城に戻ってきて、自分は嬉しかったのだ、とそんなことまで覚えている自分の脳が、うらめしくさえ思える。
エルトシャンが着ていた上着の袖口の金ボタンが食事中に落ちた。
二人が使うシルバーの僅かな音しか聞こえていなかった食堂に、異質な音が響く。
給仕をしていた女中が慌ててそれを拾って、その場で深々とエルトシャンに謝罪をしていた。共にその室内に控えていた女中達もやってきて、頭を下げる。
ボタンを縫い付けた糸が緩んでいたことに気付かなかったのは自分達の責任だと。
もし、これが外出先でのことであれば・・・と思えば、彼女たちの慌てぶりも理解出来る。
手にしていたシルバーを作法通りに置いて、エルトシャンは女中達に穏やかに言った。
「良い。その代わり、すぐに縫い付けてくれ」
エルトシャンはチーフで軽く口元を拭うと立ち上がって、落ち着いた仕草で上着を脱いだ。
彼はさまざまなことに厳しい男ではあったけれど、無意味な威圧を人にする人間ではない。
「は、はい!ただいま・・・!」
上着を受け取ると一人の女中は慌てて、けれど決して音をうるさく立てずに別室にさがっていった。
それを見ながらラケシスは、エルトシャンが言うことはよくわからない、と思ったものだ。
ボタンが取れた衣類をラケシスは二度と袖を通さない。それは、彼女にとってはその衣類の寿命とも言えるから。
わざわざボタンを再び縫い付けてまでも着たいと思えるドレスなぞ彼女にはなにひとつなかったし、それで問題はないほど彼女のクローゼットには大量のドレスが並んでいたのだ。
エルトシャンが座り直したことを確認して、ラケシスは口を開いた。
「お兄様、わざわざボタンをつけさせることもないではありませんか」
「何故?」
「たくさんお召し物があるのですから、お着替えになればよろしいでしょ」
そのラケシスの問いかけに、エルトシャンは微笑と共に答えた。それは、彼が妹だけに時折見せる、兄の表情だ。
「これは今日訪問するバータス伯爵がわざわざ取り寄せてくれた上着だから、着ているところを見せたいのだ。きっと喜んでくれると思ってな。伯爵は先日グランベルに私が行く道中、助けてもらったことだし」
「・・・そうですか」
お兄様を助けるのは、臣下として当然ではないですか・・・そう言おうとしてラケシスは黙った。
エルトシャンにとって重要なことは、助けてもらった、もらわなかった、ということではなく、その上着を着ていくことで伯爵を喜ばせることが出来るということだ。
今一歩それにはぴんとこなかったけれど、エルトシャンが言うことはいつも正しいとラケシスは思うから、それ以上は何も言わず食事を続ける。
やがて食事が終わる頃、上着をもった女中が戻ってきた。
「ありがとう」
「いいえ、いいえ、滅相もございません・・・」
先ほど落ちた金ボタンは既にきっちりと袖口で光っている。
あのボタンを、この女中がつけたのか。
・・・その思いは、ラケシスが生まれて初めて自覚した、明らかな嫉妬だったのかもしれない。
その場では何も感じないふりをして、ラケシスはデザートをそっと口に運んでいた。
彼女は、自分がエルトシャンに関することが感情が動きすぎることを、兄には知られたくないと思っていた。
きっとそれを知れば、兄エルトシャンは彼女を優しく、けれどもはっきりと非難すると思えていたからだ。
そうして、エルトシャンを見送った後、ラケシスは彼女付きの、最も信頼している(とはいえ、その信頼といってもたかだか知れたものだが)女中を呼びつけて、裁縫を習い始めたのだった。
「痛っ・・・」
けれども、針の使い方を体が覚えているほどは、裁縫に夢中にはならなかった。
やってはみたもののおもしろさは感じなかったし、その行為すらエルトシャンという存在があってこそのものだったし。
おかげさまで久しぶりの裁縫は、とてもぎこちない。
暖炉の前から少し離れて、窓から入ってくる自然光の中でラケシスは小さな袋を縫っていた。
彼女はなれない手つきで、ポプリを入れる匂い袋、サシェを作る。
とはいえ、冬の花は少ないから、秋までの花で作ったポプリに香油を垂らす事で代用しなければいけない。
(ラケシスはお前の周囲にいる人間に力を与えてくれる。ノディオン王家の正統な王女としての力を備えている)
エルトシャンが生前彼女を褒め称えた言葉だ。
あるときラケシスは、その自分の力が少しでもエルトシャンの役に立てば、と国境警備の視察に赴くエルトシャンにこのサシェを作った。視察とはいえ長期の滞在になるという話だったからだ。
一針縫うごとにエルトシャンのことを思っていた。
とてもおこがましいかもしれないけれど、お兄様が認めてくださる、わたしの力が、このサシェを通して少しでもお兄様のお役にたちますように・・・。
そんな願いを込めた、幼かった自分をラケシスは思い出す。
どんな過去を思い出しても、そこにはエルトシャンの姿が思い浮かんでくる。やはり、今ここで生きている自分という人間は、エルトシャンの存在を頼りにして生き続けて来たのだろうと思えた。
「ふう・・・」
疲れたな、と手を休めて、ラケシスは窓の外に広がる冬の空に視線を動かした。
春になれば、ここシレジアも花が咲き乱れるのだろうか。
それは、よくわからない。
わからないけれど、キュアン達が越えていく予定のイード砂漠には、花が咲かないだろう。それは知っている。
彼らにとってはエスリンの笑顔が、春の花の代わりになるのだろうけれど。
せめてこの香りと。
それから、無事にレンスターに彼らが到着するように、心をこめて。
(誰かのために何かを作るって、嬉しいことだもの)
エスリンの言葉が、ラケシスの胸に響く。
誰かのため?
そんな、不特定多数の人間のために、自分が何かをすることは今まで無かった。
ラケシスはいつでもエルトシャンのことしか見ていなかったし、エルトシャン以上に自分の心を揺さぶる人間なぞ、この世界にはいなかったのだから。
きっと、以前のラケシスがエスリンの言葉を聞けば、「誰かのため」という言葉は「エルトシャンのため」以外の意味をもたなかっただろう。
けれど、もうこの世界にはエルトシャンはいない。
そして、自分はキュアン達のために今こうやってサシェを作っている。
そのことをエルトシャンは許してくれるのだろうか?
許してくれるに決まっている。ラケシスのために、シグルドを呼ぶことを躊躇していた、あの心優しいエスリンのために、何かを返したいと思うことは、恥ずかしいことではない。
そんな風に心が動くほど、エスリンが淹れてくれた茶は美味しかったのだから、とラケシスは誰に言うともなく心の中で自己弁護をした。
それに。
「認めたくないけど、あの男の力が、わたしには必要だったのだもの」
声に出して呟いたその言葉は、自分で思っていたよりも大きく部屋の空気を震わせ、ラケシスの耳に戻ってくる。
そのことに驚いて、自分しかいない室内だというのにラケシスははっと周りを見渡した。
怖い。
「さ、続きを・・・」
一瞬自分が抱いた恐怖感を消すように、ラケシスは無理矢理声にして針を持ち直した。
考えてはいけない。口に出してはいけない。誰かに聞かれてはいけない。
自分の中に生まれた新しい何かを認めることは、怖い。
薄々感じている、自分が「揺れて」いるという自覚。
エルトシャン以外の人間から作られたことがない、心の中に広がって消えずに残っている波紋。
それに対する恐怖をかき消すために、ラケシスはおぼつかない手つきで布に針を突き刺した。

ジャムカとエーディンの婚礼の儀を執り行う日が近づいて、女性陣はみな「何を着れば良いか」で話が盛り上がっていた。
シレジアに来て初め、シグルド軍はみなラーナ王妃に養ってもらっている形だった。
しかし、城をひとつ与えられての滞在ということは、実質城下町を治めるということだ。
当然セイレーン城にはレヴィンがいるから、城下町の人々にとってはレヴィンが城の主という扱いになる。
そういったことが苦手なあの王子は、シグルドにおおよそのことをまかせて、相変わらず「それらしい」ことは出来ないのだけれど、持って生まれた性質であるからそれもしかたがないことなのかもしれない。
ともかく、シグルドは何かラーナに、シレジアの民に恩返しもしなければという気持ちが強いから、何かしら働こうと努めて皆で幾度となく相談を繰り返した。結果、彼らが出来ることはシレジア兵と同じく城下町の警備と、あるいは人手が足りない、統治者がしなければいけない事業の手伝いではないか、と行き着いた。
クロードのように教会の手伝いをする者もいれば(当然シルヴィアもくっついていって何かしら手伝ってはいるが)シアルフィの三騎士は最近、あまりに古くなった城下町の道工事の手伝いをしている。
キュアンやエスリンはレンスター王家といっても、あまり分け隔てがある人々ではなかったから、何かあればよしきた、とばかりに自ら手伝いに赴くほどだ。ジャムカなぞ、そんな話が出る以前から城下町の人間に混じって冬前の狩りを手伝っていたくらいであったし。今は今で、冬の狩りの仕方を人々から教わっている始末だ。
ラケシスでさえ、時折「馬で荷物を運びたい」との申し出に借り出されることもある。
そういったわけで、彼らはラーナの特別客ではあったけれど、労働を何ひとつしていないわけではない。そうでなければラケシスやアイラはともかく、ブリギッドやティルテュは「何もしないのにドレスをいただくなんて・・・」と腰がひけて、それどころではなかったことだろう。
式はとてもこじんまりととりおこなわれることになっていた。シグルド軍全員とラーナ王妃だけが参列者だ。
それでもお祝いの気持ちをこめて、女性達は正式な場に赴くためのドレスを選ぶことがマナーであったし、騎士達は出来得る限りの正装で身を包みたいと思っているに違いない。
そんなわけで、ラーナが派遣してくれた仕立て屋はセイレーン城の広間でその日一日、女性陣達にああだこうだ言われながらドレスのお仕立ての相談を受けていた。
もちろんラケシスも例外ではなく、その場に赴いた。
仕立て屋は彼女がノディオンの王女だということは知らなかったけれど、布に対する知識やドレスの仕立てに対する的確な注文を受け、そういったことに手馴れた人間だということを嗅ぎつけたらしく、対応がいささかぎこちなくなっていた。
ラケシスの髪の色はシレジア人のものではない。
国外の人間でここまでお仕立てに手馴れている、と思えば、他国の貴族・・・それもうんと位が高い・・・と想像するのはたやすいことだろう。
その場に居合わせたブリギッドは目を丸くして
「王女様ってのは、ある意味すごいねえ!あたしはあんな風に仕立て屋にわかるように話せないし、なんてったってご要望とやらもないんだもの」
と隣にいたアイラに言った。
それを聞いてアイラは
「残念ながらわたしも王族だが、とんと持ち合わせていない才能だな」
とさらりと答えるものだから、ブリギッドは豪快に「それは悪かった」といいながら笑った。アイラの方は、何が「悪かった」のかわかっていないようで、その様子の方がラケシスにとっては可笑しく思えたものだ。
布を選ぶときにラケシスの頭を掠めたのは、以前ラーナ王妃から皆に、と配られた可愛らしい練り紅のことだ。
あれを唇に差して似合う色は、どれだろう。
その紅を思い出した途端
(その色は、あんたによく似合う)
脳裏に鮮明に湧き上がってくるベオウルフの言葉。
そのときの声音や、彼の表情ばかりではなく、それを聞いて安堵した自分の気持ちですら正確に思い出すことが出来てしまう。
ラケシスは手にした布地を置いて、はあ、と小さく溜息をついた。こんなときにあの男を思い出すなんて、どうかしている。
「あっ、あっ、お気に召す織布がございませんか?」
慌てて仕立て屋はそう言って、まだ出していない布地を大きな袋から出してひろげようとした。
「ああ、違うわ。気にしないで、違うことで」
「そ、そうでございますか」
「この生地がいいわ。冬らしいし、色が気に入った」
そういいながらラケシスは仕立て屋がもってきたたくさんのデザインを書き留めた紙に目を通す。
やがて、その中から非常にシンプルな形のドレスを選んで
「この布をこの形に仕立てて頂戴。この胸元のリボンはつけなくていいわ。これは、背中が開いているのね?」
「はい、そうでございます」
「冬らしく、このドレスの上に羽織るケープを一緒に作って頂戴。長さはここまでよ」
自分の二の腕で位置をしめすと、手馴れたように仕立て屋は長さを測る。そうやって測られている時の姿勢や緊張の度合いも手馴れた人間のものだ。
「腕をあげやすいように、前は開けるようにして。わかるかしら?」
「はあ、こんな感じでしょうかね」
かりかり、と手早く仕立て屋は図に描く。またもそれをみてブリギッドとアイラは顔を見合わせてしきりに感心する。
ラケシスは冷静にあまり時間もかけずにその図面を確認して、ケープをとめるボタンの位置だけ自分で書きいれて注文を終えた。
それから「じゃあ、それでお願いするわ」と仕立て屋に言うと、もう他の布地には目もくれないで立ち上がった。
「お先に」
「はいよ。勉強になった」
ブリギッドはそうラケシスに声をかける。ラケシスはそれへ小さく微笑んだだけでさっさと広間から出て行ってしまう。
残された二人はその直後
「適当にやってくれ」
と仕立て屋が非常に困る注文をすることになるのだが。

馬屋に行こうと歩いていると、偶然にもベオウルフがそちらから歩いてくるところにでくわした。彼にしてはめずらしく外套を手にしていて雪を掃っているから、外出して戻ってきたところに違いない。
ラケシスは何も言わずに通り過ぎようとしたけれど、案の定ベオウルフの方から声をかけてくる。
「よう、仕立て屋が来てるって話だが、もう済んだのかい」
「済んだわ」
足を止めて冷静にラケシスは答える。
「そうかい。それは楽しみなことだ」
にやにやとベオウルフは笑って、外套を肩によいしょ、とかけた。ラケシスは不快さを表情に出しながら言う。
「何故お前に楽しみにされなくちゃならないの」
「うん?たまには着飾ったあんたのことも見てみたいと思ってな」
「別にお前に見てもらいたくて着飾るわけじゃないわ」
「そりゃそうだ。ジャムカ達を祝うために着飾るんだろ」
当たり前のことを言えば当たり前のことをわざわざ返すベオウルフに、ラケシスはわずかな苛立ちを感じた。
それを口に出さないように心の中で呟く。
この男はいつもいつも。
その次に続く言葉は、彼を罵倒する言葉ではなくて。
「・・・そんな、馬鹿げている」
「うん?何か言ったか?」
「なんでもないわ」
「そういや、この前なんか俺に聞きたいことがあるっていってたな。あれはどーなったんだ」
呑気にそう言われることが、またラケシスの苛立ちを煽る。
ベオウルフとしては別に彼女の気を逆撫でするつもりは何ひとつなく、そろそろラケシスも言いたかったことをきちんと言えるのではないか、と妥協して彼から手を差し伸べてやっているつもりなのだ。
けれど、ラケシスはその言葉を聞けばすぐに
「もう、いいの。忘れて。お前に聞きたかったことは、意味が無いことだったから」
「・・・そうかい、ならいいんだが」
本当かよ、と言いたそうなベオウルフの視線は、いつもと変わらないはずなのになんだか痛い、とラケシスは思う。
彼の目を見て話すことが出来ない自分に気付いて焦る。
「なんだかご機嫌斜めみてえだな。くわばらくわばら」
そう言ってベオウルフは歩き出した。二人はすれ違ってお互い背を向け合った状態で距離が離れてゆく。と、ラケシスは振り返らずに去ろうとした男を背中越しに呼ぶ。
「ベオウルフ」
「あん?」
呼ばれてベオウルフは立ち止まり、顔だけ振り向いた。が、ラケシスはベオウルフを見ることなく完全に背を向けたまま言葉を続けた。
「わたしは、レンスターに行かないことにしたわ」
「そうかい。あんたが自分で決めたことならそれでいいんじゃないか」
「・・・言うことは、それだけ?」
「なんだ?」
ベオウルフは体をラケシスの方にむけたけれど、ラケシスは動かない。
「わたしに、何か言うことは、ないのかしら」
「・・・いや・・・?」
怪訝そうにベオウルフは眉根をよせ、振り向きもしないラケシスの後姿をみつめた。
二人の間にわずかな沈黙が訪れる。
ベオウルフはラケシスが言う意味がわからないし、追求するほど優しくしてやろうとも思っていない。
ラケシスもまた、それ以上ベオウルフに自分から言葉を与えるつもりもなかった。
やがて、誰かが歩いてくる音が聞こえ、ラケシスが先に沈黙をやぶった。
「それなら、いいわ。それじゃ」
かつかつと音をたててラケシスは歩き出す。ベオウルフはその後姿を怪訝そうにただただ見つめるだけだった。

忌々しい。
歩きながらラケシスは自然と険しい表情になる。
あの男は、いつもいつも、どうしてわたしの気持ちを穏やかにしてくれないの?
もうたくさんだわ。
エスリン様の言葉やお気持ちに動いた自分の気持ちは、とても好ましいと思えるけれど。
わたしは、あの男に動かされるこの気持ちを、好ましいとは思えない。
気がつけばラケシスはどんどん足早になってゆき、馬屋に行くつもりだったその足は、そのまま自室へ戻ろうと方向を変えてしまう。
体が熱くなってきた。
きっと、今自分は真っ赤な顔をしているのだろう、とラケシスは思う。
まるで泣く寸前のように、体の中に普段静まっている何かがせりあがってくる感触に彼女は怯えた。
滅多に聞かないほど速い自分の足音だけが通路に響く。それは自分の耳から頭に入ってきて、まるで彼女を責めたてるように反響し続けるように思えた。
走らなければいけないほど自分の中の不思議な緊張が高まっているのだと思うと、それが更に彼女の焦りをかきたてる。
お願い、誰にも、会わないで。
どうやらその願いは聞き遂げられたらしく、ラケシスは誰一人と会わないまま自分の部屋にたどり着くことが出来た。
ばたん、と大きな音をたてて彼女が扉を開け閉めすることはめずらしい。
大きな音と共に彼女はするりと自室にはいった。
はぁ、はぁ、と息が荒くなっていたことをそれからようやく気付く。
どうして、私はこんな気持ちになっているの?
たった一人の部屋に戻ってきても、なんだかいたたまれなくてラケシスはベッドの足元の床に座り込んだ。
部屋は寒かった。それでも、その寒さの中にいなければ、自分の体に湧き上がったこの熱い何かを冷ますことが出来ないように思えて、彼女はひざを抱えてうずくまる。
ラケシス、床の上に座り込むなぞ、はしたない。それに体が冷えるだろう?椅子におすわり。
エルトシャンの声が聞こえたような気がした。
それでもラケシスはその場から動けずにひざを抱えてうずくまった。
私は。
ベオウルフの口から、聞きたかったのだ。
レンスターに俺は行く、と。
思い当たった自分の感情に彼女は驚き、芯まで冷えていく体温とは裏腹に熱い感情が湧き上がることに気付く。
それは憤りとか、失望とか、それから、悲しみ。
「嫌。そんなわけない」
気付きたくなかった現実に直面する時が来てしまったのだということをラケシスは薄々勘付いていた。
聞きたかったのに言ってくれないから、それで自分は駄々をこねている子供のように怒っているのだろうか。
そんなわけはない。そんな理由で苛立つのはおかど違いだ。
ただ自分は・・・。
自分から離れるときに、ベオウルフが何も自分に告げないなんて。
以前、もう少し傍にいていいか、と聞いてきたのはベオウルフのほうだった。
いつか彼が、ラケシスが知るわけが無い場所に去っていくことなぞ、わかっていたことだ。
たまたまそれがレンスターだということだけだった。
レンスターに行かない、とラケシスが告げたときのベオウルフの反応が憎いと思ってしまったのは何故なのだろう。
彼からの言葉を聞きたかった、ということが正解なのではない。
何も告げてもらえない、その程度の間柄だったのかと心のどこかで失望していることに気付いて、彼女はとても動揺している。
「しっかりしなさい、ラケシス。お前は、ノディオンの王女なのよ。自分で決めたことじゃないの」
レンスターに行かない、とベオウルフに告げなければ、まだ間に合ったのかもしれない。
そう思っている自分がいるということに、目を背けることが出来なくなってしまった嫌な現実。
間に合う?何に間に合うというのだろう。
自分もレンスターに行く?
そんなこと、出来るわけがない。あれだけ考えて出した結果を、何故あの男によって覆されなければいけないのだろう。
エスリンによって心が動くことは嫌ではない。だって、エスリンはラケシスを傷つけないから。
ベオウルフによって心が揺れることは許せない。だって、それは。
ノディオンの王女である自分を、時折見失ってしまうから。
それはどうして?
考えたくない、とラケシスは思った。涙が出そうになったけれど、まるで流れる前に蒸発してしまっているように思える。
だって、ずっと体は泣きだす寸前の警告をラケシスに送っているけれど、いっこうに両眼からそれは流れ出てこない。
自分が何かを待っているような気がした。涙を流すために、そっと後押しをしてくれる、なにか。
でも自分は別に泣きたいわけでもないし、泣いたから何が変わるというわけでもない。何も必要としていない。
・・・けれど。
「・・・あ」
こんなときにベオウルフに口付けられたら、きっと涙は止まらず流れ出すに違いない。
そんな想像をした自分が恥ずかしくて、ラケシスは強く自分の膝を抱えた。
押し付けた自分の体はとても冷たいけれど、そんなことはどうだっていい。
わたしは混乱している。もう、何も考えたくない。
早く夜になって。眠っている間は何も考えずに済むから。

ジャムカとエーディンを祝うためにラケシスが選んだドレスは、肩をケープで覆う形になっている、それ以外はとてもシンプルな長いドレスだった。体のラインにそったワインカラーの温かな生地で仕立ててあるドレスを受け取り一度だけ試着したけれど、満足が出来る完成度だと思えた。
自分だけが特別扱いを受けるわけにもいかない、このセイレーン城の生活では、明日の儀式のためのドレスは自分の部屋に持ち込んで着替えも自分で行うことになっている。髪の毛をあげるくらいは女中に手伝ってもらわなくてはいけないだろうけれど、彼女たちは彼女たちでラーナを迎え入れるための準備が忙しいから、出来る限り自分でしなければいけない、とラケシスも理解はしていた。
外は雪が静かに降っていた。
吹雪かないといいけれど、と夕方からずっと思っていたが、どうやらただ静かに舞い降りてくるだけで荒れる心配はないらしい。ラーナは天馬騎士と共に天馬に乗って明日こちらに向かってくるだろうから、吹雪いていなければなんとかなる。
「これで、終り・・・っと」
ラケシスは満足そうに呟いて、針箱に裁縫道具を閉まった。
婚礼が終われば、キュアン達は気候と相談してレンスターに向かう日取りを決める。
実際シレジア領地を出るのが遅くなるとしても、少なくともセイレーン城を出るのはそうそう後のことではないと思える。
ラケシスは彼らに贈るサシェを作り終えて、小さなテーブルの上に並べた。
レンスターまで、ご無事でたどり着けますように。
その気持ちを込めて作り上げたサシェは、今は芳しい香りを放っている。
けれど、道中は長いし、砂漠の気候ではこの香りも早々と外に放たれてしまうに違いない。だから、ラケシスが願うことは彼らがレンスターにたどり着くまでの小さな願いだけだ。そして、レンスターについたら、このサシェにもう一度香油を注すなりポプリを入れ替えるなりして、繰り返し使ってもらえたら嬉しいと思う。
キュアンやエスリン、それからフィンは、とまどいながらも受け取ってくれるだろう。
そして、エスリンはいつも通りの笑顔で「ありがとう」と言うに違いない。
ラケシスは彼女を泣かせてしまったことを思い出す。あの瞬間まで、そこまでエスリンが自分のことを心配してくれたことすらラケシスはわかっていなかった。ただ、気を使ってくれている。その程度の認識だったのに。
自分は、人のことを深く思ってあげることが出来ない薄っぺらな人間だと心のどこかで自分を苛む声がする。
エスリンはあんなに自分のことを思ってくれていたのに、私は。
ラケシスにとってはエルトシャンだけが唯一の人間で、それ以外の人間の心の動きなぞ、これまでの彼女にとってはどうでもよかった。それを恥じたことはなかった。でも。
(私は、変わったのかもしれない)
暖炉の火に照らされたサシェ。
キュアンのサシェ、エスリンのサシェ、フィンのサシェ。それから。
とんとん。
小さなノックの音が室内に響いた。
「どなた?」
「夜分申し訳ございません、フュリーです」
「ちょっと待って頂戴」
ラケシスは慌てて扉を開けた。こんな夜にフュリーがくるような用事にはとんと思い当たる節がない。
扉を開けると、またフュリーはラーナからもらったショールを肩にかけてそこに立っていた。吐く息は白い。
ラケシスがお入りなさい、と一言言うと、すぐすみますので、と彼女は辞退した。
本当は入ってもらったほうがラケシスも冷えずに済むのだけれど、フュリーのその辞退には悪気があるわけではなく、むしろ気づかいの結果なのだからしかたがない。
「どうしたの」
「明日のエーディン様の婚礼の儀の前に、女中が御髪の方を結ってくれる時間が出来そうなのでお伝えに来ました。ラケシス様はどうなさいますか?」
「ああ、もしそうしてもらえるならば、お願いしたいわ」
「わかりました。それでは、明日朝食時に給仕をしている女中にお申し付けくだされば、良いお時間に御髪を結いに来させられますので」
朝食の時間はみなばらばらだ。婚礼の儀は午後行われるから午前中にラーナ王妃はシレジア城から出発するだろうし、セイレーン城にいる皆は昼食を食べてから儀式に参列するから時間に余裕はある。
「助かるわ」
昔であれば当然であるそのことに、そんなコメントが口をついて出た自分をラケシスは驚いた。
ああ、自分は変わったのかもしれない、なんてことをまたぼんやりと思う。
「それから、わたくしは明日、婚礼の儀が終わりましたらラーナ王妃と共にザクソン城に向かいますので、二日ほど不在にいたします。突然決まったことなのでみなさん全員お揃いのところでお話出来なかったことをお詫びいたします」
「ザクソン城・・・・ああ、砂漠手前のお城かしら?」
ザクソン城主とラーナがあまり折り合いがよくないことは、ラケシスも小耳に挟んでいる。
何故わざわざそんなところにラーナ共々出向く必要があるのだろう?とラケシスは怪訝そうな表情を見せた。
「ええ。キュアン様達ご三方がレンスターに帰還なさる際、ザクソン城にてお体を休めるお願いをラーナ様直々にしてくださるそうで・・・」
なるほど、キュアン達がレンスターに帰ろうとすれば、ザクソン城方面にひとまず向かうことにもなる。
長旅になるわけだから、シレジアを出る手前でもう一度食糧補給やら何やらをする場所が必要だ、とラーナがわざわざ気を利かせてくれたのに違いない。
「・・・え?」
と、ラケシスはフュリーの言葉でひっかかりを覚える。
「今、何て言ったの・・・?」
「は、はい?えーと、キュアン様達がレンスターに帰る際に・・・」
何を聞き返されたのかよくわかっていないフュリーは、困ったようにもう一度、言葉を変えてラケシスに返事をする。
「何人、って言ったの?」
「あ、もちろん、ご三方です」
それを聞いてラケシスは、彼女にしてはめずらしい「つい口に出てしまった」ように言葉を滑り出してしまう。
「ベオウルフは・・・?」
「はい?」
「ベオウルフは?」
フュリーはその言葉の意味を取り違えたように、とまどいがちに
「ベオウルフさんは・・・夜ですから、ご自室にいらっしゃるのでは?」
その、自分の質問の意図を汲み取らない回答を聞いて、ラケシスはようやく自分が何を口走ったのかを気付いた。
なんとか平静を装ってフュリーをこの場から早く返さなければ。
「・・・そ、そうよね。・・・ありがとう、フュリー。それじゃあ、明日は女中にお願いするわ」
「はい。そのように伝えておきます。今日は雪が降り続きますから、温かくしてお休みください」
「ええ。あなたも。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
温和な天馬騎士は礼儀正しく頭を下げて、その場から離れた。
ぱたん、と扉を閉めて、ラケシスはしばしの間閉ざされたその扉を見つめる。
フュリーが歩いていく音はもう聞こえない。もともと彼女は音をあまりたてない歩き方だし、今が夜であることで気をつけているに違いないし。
そんなどうでもいいことを思いながら、ラケシスは少しだけ瞬きを忘れていた。
「ふ・・・ふふ・・・」
そして、声が突然漏れた。
自嘲気味な笑い。
ベオウルフはレンスターに行かない。かも、しれない。
オイフェとシャナンが言っていたことが間違っているのだろうか?
それとも、純粋にフュリーは、ベオウルフのことを聞かされていなかったのだろうか?
そんなことは、どっちだっていい。
ラケシスは振り返って、サシェを並べたテーブルを見た。
キュアンのサシェ、エスリンのサシェ、フィンのサシェ。それから。
暖炉の火は柔らかな色で、それらのサシェを彩っている。
「馬鹿ね。馬鹿だわ、わたし。どうかしているわ」
問題なのは、ベオウルフがレンスターに行くこと、行かないこと、ではないのだ。
ラケシスは余り布で作った、それゆえにちょっとだけ他のものより小さな四つめのサシェをつかんだ。
そうよ。これは、余ったから作っただけのもの。
誰にあげようと思っていたものでもないの。
だって、そうじゃない?あの男がこんなものを必要とすると思えないし、こんな香りは傭兵には邪魔だって絶対言うに決まっているし。
手にしたサシェを、ラケシスは無造作に暖炉に放り投げる。
力なく投げ捨てられたそれは、ぽとりと寂しげに、暖炉の手前側に落ちる。
ほどなく火はそれに燃え移り、綺麗に焼けてしまうことだろう。
朝がくればサシェが四つあったことなぞ、ラケシスの頭の中からも消えてしまうに違いない。いや、消えて欲しいと思えた。
「どうだっていい。あの男がレンスターに行こうが、行くまいが。だってわたしはレンスターに行かないのだし、あの男のことなんてどうでもいいのだし」
そう呟いて、ラケシスはしばらく燃える炎を見つめていた。
それから、彼女は突然部屋を飛び出ていった。
冷え冷えとした通路に、部屋着とショール一枚の姿で。


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モドル

長かった・・・何が長かったかといいますと・・・アレナン小説Missing Linkでアルテナが持っていた匂い袋は、実はエスリンの形見であり、そしてラケシスが作ったものだ、という自己満足裏設定でございます(照)ラケシスが作ったものがめぐりめぐってナンナを助けているのですけれど、それは多分誰も知らないのでしょう。フィンが見れば一発でバレるんだけど(笑)中身は既に荒廃しているトラキアの地に咲く強い花の香りになっていますが、サシェは。
ここに来るまで一体何年かかってるんだ、あたくしは・・・。(涙)